〈世界遺産〉殷墟(Yīnxū)
殷墟宮殿宗廟遺址(Yīnxū gōngdiàn zōngmiàn yízhǐ)・後編
訪問日 2022年6月5日(日・端午節休暇)
殷墟宮殿宗廟遺址だが、俗に「殷墟(いんきょ)」と呼ばれる場所だ。殷墟といえば漢字の原型となる甲骨文が発見されたことに加え、伝説と言われてきた殷王朝(商王朝)が実在した王朝であることが証明された。
後編(完結編)です。
では行ってみましょう!
*お断り。
・今回は写真を物凄くアップしています。途中で退屈になるかもしれないが悪しからず。
・人骨が出てくる写真があります。見たくない方は、ご覧をおやめください。
青色矢印が後編の順路だ。赤色は前編・中編で通った道順だ。
乙組基址があるほうへ進みます。まっすぐです。もうすぐそこに見えます。
「乙八基址」(Yǐ bā jīzhǐ)。看板は当時の乙組基址の発掘風景だ。併せて153の礎石が発掘され、規模が大きいことから当時の建築技術も非常に高かったのではないかと思われる。
乙八基址にはたくさんの赤い円柱が立っている。その円柱に礎石があったのだろう。
乙八基址内の木道を歩きます。ガラスの蓋が見えますが何でしょうか???
ガラス内にはじじじ人骨…。
斧をもった人骨が…。
こちらには盾と斧を持った人骨…。どうも人骨はレプリカの様だが…。
人以外も牛の頭が。このような感じで生贄として埋められたということかな?
乙八基址は乙七基址内と連なっている。
範囲はわからないがそれらは、北組宗廟祭祀坑の一部であるようだ。
そのまま乙七基址を見ていきましょう。
北組宗廟祭祀坑内には、馬車が5台埋められていた。
また北組宗廟祭祀坑内には、頭が落とされた人の生贄が201体見つかった…。羊や犬も生贄として捧げられたようだ。
多数の生贄が捧げられたことから、殷の王宮と思われる場所のそばでもあったので、殷王朝が一族の祖先の霊を祀るために生贄を捧げたのであろうと推測ができる。
北組宗廟祭祀坑の説明書きには「奴隷制度社会に於ける生贄制度は最も残酷なもの」とある。
さてさて、、引き続き園内を見学します。
時間はお昼過ぎ。売店のおじちゃんが昼食をとっていますが、私はレプリカの生贄を見ただけでとてもご飯が喉を通りません。
おじちゃんの売店の後ろには「乙十三基址」(Yǐ shísān jīzhǐ)。東西47.5メートル、南北9メートルと細長。礎石の配置から、建物の跡ではなく、手摺みたいなものがあったのではとの説明。
次に乙十三基址のとなり「甲骨窖穴展庁」(Jiāgǔ jiàoxué zhǎntīng)を覗いてみます。
甲骨窖穴展庁へ入ってすぐの説明書き。第13回発掘作業中の1936年6月12日、YH127と名付けられた穴からたくさんの甲骨が見つかったとある。
これがYH127と名付けられた穴だ(だが、レプリカかも知れない)。数多くの甲骨、甲骨には様々な事柄が刻まれていたことから、この穴は”古代の資料庫”と言われる。この穴のそばには甲骨を守る番人と思われる人骨もでてきた。
YH127の穴から甲骨が見つかった際、考古学の専門化が不在であったため、急きょ、甲骨が埋まっていた部分を南京へ輸送することとなった。
甲骨の部分は木箱に入れられ、村の人64人が木箱を担いだ。重さは約3トンもあったそうだ。
木箱は南京で蓋が開けられたのち研究がなされた。その後、日中戦争や国共内戦の影響を受け、甲骨は昆明を介して台湾へ輸送された。
甲骨は約1万7千枚見つかり、研究から殷の第22代王・武丁の時代のものであることが判明。更に甲骨の内容は、政治・軍事・経済など多岐にわたり、当時を知る手がかりとなった。
だがだが
なぜ甲骨で占いがされるようになったのだろうか??
このパネルの内容を纏めると、昔の人々は神が与えた自然の中で生きていた。人々は神と交信しようとしたものの、直接神とは交信できなかった。そこで神と繋がると言われる「麒麟、鳳凰、亀、龍」を探した結果、亀が見つかった。亀の神通力で神と繋がろうとしたのだ。これより、亀の甲羅に文字を書き占いという方法を編出す。
よく見かける甲骨。これは亀のお腹の方の甲羅。お腹の甲羅は柔らかく字を刻みやすい。また、亀のお腹の甲羅以外にも、背の甲羅、動物の骨、人の頭蓋骨にも字がきざまれたそうだ。
亀の背の方の甲羅。穴が開いているが、穴にひもを通して持ち運び易いようにしたと思われる。
この亀の甲羅には朱色の字も見ることが出来る。
占いの方法だが、、
叙辞:占いの日と占いを行う人の名前を彫る。
命辞:占いたい内容を彫る。→甲骨を熱する。
占辞:王が割れをみて吉凶を判断した内容が彫られる。
験辞:数日後、実際にどうなったかが彫られる。
ではでは外に出ます。
「甲骨碑廊」(Jiāgǔ bēiláng)。甲骨窖穴展庁の左となりにある。
とーっても長い廊下が続いています。現代語に訳された甲骨文が並んでいます。
甲骨碑廊を振り返りますと、、、??
正面に「丙組基址」(Bǐngzǔ jīzhǐ)が見える。近寄ってみます。
丙組基址には奥に土を突き固めた台があることから祭祀台と思われる。ここよりは、人のほか犬や羊の生贄の骨が見つかったほか、玉石や角なども見つかっている。
ガラスのケースが丙組基址にもあるが、汚れておりなかを覗くことができなかった。
さてさて、、、
婦好墓Fù hǎo mùへといってみます。婦好とは殷王朝第22代王の武丁の妻の一人だ。
*殷王朝第22代王・武丁に関してのwikipediaさんの説明。
*殷王朝第22代王の武丁の妻の婦好に関してのwikipedaさんの説明。
石に甲骨文が彫られています。どうも寿という字みたいです。
左手にはテントが見えます。郵便局と書いてます。簡易郵便局でしょうか?
この郵便局では、自身の氏名を甲骨文字にしてプリントしてくれるそうだ。
白い像がみえてきました。
白い像が婦好だ。右手には鉞を持っている。その後ろの建物は享堂(Xiǎngtáng)といい、武丁が妻・婦好を弔うために建てられた廟を再現したものだ。
白い婦好像の左側に地下にある墓室へつながる通路がある。
金色の字で婦好墓と書かれている。
その裏には「1976年春にここより婦好の墓所が発見された。盗掘にも遭わず完璧な状態で残っていた。お墓より1900個以上の副葬品が見つかり、うち400個以上は青銅器、またうち800個は玉器や宝石類であった」とある。
では婦好のお墓へと通じる建物だ。
では墓室のある地下へと進みます。なんか探検しているような気分です。
階段くだって突き当りにある説明書きだ。出土した青銅器や甲骨から、この墓所は武丁の妻の一人の婦好であることが判明した。婦好が死んだ後、武丁は謚として"辛"の字を与えた。
婦好墓は土で埋められていたが7層となっており、各層からも副葬品が発見された。
「婦好」と彫られた副葬品は100点以上あった。また甲骨文にも婦好の記載があり、異民族と戦った記録や健康状態の占いの記録、婦好の葬儀に関する占いの記録があった。
こちらは古代の道具の種類とその説明だ。
こちらは青銅器で、青銅器の名前とその用途に関する説明だ。
「司母辛銅觥」(Sīmǔxīn tónggōng)。酒器として使われた。
左から「亜其銅觚」(Yà qí tónggū)、婦好銅高体觚(Fù Hǎo tónggāotǐgū)、I式鏤空觚(I shì lòukōnggū)。尚、鏤とはさかずきの意味だ。
婦好墓よりは2枚の鉞(まさかり)が見つかっている。左の鉞には龍の彫刻、中央の鉞には虎の彫刻が施されている、当時、鉞は権力や軍力の象徴であったことから、婦好は軍人でもあったと言われる。中国版ジャンヌダルクといった感じだろうか??
左から「婦好銅分体觚」(Fù Hǎo tóngfēntǐgū)、「好汽柱銅觚」(Hǎqìzhǔtónggū)、これらは煮炊き用に使われた。また一番右は「龍頭提梁卣」(Lóngtóu tíliàng yǒu)、これは酒器である。
ここに展示されているのは全て酒器。どのように使い分けをしていたのであろうか??
左右それぞれの奥の白いものは象牙だという。その象牙はコップとして使用されたそうだ。"酒器"がたくさんってことは、昔の人はのんべえだったのかなぁ??
これらは玉器だ。一部の玉石は新疆のものというも出土していたとあった。かなり乱雑に置かれているような…。
こちらも玉石でつくられたものだ。また右には動物の骨でつくられたかんざしがある。
こちらも玉器だ。実に数多くの種類の玉器がみつかっていたようだ。ん?一番右奥が気になる。
人の形をした殷の玉だが、手を膝に置き跪いた姿となっている。
こちらは玉器ではなく、石を彫り研磨して造られたものだ。
お父さんが子どもちゃんに説明をしています。この右の階段を下りると墓室です。
地下の墓室が見えてきました。
ここに婦好は葬られていた。葬られていたところは地下水脈となっていたためか、骨が風化して土に還っていたようで、婦好の遺骨はみつからなかったそうだ。
婦好の墓室の回りには男女・大人子ども16体の殉葬者の骨、犬6匹の骨がみつかった。これらは、地下水脈の上にあったそうだ。
墓室のある階に展示されている副葬品。実に様々なものが埋葬されてたようだ。
こちらも墓室のある階に展示されている副葬品。
では階段上がって地上へ出ましょう。
地上の光が見えてきました。眩しいです。
墓室へつながる建物を出ると右手にある売店。暑くて喉が渇いていたのですが、お店が閉まっていました。
奥にはこのブログの中編で紹介をした司母戌の鼎と奥の商史跫音の展示室が見えます。
ここにも甲骨文字がありますね。龍と鳳だそうですが、どっちがどの字でしょうか?
時刻は既に午後1時過ぎだ。10時過ぎに入ったからかれこれ3時間園内にいたようだ。
次は、殷墟王陵遺址へと移動します。
つづく。