〈世界遺産〉殷墟(Yīnxū)
殷墟宮殿宗廟遺址(Yīnxū gōngdiàn zōngmiàn yízhǐ)・前編
訪問日 2022年6月5日(日・端午節休暇)
殷墟宮殿宗廟遺址だが、俗に「殷墟(いんきょ)」と呼ばれる場所だ。殷墟といえば漢字の原型となる甲骨文が発見されたことに加え、伝説と言われてきた殷王朝(商王朝)が実在した王朝であることが証明された。
「殷墟の存在」を知っていても、「殷墟がどこにあるのか」知っている人は少ないのではないか?殷墟は河南省安陽市にあります。私が安陽に来た一番の理由は殷墟をみるため!
では行ってみましょう!
*お断り。
・今回は写真を物凄くアップしています。途中で退屈になるかもしれないが悪しからず。
・人骨が出てくる写真があります。見たくない方は、ご覧をおやめください。
殷墟は安陽市内からちょっと外れにある。また今回は(厳密に言えば)殷墟と呼ばれるエリアのなかの殷墟宮殿宗廟遺址へ行く。
殷墟宮殿宗廟遺址の前に到着だ。場所がちょっと遠いのでタクシーに乗ってやって来た。
殷墟宮殿宗廟遺址の前はこんな感じの原っぱ。
奥に入口が見えます。さぁーてと進みます。
入り口左側には「世界文化遺産 殷墟」と彫られた大きな石が置かれている。
そして入り口右側には「国家級旅遊景区 国家考古遺址公園」と彫られた大きな石が置かれている。
殷墟宮殿宗廟遺址の出入り口だ。この右側にチケットセンターがある。
殷墟宮殿宗廟遺址の出入り口の右側にある遊客服務中心(Yóukè fúwù zhōngxīn/チケットセンター)だ。
チケットの表面。チケット代は70元(約1400日本円)だ。この殷墟宮殿宗廟遺址と王陵の通し券となっている。
チケットの裏面だ。
時刻は10時03分。さぁーってとチケット握しりしめて入場します。
こちらは殷墟宮殿宗廟遺址の見取り図だ。赤い矢印は私が付けたもの。赤い矢印に沿って進みます。
そもそも殷墟宮殿宗廟遺址って何なの?って話だが、殷墟とは殷王朝(商王朝)後期の首都の遺構という意味だ。その遺構のなかでも、宮殿や祭祀を行った場所を殷墟宮殿宗廟遺址として一般に開放している。
さてと、写真中央の通路を歩いて園内の奥へ進みます。
甲骨文発祥地と彫られています。その奥に、赤いものが見えます。
さっき奥に見えた赤いもの「大門(Dàmén)」。この大門は甲骨文に書かれた門の象形文字の形をヒントにして作られた。額の「殷墟博物苑」は中国の歴史学者の周谷城による字だ。
大門のそばにある木には白い大きな花が。すごく香りが良い!
大門の奥の左側に立ちます。写真の右に柵で囲まれた場所があります。行ってみます。
柵で囲まれた場所は「凹字形宮殿基址(Āozìxíng gōngdiàn jīzhǐ)」と呼ばれる場所だ。
凹字形宮殿基址は約5000平方メートル。1989年の発掘調査からここに宮殿または宗廟(先祖を祀る建物)が建っていたと推測される。
ここから見ると凹字型(茶色の土の部分)となっている。
さてさて園内にある殷墟博物館へ行きます。
凹字形宮殿基址の奥に看板が立っている。しかも日本語付きだ!
右には殷墟博物館と彫られた大きな石が置かれている。この奥に博物館がある。
殷墟博物館にある池。中央に甲骨をかたどったモニュメントがある。
殷墟博物館の館内入ってすぐの場所。施設のガイドさんが希望者には中国語で説明をしている。
館内入ってすぐの場所のパネルだ。
掻い摘むと「殷(商)王朝は遷都を繰り返した。紀元前1373年ごろ、第19(パネルでは第20)代王の盤庚(ばんこう)のとき、今の安陽へ遷都した。その後、殷王朝が滅亡するまで安陽は殷の首都だった」とある。
こちらも館内入ってすぐの場所のパネル。商王朝の系統譜だ。殷王朝は第31代の王・紂(ちゅう)まで続いた。殷王朝は紀元前17世紀~前1046年に実在した国だ。
こちらも館内入ってすぐの場所のパネル。歴史書によれば、殷(商)王朝は5回または6回遷都を繰り返した。
こちらも館内入ってすぐの場所のパネル。殷王朝の影響が及んだ範囲。広大な範囲に影響力を及ぼしていたようだ。
では展示物を見ていきましょう。
「盤庚遷殷図(Pángēng qīan Yīn tú)」、盤庚による殷の遷都の風景をイメージした壁画。
一番最初の展示室「大邑商庁(Dà yì Shāng tīng)」。パネル曰く「安陽へ遷都後、殷の政治や礼制度や経済や文化が花開いた」そうだ。
このような生活用の陶器が出土した。
粘土を練ってこのような装飾品や芸術品が造られた。
こちらは貝殻でつくられたお金。当然富の象徴でもあった。殷墟の平民のお墓よりも埋葬品として出土。大体は口に入れられている手に握られていた。また貝にはひもを通し持ち運ぶために、穴があけられたと思わる。
石や青銅や動物の骨から農工具が造られ、農産が行われていたことが分かる。
厨房用品だ。青銅や木や動物の骨などから厨房用品が造られた。包丁の柄には動物の形となっているものある。
装飾品で、かんざしや櫛、髪留めなどだ。一部のものは動物の骨から造られている。
陶器で造られたお面や人形だ。
真ん中に置かれているものは、陶器を焼いたときの失敗作。
こちらの陶器には象形文字?絵?刻まれている。
こちらの陶器にも人の姿が刻まれている。
さてさて次には、、、
二番目の展示室「青銅庁(Qīngtóngtīng)」。青銅は、銅・鉛・錫の混合物で、青銅器を造るに黄土が金型として適していた上に、殷王朝では青銅器を礼制度のなかで用いたことから、青銅器の作成が盛んになった。
こちらはお酒を入れる青銅器を造る際に用いられた金型。
「銅鉞(tóngyuè)」。鉞はまさかりの意味。高貴な貴族の墓からの出土が多いが、祭祀のとき、人の首を刎ねるに使われた。そこから軍事権の象徴ともなった。まさかりには、細かな装飾が施されている。
こちらは言わずと知れた鼎。
鼎のなかには象形文字が刻まれている。
「銅戈(tónggē)」。戈はほこのこと。殷王朝でよく見られる武器で大体は22~26センチの間。突くという動作で敵を倒すだめの武器だ。
「銅矛(tóngmáo)」。こちらもほこだ。長さは23~28センチの間で、刺す・なぎ払うような動作で敵を倒すための武器だ。
ショッキングながら身体の至る所に傷を負った兵士の骨。頭は銅戈で叩かれたことで損傷したと推測される。
「銅鼎(tóngdǐng)」。
「銅盂(tóngyú)」。よく見ると表面には細い線が電子回路のように描かれている。
さまざまな青銅器が殷王朝では造られていた。
一部では、玉石と青銅器を組み合わせたものあったようだ。
なんだかわからないけども、指なのか手の先?細かい線が描かれている。
「銅鬲形鼎(tónglìxíngdǐng)」。鬲(れき)とは炊具のこと。丸みを帯びた形がとても綺麗だ。
牛だろうか?表情がとても豊かで模様も繊細だ。
「銅觥蓋(tónggōnggài)」。觥は日本語ではつのさかづきと言われる。銅製の酒器。
「銅罍(tóngléi)」。罍(らい)とは酒樽との意味があり水や酒を入れていた。こんな古い時代から巴(ともえ)の図柄が存在していたんだー。
「銅方壺(tóngfānghú)」。これも電子回路のような細かな線がびっしりだ!
こちらもユニークな形の酒器。鼎の脚にも細かな装飾が見られる。
青銅の技術を使い、武器や食器の他に馬具の製造もおこなわれていた。
「鉛錠窖蔵坑(qiāndìng jiàocáng kēng)」。鉛のインゴットを貯蔵した穴という意味。2015年に発掘され、鉛のインゴットが293枚(約3.3トン)見つかった。青銅器の銅と鉛の比率は大凡16:1なので、約53トン分の青銅器を造ることができる量である。材料をストックしていたことから、殷王朝はいつでも青銅器が造れるような状態であった。
展示室はこんな感じで、とっても大きく広々としている。
訪れたとき、館内では何かしらの工事をしていた。カラーコーンも警備さんもおらず…。世界遺産の施設でも中国クオリティーは維持されている。
さてさてまた次には、、、
三番目の展示室「玉器庁(yùqìtīng)」。パネル曰く「殷の人は玉石をこよなく愛し、埋葬品からはたくさんの玉石が見つかっている」とある。だが、玉に関する展示はとっても少ない。
様々な玉石の製品が展示されている。
玉石は装飾のほか、礼制度や武器、工具や日用品にも利用された。
こちらは玉石でできた「玉戈(yùgē)」だ。
いよいよ甲骨文と対面です。
四番目の展示室「文字庁(Wénzǐtīng)」。やっと甲骨文のお出ましだ。
甲骨文の展示室。
1899年、碑文などを研究する金石学者・王懿栄(Wáng Yìróng/おう・いえい)がマラリアに聞く竜骨となる薬を手にすると表面に字らしいものが刻まれていた。現在までに15万枚の甲骨が出土したという。
これが甲骨文かぁ!!!甲骨文は写真では見たことあるが、生で見るのははじめてだ。
こんな感じで土に埋められていたってことかなぁ??
これが甲骨に刻まれた甲骨文だ。どこに刻まれているか分かるかな?
細いもので薄っすらと刻まれているのが分かるだろうか?私はてっきり「もっと太く大きな字が刻まれている」と想像をしていたが、実際は全く違っていた。
こちらの甲骨にどこに文字が刻まれているでしょうか?拡大しましょう。
こちらにも何とも小さく細い線が彫られています。
甲骨文は主に占いの記録である。甲羅に字を彫り終えると、のみで穴を彫り、その溝または溝と溝の間を鉄の棒などで熱すると「ト」の字に裂け、その避けた方向で吉凶を判断した。
こちらは動物の骨に刻まれた甲骨文。
こちらも動物の骨に刻まれた甲骨文。
こちらも動物の骨に刻まれた甲骨文。
こちらの骨にも文字が刻まれている。そして、、、、
甲骨文字を今の漢字へ変換することができる。
そして骨の裏側はのみで溝が彫られている。私は「火で炙って占うと学校で習ったから、直火で炙ったとばかり思っていた。」実際は先ほども言ったように鉄の棒などで一点を熱して吉凶を占うのだ。
甲骨文字は漢字に置き換えることが出来る。
これは祭祀事に関する占いだ。「生贄は必要か?」と聞いている。占いはコントロールできたというが、占いの問いとその答えで次第では生贄が必要となった。あとで目を覆いたくなるものを見ることとなった。
占いでは、祭祀事、結婚、王の政治、天候、軍事についての吉凶が問われた。
さてさて、、、
甲骨文の展示が終わったと思ったら、一カ所に人だかり。なんだろう?
でっかい鼎だ。司母戊鼎という複製品だが、詳細は中編で説明することにします。
「銅罍(tóngléi)」。また青銅の展示となったぞ…。それにしても模様がきれいだ。
「帯蓋銅鼎(dàigài tóngdǐng)」。帯蓋とは蓋を伴うという意味だ。
「銅鴞卣(tóngxiāoyǒu)」。鴞はフクロウ、卣(ゆう)とは取っ手がついた酒壺という意味だ。
馬車と馬車の操縦士。殷王朝では馬車は戦争の道具として使用したほか、礼節、狩り、日用の移動手段としても使用した。身分が高い人が馬車を有することができたが、その人が死亡すると、馬も操縦士も馬車も共に埋められた…。
殷墟博物館の出口が見えてきました。
でも、殷墟宮殿宗廟遺址はとても広いです。
まだまだ続きます。