訪問先 芙蓉鎮(Fúróng zhèn)その④ 〜映画『芙蓉鎮』下編〜
訪問日 2022年7月16日(土)~18日(月)
芙蓉鎮だが、1987年中国で公開された映画『芙蓉鎮』のロケ地。
私はこの映画のタイトルは知っていたが、この芙蓉鎮へ来るまで見たことがなかった。
芙蓉鎮巡りで、映画に出てきた風景を今でも見ることができる。まずは、予習ということで映画『芙蓉鎮』の内容をまとめます。下編からのスタートです。
では行ってみましょう!
では見てみましょう!
時代は1966年。文化大革命(略して文革)が始まる。
*文化大革命とは何か?wikipediaさんによる説明はこちらから。
芙蓉鎮では王秋赦が李国香にとって代わって芙蓉鎮のリーダーとなっており「牛鬼蛇神(niúgǔi shéshén)」という言葉を使っている。意味は「得体のしれないもの」だが、文革期に地主や資本家などを指して言った言葉だ。つまりは右派やブルジョア分子は人としての扱いではなかったのだ。
李国香は”ニセモノの左派”とのレッテルを張られ、さらに首から“古びた靴がかけられている”。この靴の描写は「搞破靴(gāo pòxié)」といい、靴が壊れるほど足繫く男遊びが好きな女性という貶めの言葉だ。
右派の秦書田、ブルジョア分子の胡玉音、ニセ左派の李国香は雨降る中、紅衛兵の命令で立たされる。
李国香にとって代わって芙蓉鎮のリーダーとなった王秋赦はタバコをふかしながら「政治運動はいいことだ」と言っている。王秋赦は貧農で怠け者。国の時世に乗っかれてリーダーになれただけのならず者だ。
ブルジョワとされてしまった胡玉音は再教育の一環として、街のほうき掃除係にさせられてしまった。自身の家には「打倒新生資産階級份子胡玉音!(新ブルジョア分子の胡玉音を打ち倒せ)」と書かれている。
秦書田も胡玉音とともに街のほうき掃除係にされてしまっていた。胡玉音はこの悲惨な運命は秦書田が原因と思い込み「私を呼びに来ないで」で嫌い突き放そうとしている。
とある日、胡玉音が出てこない。心配した秦書田は胡玉音の家に行くと、胡玉音は熱を出していた。それを看病する秦書田。
月日が流れとある朝、王秋赦が建物の中から窓から出ようとしている。それを見て秦書田は日頃の仕返しをしようと、些細なイタズラを思いつく。尚、王秋赦は夜な夜な李国香と密会して、朝、人目につかないように裏手から出てきたところだ。
別の日、秦書田は王秋郝が出てきた窓の下に泥?糞?を仕掛ける。
秦書田は胡玉音と共に、王秋赦がいつ出てくるかと待っている。秦書田の両手はいつの間にか胡玉音の肩の上に…。
王秋赦が窓から出てきた!ものの見事、秦書田が仕掛けたイタズラに足を滑らせコケる。
胡玉音は王秋赦がコケて笑っている。
もちろん、イタズラを仕掛けた秦書田も笑っている。二人の間には、いつの間にかわだかまりが消え、親密な仲となっていた。
胡玉音は石臼を挽き何年も作っていなかった米豆腐を作る。
その米豆腐を秦書田へご馳走したのだ。そして二人は熱くなる…。
時が流れ胡玉音は秦書田の子を宿す。結婚を認めてもらおうと党のリーダーに申請書を書く。そこには「認罪書」とあり自己批判しているようにも見える。
党は、白い対聯(死者が出たという意味だろう)を門に張らせ「一組の黒五類の夫妻、二人の犬の男と女」、門の上には「鬼の巣」とある。ともあれ、結婚が認められたのだ。当時、黒五類は人として認められてなかったことがわかる。尚、私が知っているところでは、白い対聯の地区もあれば、緑の対聯の地区もある。
*対聯とはなにか?wikipediaさんの説明はこちら。
秦書田と胡玉音は文革中でもありながら、世間から蔑まれて見られている中、些細な2人だけの結婚式を行う。
コップには赤色の砂糖水が注がれ、、、
互いの手を交差させて盃を交わそうとしている。中国語では「交杯酒(jiāo bēi jiǔ)」といい、結婚式で行う夫婦の固めの杯だ。その時、誰かが訪ねてきた。
戸を開けると、谷燕山が二人の結婚のために危険を冒してやってきた。
谷燕山の心温まる行為に胡玉音は感激のあまり泣きこんでしまう。
秦書田と胡玉音の結婚を不快に思うのがいる。李国香だ。二人の結婚の知らせを聞くと「無法無天(法も神もない。無法の限りを尽くす)」と言い放つ。尚、蛇足ながら、歇後語で前句「和尚打傘」の後句が「無法無天(無髪無天)」である、
李国香が王秋赦を遣って秦書田と胡玉音を捕まえにいく。「把他綁起来(奴を縛り上げろ)」と言っている。
雨が降る中、中央には李国香と王秋赦がカッパを着て椅子に座り、、、
車には軍事管理委員会が乗っており(当時車に乗れるのは階級が高い党幹部らしか乗れない)。
秦書田は縛り上げられた状態だ。秦書田に「有期徒刑十年(懲役10年)」の判決が下された。
一方、胡玉音だが「有期徒刑三年。因身懐有孕, 監外執行。交芙蓉鎮革命群衆, 監督労働(懲役三年。だが妊娠している為、刑務所の外で刑を執行、芙蓉鎮の革命群衆は労働を監督せよ)」とのことだ。
胡玉音が秦書田の頬に手を添えると、秦書田の声が聞こえてくる。「活下去(生き抜くんだ)」と。
秦書田の口は閉じている。だが胡玉音には「像牲口一様地活下去(畜生のように生き抜け)」との秦書田の声が聞こえる。
尚、“牲口”は畜生と意味だが、人を罵るときに用いる言葉でもあり、“人で無い者”という意味でもある。日本語では「豚のように生きろ」という意訳だが、この畜生の単語には時代の背景や秦書田や胡玉音の身分などのさらに深い背景がその言葉に込められている。
さて身ごもった胡玉音だが、お腹を抱えて仕事をする胡玉音に手を貸すようになった。
ある日、胡玉音が産気づき、それに気が付いたのが谷燕山だ。胡玉音は「大的小的 都活不成(私も子も死んでしまう)」と弱音を吐く。
谷燕山は一刻も胡玉音を病院へ運ぼうとして1台の車を止める。
谷燕山は胡玉音を連れて病院へと向かう。
病院は胡玉音を帝王切開するという。病院は谷燕山にその同意書を求める。谷燕山は“胡玉音の夫”として同意書にサインをする。
男のが無事に生まれて、女医が「子どもに名前を付けてあげなくては」というと2人に名前を尋ねる。
胡玉音は「谷軍」と女医に伝え、女医はその名前を書き写す。
出産後、胡玉音は背中に子どもを背負って雪が積もるなか変わらず村の掃き掃除をする。
子どもが大きくなり、子どもが故玉音の手伝いをするようになっていた。
さらに年月が過ぎ、子どもは一人で村の掃き掃除をするようになっていた。
時代は1979年。文革が1976年に終了しその3年後となる年だ。
村の役人が胡玉音の家に来て「胡玉音同志」という。その呼び名から、胡玉音は名誉回復を果たしたことがわかる。
役人は没収した新居と1500元を返すという。役人は「どうだい、ほかに何か要求はあるかい?」と尋ね、、、
「私の夫を返して」と繰り返し叫ぶ。
場面が変わり、川を渡る船に積載さされている車から女性が一人降りてきた。
女性はその背中に見覚えがあるようだ。
そう、この2人は秦書田と李国香だ。皮肉にも同じ船に乗り合わせ、芙蓉鎮へ向かうところであった。
秦書田は村の中心の場所にやってくる。子どもたちは見慣れない大人に、口々と誰だ?という。
秦書田の帰りを見つけたのは、黎満庚の妻だ。一人の子どもに「お父さんが帰ってきた」と伝える。
胡玉音と秦書田は長い年月を経て、やっと再開をする。
秦書田の荷物には幾冊かの本がみえる。懲役中でも読書に励み、自分を捨てていないということが伺える。
故玉音が「お前のお父さん」だよと子どもにいう。
秦書田はやっと最愛の妻と最愛の子を抱くことができた。
ちょうどそのころ、かつての村のリーダーで秦書田と胡玉音が結婚する際に白い対聯を書かせた王秋赦の家が崩れる。この崩れるとは何を暗示しているのだろうか??一つの時代が終わったということだろうか??
さて、建物には「胡記米豆腐」と堂々と看板が掲げられている。
米豆腐をお椀に盛り付けている手が見える。秦書田だ。
胡玉音は店に立ち接客をしている。胡玉音の米豆腐店は昔と同じように繁盛している。
黎満庚がやってきて「営業証は?」とかつての李国香の真似をしてみんなを笑わす。
突然、響きの悪い鐘の音が響き渡る。
王秋赦が米豆腐店にやってきた。王秋赦は精神に異常をきたしているようだ。
突如立ち上がり「政治運動だ」と言い出す。
王秋赦の「政治運動だ」という声が不気味に高々と村中に響き渡り、王秋赦の姿が徐々に小さくなる。
映画の最後「劇終」とでて、これで映画が終わる。
この映画は上編と下編併せて164分である。
その164分をなるべくわかりやすくブログにまとめてみました。
中国映画は、そこいらに伏線や示唆しているものが隠されているのが特徴だ。
中国人の映画の評論の会話では、よく(中国語で)「暗示」という言葉が出てきて、「この言葉や動作は××を意味する」という具合に、登場人物の気持ちを読み解こうとする。
この映画も細かなところを拾っていくと、膨大な情報量になるうえ、日本人には理解できない部分も数多くでてくる。
ともあれ映画『芙蓉鎮』のおさらいは以上で終わりだ。
次は、やっと芙蓉鎮めぐり!
つづく。