体でどう感じているか | スピリチュアルに生きる!

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吃音・社会(社交)不安障害、脇見恐怖症など心の病で長年悩んできました。
問題だと思っていた事は問題ではなかったと気づき、今、自分の生きたい人生を創っています♪(*^^*)
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フォーカシングのセッションを受けて、私のやり方は間違っていたなぁと気づきました。


私は、イメージは出てくるんだけど、それを体でどう感じているかがわからないのです。


そのイメージを体のどこの部分で感じているのか・・・


?????






ぬらりひょんをイメージしている時は、わかるんです。


第4チャクラと言われている胸の真ん中の部分がものすごく反応しているし、


そこからあたたかい光が出てくる感じ。


いや、光はイメージかぁ。


どんな感じ?


あれ~~やっぱりわかってないんかなぁ。


ただ、胸でそれを感じてるのはわかる、って感じです。


あたたかさは感じなのかな?





だけど、フォーカシングを受けている時に出て来たイメージは、どこで感じているのか


ハッキリはわかりませんでした。





フォーカシングの本を読みなおしてみると・・・・


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イメージも確かにフォーカシングの一部です。



イメージを上手に使えば、フォーカシングのプロセスを大きく進めてくれます。



でも、いくつか落とし穴があるので気をつけましょう。



イメージが次々と展開するのに心を奪われて、からだのことを忘れてしまい、



体が感じるフェルトセンスとのつながりがないまま、



自分の内に展開する映画のようなものをただ眺めることにもなりかねません。





私や~~。


私これや~~。






イメージが出てきた時には、それがからだの内側で感じられているのか、



それとも目の前に見えているのか確認しましょう。



この区別は決定的に重要です。







もし、あなたのイメージが体感的なイメージ、からだの内側で感じているイメージならば、



何も問題ありません。



一方、視覚的なイメージは、からだの感じから離れてしまいがちです。



もし、視覚的なイメージが出てきたら、からだに見せてあげて、そのイメージについて



どんな感じになるか尋ねてください。



イメージを捨てるのではなく、イメージにからだの感じを加えるのです。



好きなだけイメージを見てもいいのですが、そのたびにからだに戻って、



からだではどう感じているか確かめることを忘れないでください。






↑↑↑



もっと詳しく書いてありますが、抜粋しました。


私はからだの感じからは離れていたんだなぁ、と思いました。


イメージだけがどんどん展開していく感じだったなぁ、って。


これからは、それにからだの感じを加えていこうと思います。


からだのどの部分でそれを感じるのか。





セッション中に、いろんなイメージが出てきたんですが、その中で小さい子供が出てきました。


3歳ぐらいの女の子。


指をくわえて、ちょっと遠くの方を見ているんです。


なんか怖がっている感じ。


どうしたの?と聞いてみると、


抱っこして!と言ってきました。


抱っこして、遠くの気になっている方へ連れてって欲しいみたいなんです。


1人では怖くて行けないから、抱っこして連れてって!って感じです。


怖いけど、見てみたいんです。


確かめたい、って感じなんです。




わかったよ~、と言って、イメージの中で抱っこして、連れて行ってあげました。


気になっている所へ行ったら、そこをのぞき込むようにして見ていました。


そこには、何もなかったんです。


怖いものなんて、何もなかったんです。


それがわかって、ホッとしたのか、もうええわ~、って私の手から降りました。


そして、子供らしく、タタタ~~~~と向こうへ走って行ったんです。


子供らしく、元気よく。




なんか、そのイメージを見て、息子とかぶり、きっと息子もこういう気持ちなんだろうし、


私もかつてこうだったんだろうな、って思いました。


人より不安が強くて怖がりで、なんでもないことなのに、怖がってしまう。


それが気になって仕方ない。


でも、1人では怖くて確かめることもできないんです。


誰かに甘えて、連れて行ってもらって、その正体をハッキリ自分の目で確かめた時、


不安が消えたんです。


一瞬で消えました。





これや、って思いました。


私は、ずっと、こういう不安を抱えているのかもしれません。


ちゃんと確かめてこなかったから、いつまでも気になるんです。


怖いものがそこにある、って気がしてならないんです。


1人では無理でも、誰かの助けがあったら、ちゃんとこの目で確かめて、


不安を拭ってこれたのかもしれないなぁ、と思いました。





でも、私の場合、甘えられるような環境ではありませんでした。


全部、自分でなんとかしないといけなかったんだと思います。





私は、息子に対しては、このイメージ通りのことができていると思います。


怖い、と言ったら、無理にそれに向き合うのではなくて、一緒に解決していくようにしています。


抱っこ、と言ったら、抱っこして連れて行きます。


この行動が、はたから見たら、過保護に見えるらしいです。


いつまでも甘やかしていたら、強くなれない、とか、


心を鬼にして突き放したほうがいい、とか、そういう考えが一般的だと思います。


もちろん、その方がいい子もいるでしょう。


でも、人より敏感な子にとっては、それは恐ろしい経験です。


怖くてちゃんと見れてないだろうし、結局怖いままでずっとそれを引きずることにもなりかねません。




それよりも、ちゃんと見せてあげたらいいんです。


怖くないっていうのを、怖くない状態で、見せてあげたらいいだけなんだと思います。


そしたら、不安が消えて、人の手を借りなくてもよくなるんだと思います。


怖いって言ってるのに、怖くないから1人で行け!って突き放してるから、


いつまでたっても怖さがなくならないし、いつまでたっても1人でできなくなるんだと思います。




甘やかしちゃいけない、その子のためにならない、自立のために早くからなんでも1人でやらせる、


っていう考えは、一般的だと思いますが、私からしたらクソくらえビックリマークです。


甘えたい、っていうその子の思いを置き去りにしてる。


甘えたい、っていうその思いにちゃんと応えてあげるから、自立していくんです。


甘やかしたら、ダメな子になってしまうんじゃないか?って親は不安になると思うけど、


私は、甘えさせてあげる方が、自立できると思っています。


でも、これも、バランスの問題。


偏っていたら、やっぱりどこかに問題が出てくると思います。





偏った挙句に、私みたいな人ができあがるんです。


私はどっちかと言うと、息子に対して過保護寄りなので、これもバランスに気をつけて、


やっていきたいと思います。





あれ?なんか話が変わってきてしまったあせる


でも、フォーカシングで出てきたイメージで、自分の不安の元がわかったような気がするんです。


小さな不安でも、ちゃんと処理してきたらよかったのかもしれません。


その都度、確かめてきたらよかったのかもしれないなぁ、と思います。


だから、今はもう大人だけど、1人で無理だったら誰かを頼って、ちゃんと確かめに行く、ということを


やっていきたいなぁ、と思いました。