福岡 久留米市とドイツの繋がり | ★バツ4シングルママは波乱万丈★みえブログ★

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現在54歳。16歳と31歳のシングルママ。バツ4。
韓国歴35年&3度の短期留学経験。日韓文化経済フォーラム日本支部代表。パワーストーンセラピスト。YouTubeみえちゃんねる。福岡探検倶楽部隊長。元ミスコン荒し13冠のミスを獲得。モデル、レースクィーン。

こんにちは😃

今日は、久留米市にまつわるお話し。


以前、YouTubeでも取り上げましたが、かつて

久留米にはドイツ兵俘虜収容所がありました。


みえちゃんねる


今から約100年前、第一次世界大戦時のことです。

国内最初で最大規模の収容所として設置され、

1,300人を超える戦争捕虜を収容していました。

収容所はハーグ条約に基づいて運営され、捕虜は

人道的に待遇されていました。

将校には日本政府から給料が支払われており、

下士官以下へも衣食住が支給されていました。 

本国からは義援金が届き、家族からの仕送りも

ありました。

捕虜たちは安定した暮らしを送り、元の職業や

特技を生かした多彩な活動を行っていました。

ドイツ兵と当時の久留米市民は友好的な関係で、

様々な交流の場面がありました。市民は彼らに

親しみを込めて「ドイツさん」と呼んでいたと

いわれます。

「ドイツさん」たちは、工業・文化・スポーツ

などの分野で、近代ヨーロッパの進んだ技術や

経験を持っていました。

これらは、久留米の文化や経済・産業の近代化に

重要な役割を果たしました。





講和条約が成立し、5年3ヶ月続いた久留米捕虜

収容所も閉鎖の時を迎えました。ドイツさん

たちは次々と帰国の途につきます。

この間、捕虜たちの年間消費支出額は市の年間

予算を超えており、久留米市は多大な経済的な

恩恵を受けました。

さらに第一次世界大戦の戦争景気による貯えが、

その後の戦争不況を乗り切る基盤となりました。

この時、久留米の産業を牽引したのは、捕虜たちが

技術貢献したゴム産業でした。

近代ゴム産業を基幹とする商工都市への発展は、 

ドイツさんたちの存在を抜きにしては語れません。




ドイツさんはどこにお勤め?」


国内産業の近代化を図る日本は、捕虜が持つ高度な

知識や技術を活用しようと思っていました。

捕虜たちにとっても、収容所の外にでて体を動かし、一定の賃金を得ることができるまたとない機会でした。

捕虜たちの中には、機械やゴムの技術者がおり、

彼らは「つちやたび合名会社」や「日本足袋株式

会社」「ブリッヂストン株式会社」で雇用され、

ゴム産業の発展に貢献しました。








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