父のこと(2) | 落としたほんじを拾いに行きます。

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その辺に落ちてませんでしたか?

一連の話は、⬇️このあたりから始まります



はじめに

母とのやり取り 及び おやきょうだい、親戚の記録。

頭の中で自分に都合よく書き換えられる前に

書き留めておかなくては。


回想も交えますので 時系列では無いことも多々あります。

ご容赦ください。


お目汚しになると思われますので

トラブル系が苦手な方はここまでで。

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父親のことを話し始めると、とてつもなく長くなるため、"そんな感じの人"な 、ほんの一部分だけを書いていきます。


3人目(現在22歳)を授かったことを、実家に行き両親に報告した時のこと。


おめでとうの言葉は一切なかった。

なんなら、生まれてからも「おめでとう」は無かった。


「自分たちも3人欲しかったけど、育てるにはお金がかかるから2人になった」という話をされた。


昔のことは分からないけれど、今は児童手当が貰えて、3人目だとちょっと多く貰える(当時)と話した。子育てには何かとお金がかかるから、金銭面の心配をしてくれたものだと思っていたが、父からの言葉は違っていた。


「金(児童手当)が欲しくて3人目作ったのか?」と。


そんなわけあるか!

私は怒った。

しかし、怒ったことに対して怒られた。

「お前が金の話をするからだろう!」と。

先にお金の話をしたのはそっちじゃないか。私は その話に対して 今は子育て支援で そういう手当もあるよという情報を伝えただけ。

育児にかかるお金はその手当で賄えるものでは無いことくらいわかってるし、そんなふうにしか考えられないのってどうなんだ?と疑問を持った。

「お兄ちゃんのところは2人なのに、なんで年下のお前たちのほうが3人なんだ‪💢」とかも。(数年後、兄宅にも第3子誕生)


父親の『児童手当のために作った子供』という認識が変わらない限り、孫たちには会わせない。3人目が生まれても連絡しないと伝え、私は実家を後にした。


数ヶ月後、出産したとき 一応母だけに報告し「お父さんには孫を会わせない」と念を押して伝えた。母は「私が行く」と謎の言葉を残していたが まだ産後の入院中の 病院に母が1人でやってきた。

電車を乗り継いで一人で来たのか、それとも父が運転する車に乗せられて、父が駐車場の車にいて母だけ病室に来たのかは定かでは無いけれど、枕元に出産祝いを放り投げ 次男の顔をちょっと見て帰って行った。


そこから半年以上、父には会わなかった。

そのうち、父からの電話で「大人になれ」と、これまた謎の呪文で  表向きは関係修復になった。




また、婚家の建物の老朽化で 私らが家を立て替えることになった時、「今、兄たちがマンションを買うから、お前たちは今年建てるのをやめて 来年以降にしてくれないか?」と。またまた謎の言葉。

続けて「上の子供が生まれるのも 家を建てるのも、なんでお前はお兄ちゃんに被せてくるんだ‪💢」と。

いや、知ったこっちゃないけど?

なので、父の言うことを無視して 家はそのまま建てたわけだが。

わかりかねる。理解に苦しむ。


そんな人だったな。


病(癌)で入退院を繰り返していた時でも

ちょいちょい様子を見に行って数時間で帰る私より、

年末年始と盆とGWに数日帰ってくる兄が良しとされたのは、、、なんだかな。


今となっちゃ どうでもいいけども。

私はそういうふうにならないぞ!という戒めのための記録です。