〈世界遺産〉殷墟(Yīnxū)
殷墟宮殿宗廟遺址(Yīnxū gōngdiàn zōngmiàn yízhǐ)・中編
訪問日 2022年6月5日(日・端午節休暇)
殷墟宮殿宗廟遺址だが、俗に「殷墟(いんきょ)」と呼ばれる場所だ。殷墟といえば漢字の原型となる甲骨文が発見されたことに加え、伝説と言われてきた殷王朝(商王朝)が実在した王朝であることが証明された。
さて中編へと入ります。
では行ってみましょう!
*お断り。
・今回は写真を物凄くアップしています。途中で退屈になるかもしれないが悪しからず。
・人骨が出てくる写真があります。見たくない方は、ご覧をおやめください。
赤線の矢印は前編で取り上げた場所。中編では速度を上げて青色の矢印に沿って進みます。
さてさて、殷墟博物館から出てきたところです。
「司母戊」(sīmǔxū/しぼぼ)とある鼎の複製がある。それは現存する鼎のなかで世界最大のもので、本物は中国国家博物館内で展示されている。尚、鼎の内側に「司母戊」と読める象形文字があるのだが、のちの研究で「后母戊」が正しいとする説が有力視されている。
*上記はwikipediaさんの「司(后)母戊」鼎の説明。
*上記は中国百度百科の説明と鼎の写真。wikipediaさんより詳しい説明がある。
商史跫音の館内へと入ります。"商史"とは殷の歴史という意味で、"跫音"とは足音という意味。
軒を支える無数の柱。柱は朱塗りで模様が刻まれている。殷の建物はこのような建物だったのでしょうか?
建物の中へと入ってきました。パネルには序文があります。
館内は殷朝の歴史を説明する展示館のようだ。
殷の部族はどのように生まれたのだろうか?という問題提起がなされている。
考古学の点から殷の祖先は北方の娀(Sōng/シュウ)氏と中原の高辛(Gāoxīn/こうしんし)氏が融合が太行山東側(鄭州より北西方向へ100キロほど)で融合し誕生したと言われる。
*上記は中原の高辛氏に関するwikipediaさんの説明。
歴史書『史記(夏本紀)』によれば、夏王朝の最後の王・桀は政治を行わず国は乱れに乱れた。道徳に優れた殷の湯によって桀は討たれ夏王朝は滅亡した(鳴条の戦い。鳴条は今の山西省運城市あたり)。
*上記は夏王朝が滅亡となった鳴条の戦い関するwikipediaさんの説明。
殷の中期になると殷王室内の争いが絶えなく、仕舞には東の夷人がその混乱に乗じて侵入。第11代王・外壬(がいじん)のとき、殷は遷都をしたが、王室内部の争いの解決に至らず。その後、第19代王・盤庚(ばんこう)まで、内部争いの都度計5回(または6回)をの遷都をした。
尚、この第11代王・外壬(がいじん)から第19代王・盤庚(ばんこう)の9代に渡って続いた動乱を九世の乱と言う。
*上記は9代に渡った動乱・九世の乱に関する百度百科さんの説明。
殷の晩期、殷の第22代王・武丁は盤庚の治世後に衰えた殷の国力を復興した。これを武丁中興(Wǔdīng zhōngxīng)または武丁盛世(Wǔdīng shèngshì)という。
殷の第30代王でもあり殷最後の王・紂はあの酒池肉林で知られる。紀元前1046年、牧野(ぼくや)の戦いにて殷王朝は周武王ら八百の諸侯らによって倒された。牧野は今の河南省新郷市あたりだ。
*上記は殷の最後の王・紂に関するwikipediaさんの説明。
*上記は易姓革命の原点・牧野の戦いに関するwikipediaさんの説明。
*上記は易姓革命とは??wikipediaさんの説明。
*上記は紂を討った周武王に関するwikipediaさんの説明。
引き続き館内を進みます。
“商代の方国”とあるが、方国(ほうこく)とは王朝に対しての属国との言われ方だが、殷王朝でいう方国は3つあり、1つは王朝の敵国。2つは王朝の敵国でもあるが時として友である。3つ目は友好国。甲骨文からは併せて157の方国があったそうだ。
「婦好三聯甗(Fù Hǎo sānliányǎn)」。甗(げん)とは今でいう蒸し器だ。殷墟内の婦好墓で出土した。
婦好三聯甗を上から見る。器と台座を分解することができて、台座に水を入れ上の器に食べ物を入れ、台座を熱して蒸すという具合だ。
次は刑罰に関する説明だ。殷王朝には法が存在したという。
象形文字で示された刑罰の例だ。「幸」という漢字は手錠を意味しているそうだ…。知らなかった…。
殷王朝に於ける社会の階級だ。それが埋葬方法にも表れる。
こちらは殷の王墓の模型だ。
こちらは貴族の墓(左)、平民の墓(中央)、下層民の墓(右)の模型だ。大きさも作りも身分で全く異なる。
殷の人々は"族"を単位として住みかを形成。それを邑("ゆう"または"むら")と言った。死後も"族"の概念のもと一族の墓地へ葬られた。
殷では農耕が行われた。農耕にあたっては道具が使われた。
甲骨文に出てくる農作物。上から麦。稲。キビ。アワ。
甲骨文とその意味。そして現代の漢字だ。例えば「男」は田で鋭い土木工具を用いていた~力仕事から男という字が形成されたようだ。
殷では食料のほか、祭祀のお供えのために、大量の家畜を飼っていたという。
甲骨文に刻まれている家畜だ。左より、牛、羊。豚。犬。馬。鶏。
殷の時代では、手工業ながらも青銅器、建築、陶器、紡織、玉器などを造る・加工する技術が発展した。
館内を引き続き進んでいきます。
殷では貝殻がお金として使われた。これらの貝殻は中国東南の沿海で使用されていたのが殷でも使用された。また殷の象形文字に"拝金崇拝"の図があり、この時代にも拝金主義を垣間見ることができる。
殷の宗教という観点から、殷では自然崇拝、先祖崇拝という面が見える。農耕と関係しているのだろうか?
また甲骨文が出てきた。この甲骨文には朱色で記されている。
甲骨文といっても、亀の甲羅以外にも動物の骨や鹿角も使用されていた。
甲骨での占いの方法だ。キリで丸い深い穴を彫る→さらにノミで溝を彫る→彫ったところに燃えた木の枝や熱した銅の棒を当てると甲骨が"ト"の字に裂ける→この裂けた方向で吉兆を占う。という仕組みだ。
こちらは牛の骨に文が刻まれている。
見にくいが、骨の上部に字が刻まれている。
習近平主席のお言葉だが、説明は…まっ、いっか。
これでこの商史跫音内の展示は終わり。なんか纏まり感がないような感じだったなぁ。
建物の外へと出てきました。
園内の奥へと進みます。奥に赤いものが見えますが後編で触れることになるでしょう。
看板がみえました。矢印にそって右側へと進みます。
右手へと進む。一段二段低くなっていますね。
「殷代車馬坑展示庁」(Yīndài chēmǎ kēng zhǎnshìtīng)だ。蛇足ながら、2022年習近平主席が三期目に突入した後の10月28日、突如、殷墟を視察。この際、この殷代車馬坑展示庁を見学している様子がメディアに公開された。
殷代車馬坑展示庁の説明。曰く「奴隷社会の残酷的な殉死制度が反映されている」とある。
殷代車馬坑展示庁の館内に入りました。
入り口を入って左側に置かれている馬車の復元模型。
入り口入って右側に置かれている馬車の復元模型。人が乗る場所が左右の馬車で異なる。
説明によると1935年の最初の発掘調査から今までに併せて8か所(パネルの地図の赤い場所)の馬車が埋められた殉葬の跡が見つかり、馬車と共に車を引く馬、馬車の操縦の人までが一緒に埋葬されていた。
2000年には殷代の馬車が通った道がみつかった。現在、保存されている。
昔の馬車は輿(こし)に人が乗り、二頭の馬で車を引かせていた。
現在の「車」の字は、この殷代の馬車が由来となっている。
殷代の馬車の用途だが、まずは戦争で使用。埋められた馬車からは武器も一緒に見つかった。
また馬車は移動手段としても使用。操縦者と思われる殉葬された人骨もでてきた。
馬車の操作方法だが、馬に轡と手綱をつけて、鞭で叩いて操作していたようだ。様々な馬具が見つかっている。
さて埋められていた馬車が6台見えます。一台一台時計回りで見ていきましょう。尚、これらは元々別の場所に埋められていたが、展示の為、一つにまとめられた。
2台目の馬車。1つの穴から車1台、馬2匹が発掘されたが、人の骨は出てこなかった(2000年劉家荘北地で発掘)。
3台目の馬車。1つの穴から車1台と人1人が見つかった。だが馬は埋葬されてなかった(2000年劉家荘北地で発掘)。
その3台目の馬車。馬車の後ろには人骨が横たわっている。馬車の操縦者らしい。
4台目の馬車。1つの穴から車1台、馬2匹が発掘されたが、人骨は出てこなかった(2000年劉家荘北地)。
5台目の馬車。1つの穴から車1台、馬2匹、人1人(2000年孝民屯東地)発掘された。
6台目の馬車。1つの穴から車1台、馬2匹、人1人(2000年孝民屯東地)が見つかった。
これは殷代の馬車の道の跡。馬車が通った轍(わだち)が残っていた。轍から2車線だったことがわかった。中国の土は粘り気があるので、雨が降って乾燥すると固まりやすい。だから轍も残りやすい(2000年安陽航校より発掘)。
6台の馬車をもう一度眺めたので、次のところへ行きます。
さてさて、、、
殷代車馬坑展示庁の外にでてきました。現在の漢字と甲骨文の字体が比較できる。
殷代車馬坑展示庁のとなりにある「甲骨文碑林」(Jiāgǔwén bēilín)。
甲骨文碑林には甲骨文を拡大したものを碑のようにして展示。
甲骨文の著名な研究家の2人が選りすぐりの甲骨30点を選んで、それを碑のようにした。
選りすぐりの30点と言われても、説明がなく、何が選りすぐりなのか不明だ。
甲骨には色々と字が彫られていたんだー。もう暗号の世界だ…。
さてさて、、、
さて私ですが、気温が暑いのでミルク味?ヨーグルト味?アイスを食べてクールダウン。
奥へ奥へと進みます。
右手には池が見えます。
樹には何かの実がなっています。実はまだ緑色をしています。
小道を歩いていると突き当りです。左側に看板がありますので見てみましょう。
「甲組基址」(Jiāzǔ jīzhǐ)。園内の最北部のところで併せて15の建物跡が見つかった。長方形の形をしているものもあれば凹形のものもあった。建物跡には柱を支える礎石が見つかった。尚、甲組の"甲"とは甲乙丙の序数的な意味なので、特に大きな意味は持たない。
こちらは「甲四基址」(Jiāsì jīzhǐ)。南北28.4メートル、東西7.3~8メートルの台形状の建物跡、31の礎石が見つかった。写真の赤いものは礎石を表したものだろう。
こちらは「甲六基址」(Jiāliù jīzhǐ)。南北27.9メートルで凹状の建物。殷の宮殿の一部ではないかと言われる。
他にも写真のような四角形のものがたくさんありますが全部の紹介は省略…。
最北部に柵で囲まれた大きな穴が一つ。「一号灰坑」(Yīhào hūikēng)だ。1987年発掘した際、穴から陶器、石器、動物の骨から造られた道具、さらには朱色で字が書かれた陶器も見つかった。
道端には黄色の小さな花が咲いています。
園内の最北部までやってきました。折り返します。
来た際とは別の通路を通って、出口方向へと進みます。
やっと次は殷墟宮殿宗廟遺址の後編(完結編)。
写真がたくさんだと、1つのブログを作成するにとてつもなく時間が掛かる…。
つづく。