日本語 荊州城壁
中国語 荊州城墻(Jīngzhōu chéngqiáng)
訪問日 2022年5月22日(日)
荊州城壁だが、清代順治三(1646)年に再建された城壁が現在まで残されている。三国時代に荊州城壁の原型が造られ、各王朝・各時代で城壁を補修・補強を行い、現在に至る。一周は約12キロ弱。
昔は各都市に城壁があったようだが、辛亥革命以後「城壁が持つ都市防衛の機能が薄れ」且つ「街の拡大」により撤去されていった。また文革時代「破四旧運動」で城壁も文化財も破壊された…。なので、荊州城壁はとても貴重なものである。
城壁一周の完結です。
行ってみましょう!
現在地は!マークの位置、朝宗楼がある拱極門の近くだ。
拱極門のそばに掛かる「得勝橋」。三国時代、関羽が勝ち戦から荊州城へ帰還する際に渡った橋がいつしか得勝橋と呼ばれるようになった。その名前がウン千年と引き継がれ現在に至っている。
得勝橋のたもとに建つ「得勝橋」と彫られた碑。
碑の後ろは読みにくいのだが、今の橋は1988年に古い橋を取り壊し、1989年に完成したとある。
城外の「拱極(きょうきょく)門」だ。拱極門は大北門とも呼ばれる。
城外から拱極門へ入ります。奥には朝宗楼が見えます。
城内へと入ります。この道をまっすぐ(三義街)行くと、鉄女寺へ行くことが出来ます。
*鉄女寺に関する内容をまとめたブログ。
三義街(城内)から眺める拱極門と朝宗門。
では朝宗門へと登ってみたく思います。
電動シェアバイクは一旦、朝宗楼のそばに駐輪。新東門から7.8キロの距離らしい。
朝宗楼のチケット売り場。一人18元だそうだ。電気が止まっているとのことで発券はしてもらえず…。
朝宗楼へ上ります。
城壁の上も歩けるようですが、徒歩で歩くのは大変そう。
ここにも文字磚(文字レンガ)が積まれている。
拱極門の城壁の上をぐるりと歩きます。奥に見える朝宗楼は清代光緒十八(1838)年に再建されたもので、1981年に大規模な修復工事がなされたという。
朝宗楼へ上ってきました。
荊州城内の地図があります。古そうな地図です。既に存在しない建物も記載されています。
こちらも歴史感ある荊州城の説明書きだ。
朝宗楼から荊州城内(南方角)を眺める。
朝宗楼から戻ってきました。電動シェアバイクに乗って出発です。
拱極門を抜け城外へ出ます。
尚、拱極門のどこかに「バンザイ」と彫られたレンガがあるという。曰く、日本軍が荊州を占領した際に、日本人の兵隊が彫ったものという。どこにあるのか見つからず…。上から3枚目がその写真だそうだ。
城壁の外を東方向へ進みます。また観光カートがみえてきました。クラクションならされないように端に寄ります。
この辺りの城壁は、なんとなく整っていないように見える。
城壁のレンガの一部。レンガの中にレンガがあるのが分かる。
堀の奥に橋が見えました。
「新北門」に到着です。新北門も車両の通行の為に1990年代に新しく造られた門だ。
!マークが新北門の場所。
新北門を過ぎると綺麗に舗装された道路になりました。
「白馬井」です。白馬井は城内で緊急時が発生した際、城外よりの援軍を要請するための馬を走らせる基地だ。
「遠安門」に到着だ。新北門から約2キロ弱の距離だ。
!マークが遠安門の場所だ。
遠安門から城内へ入ってみたく思います。
遠安門のより城内へと入った。遠安門は小北門とも言われるが、古くは漕門と言われたそうだ。清代乾隆五十三(1788)年の長江が氾濫が起きた後、"遠く長い安寧"を願い遠安門へと改名された。
では遠安門から城外へと出ます。
遠安門を出ると、南下、そして左方向へ折れて東方向へと進む。
しばらく東方向へと進みます。この辺りは緑も多く、整備が行き届いている感じです。
青い柵が見えてきました。「止まるな」「安全注意」の文字が見えます。なんでしょう??
城壁が崩れたのかどうかは分かりませんが、城壁の補修を行っているようです。
堀に見える橋は「名月橋」だ。
名月橋から見る屈原像。堀の対岸は名月公園という公園になっている。
また名月橋のあるところが城壁の北東の角だ。写真はその北東の角で名月楼と言われる場所だが、楼閣は残っていない。
!マークが現在の場所。
城壁に沿って南下します。
この辺りの城壁は補修がされているようで、虫食いのようになっていませんし綺麗です。
堀には遊覧船が走っています。
「甘い匂いがするなぁー」と思うと、木には梅?桃?が実っています。
開けた場所にやってきました。子どもたちがお絵描きしています。
売店もみえてきました。どうやらゴール間近です。
賓陽門に到着です。
電動シェアバイクで一周するに丸々2時間だ。観光カートで一周するにも40分はかかるそうだ。
荊州の旅はあともうちょっと。
つづく。