わかって欲しかった | スピリチュアルに生きる!

スピリチュアルに生きる!

吃音・社会(社交)不安障害、脇見恐怖症など心の病で長年悩んできました。
問題だと思っていた事は問題ではなかったと気づき、今、自分の生きたい人生を創っています♪(*^^*)
夢の中で遊びます♪だってここは夢の中なんだから♪(*^^*)

「みんなと一緒のことができない」


そのみじめな気持ちを私はずっと抱えていたんだと思います。

よく考えたら、その気持ちを誰かに訴えたことはなかったように思います。

親に言っても話をはぐらかされるだけで、聞いてくれませんでした。

こんなこと、気にしている私が悪いんだから、と、誰にも打ち明けられませんでした。

親以外の人に、相談できるような環境ではなく、ひたすら1人で悩んでいました。

当時もおそらく言葉の教室とかあったと思うんですが(もしかしてなかったかも、ですが)

もしそういう場があれば、同じ気持ちをわかちあう事ができたかもしれないし、

先生などに、吃音があってもなくても、人としての価値が変わるわけじゃない等、

教えてもらえたかもしれませんが、全くそういう環境にありませんでした。


幼い頭と考えで、吃音があることは人より劣っている、それがバレたら私はダメ人間だと

知られてしまう、知られてはいけない、隠さなければいけない、私がダメ人間だということは

絶対に知られてはいけない、と思ってしまったんだと思います。


誰が言ったわけでもないのに、私は自分のことを「ダメ人間」と決めつけてしまっていました。


私のみじめな思いを誰もわかってくれなかった、と言うより、誰も知らなかったと思います。

隠していたんだから、誰も知るわけありません。

でも、私自身は知っていました。

歳をとって、大人になり、そんなこと忘れてしまっても、私の中の小さな私はずっとそれを

抱え続け、わかって欲しい、と訴え続けていたのかもしれないなぁ、と思います。

だから、足湯とか、他のいろんな場面でも、私は同じようなことを感じて、みじめな思いに

なってしまっていたのかもしれません。


頭では、足湯に入れなくたって大したことないじゃない、って思ってみても、

どうしてもみじめな思いが湧きあがってきました。

人は人、私は私、人と同じ事ができなくてもいいじゃない、って考えてみても、

やっぱり、そんなの嫌だ、っていう気持ちが湧きあがってきました。

みんなと一緒にできないことばかりじゃなくて、できることだってたくさんあるじゃない、

そっちに注目して、もっと感謝できることを探そうよ、なんて言われても、

私は頑なに、できない自分を悲しみました。

どうして、素直になれないのか、いい事に目を向けられないのか、反発してしまうのか、

やっとわかったような気がします。


私は、みじめな思いを持っていたあの頃、その気持ちをわかって欲しかったんだと思います。

それに、そう思う気持ちを認めてほしかったんだと思います。

吃音があるからダメ人間、って思ってしまう私でもいいんだよ、って言って欲しかったような気がします。

そんなこと思わないで、もっと明るく考えようよ、じゃなくて、そう思ってしまうのわかるよ、って

言って欲しかったような気がします。



なんだか、そうやって自分に言ってあげたら、涙が出てきました。

あぁ、私はずっとわかって欲しかったんだな、って感じました。


自分を好きになりましょう、感謝しましょう、いいところ探しをしましょう・・・・・

たくさん、ポジティブに目を向ける言葉はあります。

でも、私はどれも反発してできませんでした。

やろうとしたけど続きませんでした。

続かない自分をまた責めました。


でも、続けられないのには、理由があったんだと思います。

私の中の幼い私が、気づいて欲しい、と何度も何度も形を変え、状況を変え、

訴えて、同じような状況を引き寄せていたんだと思います。

その気持ちに気づかないことには、先には進めないんじゃないか、と思います。


私は、やっと、ポジティブな考えを取り入れることができるかもしれません。

まだわかりませんが・・・。

まだまだ私の中にわかって欲しい気持ちはたくさんありそうな気がするし・・・。

でも、とりあえず一つ、わかることができました。

もっともっと、十分、その気持ちをわかってあげたいと思います。


ずっと気づいてあげれなくて、ごめんね。