訪問地 漢口の日本租界(Hànkǒu Rì zǔjiè)その3
訪問日 2022年6月11日(土)
漢口の日本租界だが、1898年~1943年の間に武漢は漢口に置かれていた日本の租界地。日清戦争後、日本は中国の更なる権益の獲得に乗り出し、1898年清国と『漢口日本居留地取極書』を取り交わし、漢口の北側に租界を獲得した。
いろんな人が漢口の日本租界の内容を論文やブログにアップしているが、私なりにブログをアップしてみようと思う。
その3です。
では行ってみましょう!
おさらいです。場所を確認します
まず漢口の日本租界は湖北省武漢市にあった。俗に漢口と言われる場所にあったのだが、現在の行政区画では江岸区(Jiāng‘àn qū)になる。
更に地図を拡大する。赤線内が日本租界になる。点線の青線だが、中国建国後の長江の護岸工事で緑地が幅が広くなったようで、当時の日本租界の範囲が分からないことから青色の点線にした。
では出発です。
●勝利街を南下していきます。
現在いるのは芦溝橋路と勝利路の交差点だ。勝利路へと進みます。
芦溝橋と勝利路の交差点に立っている建物だ。今は「漢口新四軍軍部旧址」(Hànkǒu Xīnsìjūn jūnbù jiùzhǐ)と呼ばれる建物だが、租界時代・日華製油株式会社の社宅であった。尚、日華製油株式会社は統廃合の結果、現在、株式会社J-オイルミルズと社号を変えている。
建物のなかへははいりませんが、外壁は綺麗です。手入れが行き届いている様子です。
その日華製油の社宅だった対面は現在長春街小学が立っています。租界時代・三井テニスコートがあったそうです。
では勝利街を南下していきます。尚、この写真の左側には「燮昌火柴廠」(Xièchāng huǒchái chǎng)というマッチ製造工場があった。その工場は、寧波商人によって開かれたが1927年に閉鎖された。
*マッチ工場にかんする簡単な説明が中国のインターネット記事があった。
●勝利路(旧大和街)-旅順路との交差点
勝利路と旅順路の交差点に立ってる建物。足場が組まれています。古そうな感じの建物です。
この足場が組まれている建物は長航という会社の宿舎だ。この"長航"とは中国長江航運集団という会社の略称だ。租界時代、ここには妻鶴という料亭があったそうだ。なので、租界時代後の建物かも知れない。
●勝利路(旧大和街)-郝夢齢路(燮昌小路)との交差点
この長航宿舎は大連路から郝夢齢路のワンブロック丸々がその宿舎になっている。いつ建てられたのか調べてみたが分からず。それにしても大きな建物だ。
さて引き続き南下します。郝夢齢路を越えたあたりだ。租界時代、この辺りで通りの名前が大和街から中街へと変わったようだ。
進行方向右手には現代的な建物が並んでいます。
ここは張自忠路を過ぎたあたりだ。写真右手に見える建物は瀋陽路幼稚園だ。
瀋陽路幼稚園の並び隣にある建物。黄色の壁が特徴的な建物は牛肉麺屋さんだ。
●勝利路(旧大和街)-瀋陽路(旧北小路)との交差点
瀋陽路を挟んで左右にレンガ造りの建物が見える。
瀋陽路を挟んで右側に見えるレンガ造りの建物。租界当時、ここには測候所があったという。
一方、瀋陽路を挟んで左側の建物だ。覗いてみましょう。
門の左には勝利路337という住所のプレートが貼られている。柵に鍵がかかっており入れない。
柵のなかはコの字型のレンガ造りの建物が立っている。租界当時の地図を見ると何だかの官舎だったようだ。当時、この隣は郵便局長の邸宅があったというから、その流れを汲む建物かも知れない。
こちらはさきほどのコの字型の建物(勝利路337番地)の隣並び立っている建物だ。黒い大きな門で閉ざされている。
黒い大きな門から高級車が出てきた!門が開いたのでちょっとだけ覗いてみます。門の左にプレートがあります。
門の左に貼られていたプレートの一つだ。「日本居留民団弁事処」とある。ORコードをスキャンします。
QRコードをスキャンしてみた。この建物は1912年に完成した当時は日本郵便局長の邸宅であったが、1923年に日本領事館の在外公館として使用された。1943年からは日本居留民団事務所として使用。この日本居留民団は1907年に成立、日本人の火葬や埋葬、幼稚園や小学校の入園・入学手続き、税務署、租界の整備などの役目を担ったとある。
その日本居留民団弁事処(事務所)の建物にあるプレート。誰かがいたので、建物のなかを覗く勇気が出ずに退散…。
続きまして、、、
山海関路(旧山崎路)を挟んだ日本居留民団弁事処(事務所)の隣の建物だ。
青のポルシェの後ろには、昔の入口であっただろうけども、レンガが積まれ高い塀となっている。その左に現在の門がある。
この高い塀で囲まれたところは勝利路333番地だ。
門の左にはプレートが貼られている。
またその門の右に貼られているプレートだ。QRコードをスキャンしてみます。
説明曰く、1911年より前に、福井房一の設計、大倉土木組により建設された。当初は貿易会社の事務所であったが、その後、同仁会医院の院長の邸宅となった。1944年12月の米軍の空爆により3階部分が破壊され現在は1階と2階が残るのみという。
尚、大倉土木組だが紆余曲折を経て、現在の大成建設株式会社へと至る。
*こちらは大成建設社に関するwikipediaさんの説明。
*大倉土木組だが、旧大倉財閥の流れを汲む。尚、有名なホテルオークラもこの大倉財閥の流れを汲む。
この写真の右側に勝利路333番地の建物があり、その左(写真正面)には白い建物が見える。そしてその白い建物の左にある通りが陳懐民路(旧・南小路)だ。ということは、この対面にあるのが三井物産社宅になる。
こちらが三井物産社の旧社宅の建物だそうだ。長屋のような造りとなっている。
固く門が閉ざされている…。
こちらから三井物産の旧社宅の建物に入れるようだ。ちょっとお邪魔します。
木製の階段を登ります。
2階部分は現在では一般の人が住んでいる様子だ。
2階部分には明り取りの天窓が付いている。
こちらも同じく三井物産の旧社宅の建物。洗濯物?が干されていたりと生活感がある。進んでみます。
どうもここは建物の奥へと通り抜けができるようだ。
建物の奥へときました。別の建物の裏手になっています。
行き止まりというか隅にはゴミが捨てられている…。
では三井物産の旧社宅を出ます。そして左へと進みます・。
当時の日本租界とドイツ租界の境の辺りにある建物だ。近寄ってみましょう。
住所は勝利路325番地になるそうだ。左に楕円形のプレートが貼られています。
QRコードをスキャンしてみます。
説明には、建物は1949年に建てられたが誰の設計で誰が建てたのか分からないという。当時何かしらの事務所として使用された程度のことしか書かれていない。
木陰に隠れて黒いプレートが建物にはめられている。
この建物の脇にはバルコニーが造られている。このバルコニーで誰かを見送ったりしたのかなぁ?
勝利路と六合路の交差点へとたどり着きました。ここは既に昔のドイツ租界です。
では、その3へと続きます。