こちらは韓魏公祠の大まかな見取り図(いろいろな建物が出てくるので、ご参考を)。
韓魏公祠に到着。この門より出入りをする。
拝観券の表面だ。拝観料は20元(400円)だ。
拝観券の裏側に韓魏公祠の説明が書かれている。
さてチケット売り場の門を入ると、目の前に小さな門がある。入りましょう。
小さな門をはいると正面には照壁があります。達筆な字すぎて、何が書いてあるか読めません…。
「韓琦生平展(二展室)」だ。小さな門を入って右側にある建物だ。
韓琦生平展(二展室)には、韓琦の一生涯の説明がなされている。
「石刻陳列室」だ。小さな門を入って左側、韓琦生平展(二展室)の対面にある建物だ。
写真右側の背の高い碑が韓琦の墓碑だという。
こちらの2つの碑は、韓琦の廟を再建した際に彫られ建てられた碑だそうだ。時代は奧の碑は元代大徳二(1298)年、手前は康熙三(1664)年のものだ。
写真の「一展室」へと入ってみます。
手前の扁額「適時済物」、奧の扁額「器博道宏」だが、清代光緒二十七(1901)年、西太后と光緒帝が西安から北京へ帰る際、ここに立ち寄り、自ら筆をとり額を納めたのだという。だが今の額は、新しくつくられたものだ…。
一展室内だ。中央の像は恐らく韓琦だろうか。この建物は、古くは北宋熙寧年間(1068~1077年)に安陽の庶民が韓琦の功績を称えるために建てた廟だ。だが、戦火の為消失。現在の建物は元代大徳二(1298)年に再建され、その後、修復が何度かなされた。現在の建物にも元代の材料が一部使われているそうだ。
さてさて、、、
商王廟があるという方へとやってきました。
正面に見える屋根だけの建物と写真正面奧の三展室を纏めて「商王廟」になるようだ。また右側にちょこっとだけ写っている建物が碑亭だ。
尚、「商王廟」だが、後漢時代に安陽の庶民が殷朝の十二代王・河亶甲(かたんこう)の功績を称えるため建てた廟だ。この河亶甲だが、殷王朝を当時の安陽(相州)へ遷都したことから“安陽の祖”でもある。
屋根だけの建物に「商王廟碑」が置かれている。元代大徳八(1304)年に建てられ、碑には河亶甲の功績が彫られているそうだ。ガラスケースに覆われ、写真を撮ると反射してしまう…。
「三展室」内の正面にある商王・河亶甲の絵だ。
三展室内は非常に殺風景となっている。
「碑亭」。碑亭のなかを見てみましょう。
「重修宋忠献王昼錦堂碑亭記」。説明書きはないが、忠献王とは韓琦の別名(諡)で、昼錦堂とはこの韓魏公祠のことを指す。碑には大清乾隆十三年とあることから1748年に彫られたことが分かる。
「昼錦堂記」。北宋治平二(1065)年、碑に彫られた題字は北宋の役人で隷書の達人・邵必によるもの、文面は北宋の大文学者・政治家である欧陽修によるもの、碑面の字は北宋の書家・文学者である蔡襄によるもの。秀でた三人が併せて作ったことから「三絶碑」とも言われる。だが、元代に一度彫り直されている。この碑の拓本は日本へも伝わっているという。
「栄事堂碑」(左)と「酔白堂記」(右)。この2つは碑面の字が風化しており、そして説明書きが無くよくわからず…。
「大門」。南東馬道から眺める大門の正面。清代に建てられた門だそうだ。
こちらは大門の裏側(敷地内から見る大門)。
大門は閂(かんぬき)がはめられ、かたく閉ざされている。
「二門」。大門の並びにあるのだが、門というかは一つの部屋だ。清代に建てられたのだが、この二門は後世の人によって手が加えられているそうだ。
二門へは入れず。また二門のなかは足場などが置いてあり、倉庫化している。
二門の右脇を通り、奥へと進みます。
「読碑亭」
さまざまな碑や彫刻がなかば無造作に置かれています。
一番奥にある修復中の建物。
ネットの破れたところから中を伺います。元はどのような建物だったのでしょうか?またどのような建物になるのでしょうか?説明書きがなく、全く分かりません。
修復中の建物の場所から大門の方向を眺めます。では戻ります。
チケット売り場の門まで戻ってきました。
つぎに明・彰徳府城壁へと行きます。
つづく。