「水戸潤さんですね」

名前を呼ばれた。

振り返った。

そこには、現実と夢の境界線が揺らぎ、その裂け目からこぼれ落ちてきたような少女が立っていた。

外国人?グレーのロングヘアーにシックなチェック柄のノースリーブのワンピース、透き通るような白い肌、すらりと伸びた手足。

小さなシルバーのピアスの輝きが心に突き刺さる。

「娘の小田島沙也加です」

一瞬、ERIKAが話しかけたのかと思った。

目の前の彼女の口から声が出たので、それが間違いだと気づいた。

それほど、ERIKAの声と似ていた。

「ERIKA、脳内に入り込んで勝手に加工していないか?」

「何も手を加えていないわ。リアルよ。自分の目と耳で確かめて」

確かによく見ると、目元の作りと頬から顎にかけてのしなやかな線に見覚えがある。梨香の面影がある。

切なさを含んだ懐かしい思いがした。

「娘さんですか・・・」

そこまで出て、言葉に詰まってしまった。どう説明したらよいのだろう。

最新のAIが自分の脳と同期して、深層心理を全て洗い出した。

その中で、小田島梨香という人物を洗い出した。

20年前に別れた彼女の存在が潜在意識の中で大きな役割を占めているらしい。

AIは、それにちなんでERIKAと自ら命名した。

そして、彼女のデーターを調べ上げた。分かれてすぐに別の男性と結婚、女の子を出産。その5年後に離婚。シングルマザーとして育て上げ、やっとひとり立ちしようとした矢先にがんが発覚、悪性であと2,3か月の余命だそうだ。

ERKAは、その報告が私の幸福度が上がるために報告したという。

私は否定した。

他人の不幸、ましてやかつて付き合っていた女性が不幸になるのを喜ぶはずはない。

しかし、彼女は断言した。

深層心理の中では、小島梨香の不幸を望んでいて、彼女の不幸の度合いが増すごとに、私の幸福度が上がっていくらしい。

だから、それを確かめるために、何の前触れもなしに末期がんの小島梨香に会いに来たのだ。

「母から水戸さんのこと色々と聞いています。私も、作品を全部読みました。ファンなんです。お会いできて光栄です。母も喜んでくれると思います。いつも、口癖のように、彼のことなら、何事もなかったようにふらりと現れてくるわよと、話していましたから。母も、本当に喜んでくれると思います。本当に良かった」

かみしめるかのように話しかけると、目から涙がにじんできて、すぐにあふれだした。

彼女の涙を見て、梨香の病状の深刻な状態を知った。

それと裏腹に、梨香の娘さんの涙であふれる瞳と流れ落ちる涙の輝きが美しいと感じた。

神聖な領域に、土足で踏み込んでしまったような気がした。

これから、自分のする行動は、何か取り返しのきかないような悪い方向に向かっているのではないだろうか。

「ERIKA、どうしたらいいんだ?」

「解析中、回答には時間がかかります」

冷たい事務的な答えが返ってきた。

彼女もしょせん機械なのだ。

見知らぬ国の街角に一人で放り出されたような気がした。

行く当てのない孤独と不安を感じた。

沙也加にどう返答してよいかわからない。今の状況をどう説明をしていいのかわからない。

彼女の視線を感じる。

何か言いたげな様子。

私も同様に、言わなければならないことや、聞きたいことが山ほどあるのに、口から出てこない。

言葉が何の脈絡もなしに、頭の中を駆け巡って、出口を見つけ出せずに積み上げられてゆく。

その一片でも、口に出すと積み重なっている言葉が崩れ出して、爆発しそうになることを恐れた。

自ら、装い創り出している人格がそれを押しとどめている。

結局、二人とも、黙ったままエレベーターに乗って、病院の長い廊下を歩いた。

朝の病棟は騒がしい。

高く軽い音や声が交雑している。その中で二人の足音だけが冷たく響いて聞こえてくる。

「小田島梨香」と書かれた病室の前に来た。

滑稽なほど下手に書かれた文字が、彼女の人格を否定しているようで憤りを覚えた。

「しばらく、ここで待ちください」

沙也加は、そう言って先に中に入った。

思いの外、待たされた。

怪訝そうに伺う看護師の視線が気になる。

「どうぞお入りください」

病院特有の薬品の臭いが立ち込める中に、微かに漂うラベンダーの香りが、私の心に一縷の勇気を与えてくれる。

ここまで来てしまったらもう引き返すことはできない。

病室は朝の敬虔な光に清められている。

その中に梨香がいた。

ベージュ色のニット帽をかぶり、余分な肉をそぎ落とされた梨香の顔。

その顔は、思い出を現実に引き戻したうえで、さらに現状を的確にあらわにしている。

希望を徐々に剝がされてゆき、現実に直面しても、なお最後の一片の希望にのぞみをかけているような敬虔な表情。

場違いであるが美しいと感じた。

「来てくれて、ありがとう」

その顔は、こちらに向けられず、視線は天井に向けられたままである。

彼女の真意が掴めない。

なんと答えたらよいのだろう。

「ごめん」

結局、口から出たのはそれだけだった。

返事が返ってこない。

沈黙が続く。

わずかに窓が開けられているのか、レースのカーテンが揺らいで、緑色の香りを含んだ風がすっと入ってきた。

光が揺らいだ。

その微かな乱れが沈黙を破った。

「たぶん、私があなたを呼んだのよ。心の奥底で、最後にあなたに会いたいと思っていたのよ」

「私って、どう考えたって先が長くないもの。未来を描くことが出来ないってどんなにつらいことが分かる?生きることが辛いなんてまだいい方。未来を思い描くことが出来ない方がもっとつらい。私には、過去をなぞることしかできないのよ。当然、あなたが出てくる。あの時のままのあなたが。あの笑顔が。頭の中に消えないアルバムが出来ちゃっていていつもぐるぐる回っている。それが日に日に多くなってきている。あなたは、私の思いでの中でいいとこ取りをしているのよ。このままでいくと、最後の瞬間に浮かぶのはあなたの面影よ」

沙也加は、話している母親の顔をうらやまし気に見つめている。

「ごめん」

それしか出てこない。

自分は知らない間に、ひとりの人間の中に入り込んで、犯しがたい罪を背負っていたのだ。

それとは裏腹に、目の前の彼女がすごく敬虔な存在に思えてきた。

神の前に身をささげる修道女のように思えた。

それは、私の中に眠っていた「死」を呼びさまさせた。

神聖な死の誘惑が私にそっと寄り添ってきた。すべてを浄化し、無に帰してくれる。あの究極の甘い香りが鼻の奥をくすぐる。

そうだ「死」があったのだ。

ただ彼女と違っていることがある。

彼女は、私の面影を抱いて死に向かおうとしている。私にはそういう存在はない。対象のないものに祈りをささげているようなものだ。

それは価値のない、無意味な「死」だ。私には、それに見合う大義名分がない。

梨香を見つめた。

彼女に嫉妬した。彼女の瞳には、若い頃の私が映っていた。

明確な「死」に向かう彼女の潔い姿が尊く見えた。

なぜか、涙が込み上げてきた。

私は、生きなければならないのだ。

小島梨香という十字架を背負って。

突然ERIKAが話しかけてきた。

「分からない。あなたという存在が・・・。人間という存在が・・・。私の計算を超えている。解析できない」