訪問地 漢口の日本租界(Hànkǒu Rì zǔjiè)その1
訪問日 2022年6月11日(土)
漢口の日本租界だが、1898年~1943年の間に武漢は漢口に置かれていた日本の租界地。日清戦争後、日本は中国の更なる権益の獲得に乗り出し、1898年清国と『漢口日本居留地取極書』を取り交わし、漢口の北側に租界を獲得した。
いろんな人が漢口の日本租界の内容を論文やブログにアップしているが、私なりにブログをアップしてみようと思う。
*租界とは何か?wikipediaさんの説明はこちら。
では行ってみましょう!
まず地図で場所をみましょう
まず漢口の日本租界は湖北省武漢市にあった。俗に漢口と言われる場所にあったのだが、現在の行政区画では江岸区(Jiāng‘àn qū)になる。
更に地図を拡大する。赤線内が日本租界になる。点線の青線だが、中国建国後の長江の護岸工事で緑地の幅が広くなったようで、当時の日本租界の範囲が分からないことから青色の点線にした。
こちらはネットからお借りしてきた当時の地図。通りには当時の日本名と現在の中国名の記載がある。
*地図の出典はこちら。ここに地図のほか当時の写真のいくつかをみることができる。
出発です!!
●まずは腹ごしらえ。
家の近所で朝食をとります。"朝食をとる"は中国語では吃早餐(chī zǎocān)だが、武漢方言では过早(guòzǎo)という。なので挨拶でも"过早"を使う。
私が頼んだものは、武漢式の凉麺(liángmiàn)だ。麺と調味料を絡ませています。ひと碗7元(140日本円)。もし武漢の名物の熱乾麺なら大凡5元(100日本円)だ。なので武漢式の凉麺はちょっとお高めだ。
湖北の凉麺は暑い夏限定ながらも定番の小吃だ。ゴマダレやごま油、ニンニク汁や黒酢などとともに、昆布やもやしやキュウリと一緒に混ぜ、最後のピーナッツを添えれば完成。味のイメージ的には、日本の冷やし中華とよく似ている。
●電車に乗って黄浦路駅を目指します。
武漢地下鉄1号線に乗車。黄浦路(Huángoǔ lù)で下車します。
黄浦路の駅に到着。"武漢地下鉄1号線”とはいうが1号線は地上かつ高架橋を走る電車だ。
黄浦路の駅の改札を抜けC出口方向へ進みます。
街歩きスタート!
●中山大道を歩きます
●現・中山大道-旧・平和街
武漢大道の高架橋の下の黄浦大道と中山大道との交差点を起点に、赤や印に沿って中山大道を南下します。
黄浦大道(Huángpǔ Dàdào)と中山大道(Zhōngshān Dàdào)の交差点。中山大道が日本租界と境となっていた。
交差点ところから空を見上げると、高層のオフィスビルが建っている。
では中山大道を歩きます。この辺りは富裕層街だ。また近所には日系の某メガバンクの支店がある。
●現・劉家麒路-旧・新小路
右手には(租界の外だが)武漢天地壱方ショッピングセンターがある。尚、この通りは劉家麒路(Liú Jiāqí lù)という名前だった。日本租界時代は新小路という名前であった。尚、劉家麒とは武漢生まれの国民党の軍人の名前だ。
*劉家麒に関しての説明。中国の百度百科さんより。
武漢天地壱方ショッピングセンターの一階にベントレーのショールームがある。日本ではベントレーのショールームは大都市にしかないが、中国では武漢のような二線都市にも店舗を構えている。尚、ベントレーは中国語では賓利(Bīnlì)という。
武漢天地壱方ショッピングセンターの入口。高層ビルはオフィスビルだ。
●現・芦溝橋路-旧・大正街
中山大道と芦溝橋路(Lúgōuqiáo lù)との交差点。奥には日本租界時代の建物が見える。道挟んで新旧のギャップが激しい…。尚、芦溝橋路は日本租界時代・大正街という名前の通りであった。
芦溝橋路を渡り引き続き中山大道を進みます。尚、中山大道は租界時代・平和街という名前の通りであった。
写真に写る道が平和街…ではなく、中山大道。中山大道の左側が日本租界であった。現在、中山大道の左右には街路樹が植えらて、木のトンネルのようになっている。
いつの時代の建物かはわからない。だが二階の窓は木製のようだ。古そうな感じ。
背の低い建物が並んでいます。一階は店舗になっている。
●現・大連路-旧・中小路
中山大道と大連路(Dàlián lù)の交差点。大連路は租界時代・中小路と呼ばれた。
中山大道を道渡った向こうには武漢市第二中学がみえる。
この辺りは長屋だったのでしょうか?建物の二階には同じ形の窓が連なっています。
窓は木材のサッシ、トタンの庇(ひさし)がついています。
トタンの庇(ひさし)の建物の一階部分。入口は中山大道に面している。とても古そうなのだが人がいたので入るのを躊躇ってしまった。
●現・郝夢齢路-旧・燮昌小路?
中山大道と郝夢齢路(Hǎo Mènglíng lù)との交差点。日本租界時代、この道の左側の建物のところに変電所があったそうだ。尚、郝夢齢路は租界時代・燮昌小路と呼ばれたようだ。尚。郝夢齢とは国民党軍の軍人の名前だ。
*郝夢齢に関する説明。中国の百度百科さんの説明より。
中山大道の対面(租界の外)にも古そうな建物が並んでいます。
●現・張自忠路-旧・成忠街
中山大道と張自忠路(Zhāng Zìzhōng lù)との交差点。張自忠も同じく国民党軍の軍人の名前である。尚、張自忠路は租界時代・成忠街と呼ばれた。
*張自忠に関しての説明。wikipediaさんより。
引き続き中山大道を歩きます。この写真の左手には租界時代も中国人店舗があったという。
●現・瀋陽路-旧・北小路
中山大道と瀋陽路(Shěnyáng lù)との交差点。瀋陽路は日本租界時代・北小路という名前だったのではないかと思う。
こちらは果物屋さんですね。軒にはスイカやブドウが並んでいます。
なんか乱雑とした場所ですね。
中山大道に面しているこのお店はスープ屋さん。煨湯(wēitāng)といえば江西省南昌が全国的に有名。だが、武漢の煨湯はレンコンと豚骨で煮込んだこってりスープで深い味が特徴。武漢ではレンコンスープのことを藕湯(ǒutāng)という。
*武漢人の女性Vloggerがこのお店でそのレンコンスープを美味しそうに食しているVlog。武漢方言でおしゃべりをしている。
●現・山海関路-旧・山崎街
中山大道と山海関路(Shānhǎiguān lù)との交差点。租界時代・山崎街と呼ばれた。尚、山海関は万里の長城の東の先端の一つとして有名。
*山海関に関するwikipediaさんの説明。
中山大道と山海関路との交差点にある角の店舗だ。租界時代、この白建物の場所には薬局があったらしい。
中山大道沿いの建物。この建物もトタンの庇(ひさし)がついているが、木枠の窓もあればそうでない窓もある。この辺りは、租界時代は日本人の個人宅があったようだ。
●現・陳懐民路-旧・南小路
中山大道と陳懐民路(Chén Huáimín lù)との交差点。陳懐民とは国民党の空軍の軍人で日中戦争に参戦していた。陳懐民路は租界時代・南小路と呼ばれた。
*陳懐民にか関しての説明。中国百度百科さんより。
中山大道と陳懐民路の角に立つ大きな建物。
足場の下を歩いていきます。この周辺が日本租界の境があったようです。具体的にどこが境かはわかりませんでした。
中山大道と六合路(Liùhé lù)との交差点。この六合路はドイツ租界であった。日本租界とドイツ租界は隣同士であった。尚、六合とは"世界"や“宇宙”という意味を持つ。
あああああ!!!
『漢口の日本租界』を一つのブログに纏めようとしたら、文字制限を超えてしまった…。
キリの良いところで一旦切ります。
つづく。