袁林(Yuánlín)
*別名・袁公林(Yuángōnglīn)
訪問日 2022年6月5日(日・端午節休暇)
袁林だが、清朝最後の皇帝溥儀を退位させ、中華民国の第二代大統領を務めた人物・袁世凱(えん・せいがい)とその正妻の墓所。中国国内では袁世凱の批評は良くなく漢奸(かんかん)としての烙印が押されている。1952年、毛沢東が袁林を視察した際「袁林を保護を始めよ。反面教師の材料として後世への教育のために」との言葉を残した。
では行ってみましょう!
*上記は袁世凱(えん・せいがい)に関してのwikipediaさんの説明。
袁林は安陽市の郊外に位置している。交通が不便で、私はタクシーに乗ってやって来た。
到着しました。奥が袁世凱の墓所・袁林です。橋を渡ります。
袁世凱は、1859年現在の河南省周口市の生まれ、1916年北京で没する。袁世凱は生前、安陽は風水的に良い土地と考えたことから自身の拠点を安陽に構えていた。袁世凱は生家との往来を断絶していた事情もありここ安陽に埋葬された。
チケットを買いました。拝観料は35元(約700日本円)だ。
こちらはチケットの裏面。チケットを買おうとした際、係の人がおらず十数分ほど待った…。
こちらは袁林の見取り図と説明だ。明・清代の皇帝の陵墓の建物の配置をベースに、塚はアメリカ18代大統領グラントの墓所をイメージしたつくりとなっている。中洋折衷(中国語:中西合璧/zhōng xī hébì)スタイルだ。
*こちらはアメリカ18代大統領グラントに関して。wikipediaさんより。
*こちらはアメリカ18代大統領グラントの墓所の写真。123RFさんより。
では袁世凱の墓所へと入ります。
「牌坊」(Páifāng)。伝統的な牌坊は石材や木材で造られるが、袁林の牌坊は鉄筋コンクリート製。このコンクリートは当時の中華民国政府が日本より輸入したものだ。
牌坊の柱のてっぺんには望天吼(Wàngtiānhǒu/ぼうてんこう)と呼ばれる神獣。朝天吠は龍が産んだ9つの子の一つとの伝承をもつ。
また牌坊の柱の表面には「我們心中的紅太陽」「毛沢東思想」という字がうっすらと見える。文革時代に書かれたスローガンかな??
奥に見える建物は碑亭。牌坊から見ることができる。
牌坊と碑亭の間には「石像生」(shíxiàngshēng)が左右対になって置かれている。石像生は、高貴な身分の墓に置かれ、魔除けの意味を持つ。
左側の石像生を一つ一つ見ていきます。
(右側は帰る際に見たいと思います)
1.「望柱」(Wàngzhǔ)。石の柱には十二章紋という絵柄が彫られている。この紋は昔の皇帝の礼服に用いられた図案でもあるが、初期の中華民国では国章として用いられた。
*十二章紋に関するwikipediaさんの説明。
2.「石馬」(Shímǎ)
3.「石虎」(Shíhǔ)。顔がかなりのっぺらとしているなぁ…。
4.「石獅」(Shíshī)。獅はライオンを意味する。
5.「武官」(Wǔguān)。袁世凱がモチーフとなっており、着衣は当時の中華民国の軍服だそうだ。
6.「文官」(Wénguān)。こちらも袁世凱がモチーフとなっており、着衣は当時の大礼服だそうだ。
では引き続き奥へと進みます。
さきほど牌坊からも見えた「碑亭」(Bēitíng)だ。
碑亭には袁世凱の墓碑が納められている。大統領袁公世凱之墓と彫られている。この字は袁世凱の親友の政治家であった徐世昌(じょ・せいしょう)の筆である。
*徐世昌という人物は初めて知った。wikipediaさんの説明はこちらより。
袁世凱の墓碑の側面には登り龍が彫られている。身分の高い人の墓碑にしか彫られない。
袁世凱の墓碑を横から眺めます。墓碑を支えている贔屓(ひいき)。凛々しい顔立ちです。
引き続き奥へと進みます。
碑亭からみえるのは「三進門」(Sānjìnmén)だ。門の屋根瓦の色は緑だ。袁世凱は帝政を敷き自ら皇帝に就くも周囲の猛反対を受け、皇帝を降り帝政を廃した。もし袁世凱が皇帝であり続ければ皇帝のシンボルカラーであった黄色の屋根瓦になっていたであろう…。
三進門だが、この3つの戸口(門)が常に開いていることから“三つの門から進める”という意味で三進門と名付けられた。
三進門の右側に掲げられている袁林の説明書きだ。なんか歴史を感じるプレートだ。
三進門の門の取っ手は金メッキがされているようで、このようにケースに覆われている。
三進門を抜けて、奧に見える香炉のところまで進みます。
「風磨銅鼎炉」(Fēngmótóngdǐnglú)。説明には1918年に鋳造され、下の石の土台を含めると高さは約3メートル。
香炉の右側にある建物「東配房」(Dōngpèifáng)。長さ19.5メートルの建物がある。
東配房だが、もとは高級官僚が袁林へお墓参りした際の休憩場所、または僧侶が法要を執り行う部屋として用意された。室内のテーブルや椅子は埃被っている。
こちらは香炉の左側にある建物「西配房」(Xīpèifáng)。時刻は午後3時過ぎ、空には大きな太陽が見えます。
西配房も東配房と同じく高級官僚が袁林へお墓参りした際の休憩場所、または僧侶が法要を執り行う部屋として用意された。
香炉があった奥へと進んでいきます。
香炉の後ろの建物「景仁堂」(Jǐngréntáng)。中華民国初期、毎年、この景仁堂にて厳かな祭儀が行われていたという。
景仁堂へ入ると目の前には袁世凱の位牌が安置された祭殿がある。
位牌が置かれた祭殿。奥に部屋が見えます。
祭殿の奥にみえた部屋を覗いてみます。
ベッドが置かれており、壁には"枕剣夢凱旋"との(本物かどうかわからないが)袁世凱の書が掲げられている。
祭壇を挟み奥にももう一つ部屋が見えますね。
もう片方の部屋だ。覗いてみます。
簡単な応接間となっている感じだ。
尚、景仁堂の説明書きには、袁世凱が生前使用していた礼服とベルトが納められているとあったが、それらは見当たらず…。
景仁堂の外へと出ます。
景仁堂の左側にある門を抜けて奥へと進みます。
門を抜けると奥に何かが見えます!
袁世凱とその正妻が眠る塚がみえました。階段上がったところに門があります。
斜めから門をみます。明・清代のお墓にはこのような門はありません。ですが立派な門です。
鉄の門には八角形の紋様の中に十二章紋があります。
また門の下のデザインも同じように八角形の紋様に十二章紋が。
奥には円形の塚がみえます。手前に柵でかこまれている場所があります。
「青白 石五供桌」(Qīngbái shíwǔgòngzhuō)。台の上には中央に香炉、その隣にろうそく台が一対、さらにその隣に花瓶が一対置かれている。この石五供は明朝三代皇帝・永楽帝墓で初めて登場した仏具である。
遠くから眺めますと、とても広い場所です。そして塚は更に一段高い場所にあります。
塚のしたの段を一周あるいてみます。
塚の真裏です。
では塚がある段へ行ってみます。
塚は1918年に完成したという。墓室は鉄筋コンクリートで造られた。この説明書きには無いが、墓室は左右二部屋からなり、左に袁世凱、右に正妻の于氏が眠るという。
*中国のサイトだが、袁林を建設中の写真がある。最下部に墓室建設の写真もある。
これが袁世凱と正妻の于氏が眠る塚だ。塚は円形で12匹のライオンに囲まれている。
塚正面のライオン。その上には金色で「中華民国五年八月興修越二年六月望告成」と彫られている。意味は「中華民国五(1916)年8月に着工、二年後の1918年6月の旧暦の15日に完成を告げる」との意味だ。
東側より塚を眺めます。
では引き返します。
牌坊のある方へと歩いて向かいます。
塚の回りを歩き終えました。牌坊のある方へと進みます。
先ほどみた「青白 石五供桌」です。奥には「景仁堂」が見えます。
途中に展示されているパネルを見ながら牌坊方向へと進みます。
袁世凱の葬儀に関してのパネルだ。ちょっと見てみましょう。
袁世凱は1916年6月6日、北京は中南海で尿毒症の為死去。袁世凱は生前に「私の亡骸は国葬ではなく、袁家で対応・処理するように」と言葉を残したが、袁世凱の跡を継いだ中華民国大統領となる黎元洪により国葬を執り行うことが決定。
*袁世凱の跡を継いだ黎元洪に関する説明。wikipediaさんより。
こちらは袁世凱の棺を乗せた輿(こし)。当時、国葬とは言えども出来立てホヤホヤの国であったので国葬の前例がなかったことから、皇帝の葬儀の形式を一部取り入れた。どこかの国と似ているような…。
袁世凱の亡骸は21日間北京安置された後、安陽へと出発。葬列は長安右門より出発した。長安右門は取り壊されている。尚、長安右門は現在の天安広場から天安門を見て左側(現在の中山公園)にあった古の門だ。
この門は天安門広場の最南端の正陽門だ。正陽門から棺が出た。
正陽門より撮られた前門駅の写真。前門駅には一般庶民が袁世凱の葬列をみようと押し寄せた。
袁世凱の棺は前門駅にてこの列車に載せられ安陽を目指した。この後どうなったのだろうか??
このパネルの説明は以上だ。それ以上のことはわからなかった。では門を出て階段を下ります。
来た時とは反対側の門より出ます。
門を抜けると景仁堂の裏側。目のまえには景仁堂の赤壁。
景仁堂の脇を通り抜けます。
右手に見えるのは景仁堂。蛇足ながら、袁世凱の長男である袁克定は"袁陵"という名称にするよう求めた。陵とは皇帝のお墓という意味だ。だが袁世凱の親友であった徐生昌が反対。袁世凱は皇帝ではないとの理由だ。"袁林"という名称でお互いに妥協。孔子の墓所は“孔林”、関羽の墓所は"関林"でという具合には、林は聖人の墓所につけられる字だ。
尚、中国語の発音では「陵(líng)」と「林(lín)」は非常に発音が近い。中国人でもこの発音の区別がつかない人がたくさん。私も聞き間違えることがある…。
三進門へと進みます。
この門のお饅頭みたいな飾りは縦横7列となっている。もし皇帝なら縦横9列となる。
では三進門を抜けます。目の前には碑亭が見えます。
奥の方向には牌坊があるのだが、木に隠れてみることが出来ない。袁林の面積は9.3万平米という…。
碑亭に近づきました。碑亭の門の縁には蓮の花が彫られています。
袁世凱の墓碑を後ろから眺めます。
碑亭から牌坊の方向を眺めます。行きのときとは反対側の石像生をみます。
1.「文官」。こっち側ほうが顔がふっくらとしており袁世凱により似ているなぁ。
2.「武官」。やっぱりこっち側ほうが顔がふっくらとしており袁世凱により似ているなぁ。
3.「石獅」。獅はライオンのことだ。
4.「石虎」。
5.「石馬」。
6.「望柱」。こちらの望柱にも十二章紋が彫られている。
振り返るとこんな感じで石像生が並んでいます。
牌坊までやってきました。
牌坊の欄間(らんま)部分をみますと、綺麗な図案となっています。先ほども言いましたが、当時、日本から輸入したコンクリートです。
牌坊の欄間部分に一カ所だけ"月"と漢字が書かれています。なんでしょうか?調べても分かりませんでした…。
牌坊に到着です。一周ぐるっと回って約1時間弱でした。
袁林の外へとでてきました。
スッキリしたのでこれより数時間かけて家に帰ります。
本当は安陽では博物館にも行きたかったのだが、時間が足りず今回はパス。
やっと安陽のブログがまとめ終わった。
次はブログは気分転換で、一瞬だけローカルフードネタを入れようかな??
終わり。