開催レポを楽しみにしていたところ、早速お二人の方がレポにしてくださいました
お二人のレポのご紹介とともに、自分も参加した気分で記事を書いていきたいと思います
まずは、部長であり主催のちくわさんのレポから。
【前編】
【後編】
ちくわさんのブログは洗練された印象です。
鋭い視点で難解な問題もわかりやすく解説して
くださるので、賢い方だなあ、勉強になるなあ、といつも思いながら読ませていただいています
印象に残った箇所を引用させていただきます。
・「あきらめる」ことは、「逃げ」や「妥協」だけではない。
・「あきらめる」ことは「優先順位づけ」である。
・「あきらめない」ばかりだと、限られた時間で出来きらない。
・「あきらめない」ことは、かなりエネルギーを費やす。
◆捨てきるのか、残しておくのか
こんな意見がありました。
・「あきらめる」は、いったん「距離を置く」こと
また、こんな意見もありました。
・「デキる」人ほど、「スパっと」あきらめることができる
それは、「今」はそれに向き合わない、ということです。
金輪際それをやらないとおもっても、ひょんなことで昔取った杵柄を使うことがあるかもしれません。
でも、今はあることに集中したいから、あきらめるのです。一旦忘れるのです。
◆コミュニケーションをあきらめる
・どうやってもわかりあえない人に対して、コミュニケーションをあきらめる。
こんなおもしろい「あきらめる」もありました。
皆経験ありますよね。私もアリアリです。
でも、話しを継いでくれた方が、この「あきらめる」のいいところを語ってくれました。
「あきらめた」後に、自分が一歩引いた目でみると、ポジティブに転がることがあるということです。
◆合理的な選択といての「明らめる(あきらめる)」
・「好き」というほどでなくても、「向いていて仕事になるから」という理由で選択した「あきらめ」もある。
冒頭に「明らめる」という字を使用したのは、「あきらめる」には、「自分を見つめ明らかにする」という意味をもっている、ということを教えてくれた方がいらっしゃったからです。
やりたい事と、向いている事はイコールではないことがよくありますよねー。
・「あきらめなかった人」がいつも時代を切り拓く
そんな意見について、いろいろな考えが出ました。
それは真実です。周りのみんなに白い目で見られても、自分だけは信じた仮説に向かって、あきらめずに取り組む。
そしてその結果、偉大な発見が待っているのです。
世の中の偉人伝はそういうものです。1%の成功者が語っているものです。
それを信じ、あきらめずに続ければ夢はきっと叶う!といったある意味根性論が日本には根強くあります。
上記の通り、時代を変えるのはあきらめなかった人です。それは疑いようがありません。
「GRIT(やりぬく力)」は人として成長する重要な能力です。
しかし、残りの99%の人はそこまでたどり着かないのです。
そして限られた多くの時間を叶わない夢に費やしてしまい、別の道をやり直すきっかけを逃しているかもしれません。
その辺の「見極めが肝心」というのでしょうか。
それこそが「あきらめる」の真実なのではないか、と皆の話を聴いていて、思ったのです。
◆「選択」に対する「自信」と「後悔」
・「あきらめた」ことに対し、理由を付けそれが正しかったと思うようにしている。
という意見や、それに対し、
・「あきらめた」ことに対し、それでも後悔と不安が拭えることはない。
という意見もありました。
「あきらめた」後の自分の気持ちについての意見が多く出てきました。
では、「あきらめ(=選択)」に対して自信がある人は、どういう状態なのか?
人生で何か選択をするときは、1対10のような分かり易いものではなくて、7対8ぐらいの僅差の選択肢で、後ろ髪引かれる思いで選択することも多いです。
でも、それを先述のような、合理性や好き嫌い、向き不向きなど納得いくまで自分に向き合った末、これでいこう!と選択した過程にこそ自信の根源があるのではないか、と私は思いました。
(そういうけど、そんなもんじゃないよ、という反論は受けますが)
次に大阪サポーターであり、読書会のみならず彩読ラジオ、ヅカ部など、殆どの活動を網羅しているのではないかという勢いで、詳細をレポにしてくださっているひじきさんのレポです。
ひじきさんのブログは、ユーモア溢れるありのままの素直な言葉で語られるのが魅力だと思います。
今回の記事もひじきさん個人の体験談として哲学カフェでの学びが語られていて、哲学カフェの魅力を伝えてくれる記事でした
【前編】
まずは哲学カフェについての説明がわかりやすかったので引用させていただきます。
正解・結論を出したり勝敗を決めたりする場ではなく、様々な意見・考え方に触れることを通じて、1つの事柄の意味の広がりを味わい己の考えを広げる場である。ただし、意見の違いを知るということは、「みんなちがってみんないい」で済ますということではない。その違いに気付いたうえで自分は何を掴み取るのかを考えて初めて、哲学カフェは実現するといえるのである。——以上に書いたことは、哲学カフェ研究会の長であるちくわさんが、毎回部活動の最初に説明される内容を僕なりにまとめたものである。
ちなみに、ちくわさんの説明では、上の内容に続いて哲学カフェで気を付けるとよいことが紹介される。曰く、「ふだんよりゆっくり考えよう」「話すよりも『質問する』『聴く』を大切にしよう」「浮かんだものをとりあえず話してみよう」「わからないことにこだわろう」そして、「屁理屈をこねるヤツらの自己満の会にならないようにしよう」とのことである。
それでは、本題に入って、「あきらめる」をテーマにした2時間の話し合いを、僕自身の気付きに引き付ける形で振り返っていこう。ざっと話の順序を示しておくと、①「あきらめる/あきらめない」の基準になるものは何か、②そもそも「あきらめる」とはどういうことか、③「あきらめる」ことはポジティブかネガティブか、という3つのテーマついて書いたうえで、最後に、④この3つのテーマ以外で特に印象に残った話を紹介する、という流れになる。
◆1.「あきらめる/あきらめない」の基準になるものは何か?
自分の話から始めよう。「あきらめる/あきらめない」の基準になるものは、僕の場合〈できそうか否か〉である。
「あきらめる」には、「やってみて、できなくて、あきらめる」場合と、「やる前から、できないと思って、あきらめる」場合の2種類があるなぁと思い、メモ帳に書きつけた。その時、2つは確かに別個のことだけれども、〈できない〉と思うことがあきらめにつながる点では同じだと気付いたのである。僕にとって、あきらめるか否かは、その事柄の成功/実現の可能性や、僕自身の遂行能力に関わる問題であった。
ところが、哲学カフェの中では、全く違う意見が幾つも登場し、逆に「能力がないからあきらめるっていうのはピンと来ない」と言う方もいた。では、他の方々にとって、「あきらめる/あきらめない」の基準になっているものは何なのだろうか。
まず挙がったのは、〈好きなことならあきらめない〉という意見だった。「資格の勉強は、その資格が好きじゃないからあきらめるけど、評判のカフェに行くのは、好きだからあきらめないだろうなって思う」そんな話だった。
次に挙がった基準は、〈必要かどうか〉というものだった。「ここでやめとこうって思ったことは、自分には必要のないこと、少なくとも今ここでやるべきことではないなって思う。あきらめるっていうのは、必要のないものを切り捨てることだと思う」という話であった。
〈やりたいことかどうか〉が基準という意見も出てきた。「能力がないからあきらめるっていうのはピンと来ない」と話したのは、この意見を出した方である。その方は、どうしても取りたい資格があって(それが現在の職業にもつながっている)、当時は絶対資格が取れるなんて自信はなかったけれど、あきらめはしなかったと話していた。
これらの意見は、どれが正しくてどれが間違っているかを判定するようなものではないし、集約して1つの基準に束ね上げるようなものでもないと思う。僕がこの話を書いたのは、哲学カフェで発言するまで、「あきらめる/あきらめない」の基準が人によってこれだけ違うとは思ってもみなかったからであり、それだけに、自分と違う意見の1つ1つが新鮮だったからである。そしてまた、こうして様々な意見と比較することによって、〈できないことはあきらめてしまう〉自分、さらには〈できる子でいたい〉という理想に縛られている自分自身の姿が炙り出されたからである。他を知って己を知る、それが実現できた哲学カフェは、やはり充実した回なのだと思う。
実際の哲学カフェの中では、「あきらめる」の意味の限定は、「やめる」と「あきらめる」はどう違うのかを考える中で進められていった。幾つか意見が出ていたが、個人的に一番しっくり来たのは、執着を捨てる時には「あきらめる」という言葉が当てはまるという考え方だった。話し合いの中で、「あきらめるっていうのは、距離をおくってことだと思う」「あきらめるのは手放すのと同じだと思う」という意見が出ていた。どちらも、執着を捨ててものを自分から切り離すという意味のように僕には思えた。こだわりの強いものを手放す時、そのモヤモヤ感を言い表すのに独特の表現を使いたくなる。そこで出てくるのが「あきらめる」ではないか、ということだ。
この節の話はちゃんとまとめておこう。まず、「あきらめる」というのは、結局のところやることとやらないことを区別する選択の問題であるということをみてきた。次に、そのうえで、執着のあるものを振り捨てる選択をした時に、僕らは「あきらめる」という独特の表現を使いたがるのではないかと考えてきた。僕はこれら一連の思考を、「あきらめる」という言葉がまとっている独特の色を取り除いたうえで、その色がどんなものだったのかを知ることだと表現してきた。そのどちらも大切なことなのだと、今の僕には思える。
記事が長くなって一つの記事では収まらないので、一旦切ります。
よろしければ後編にお付き合いください