昔は、本当によく泣きました。

感情が湧いてくるとそれがすごく高ぶって、すぐに涙が出ました。

最近は、たま~に泣きます。

感情が湧いてもきっとそれに対して昔より冷静なんだと思います。


私は、たくさんの涙を流してきたことがよかったと思います。

そして、たくさん怒ってきたことが。


あの時は分からなかったけど、そうして感情を外に出す度に自分の中のいらないものが流れていったのだと思います。


誰かに対して怒る時に、私の言ってることは正しいんだろうか、私は今ここで怒ってもいいんだろうか、と思ったけれど、起こるべき場面とかそういうのじゃなく、私は怒っている、今こういう気持ちなんだという事実だけが重要だったんだと思います。


人の怒りって、単純にそのことを怒ってるというよりは、過去の何かを思い出したり色んな気持ちが混じってきて大きな感情になっていることが多いです。

だから、聞いている人にとったら、理解し難いことが多いです。

なんでそんなムキになってるの?と。

でも誰にだってそういう引っかかるものがあるのだし。


他人にとっては軽~いものでも、自分にとっては大きな感情が湧いてきた時は重要な時だと思います。


自分の気持ちに正直になれば、自分は果てしなくわがままな奴になってしまうという恐れがありました。

でも、逆のようです。

心の中に色んなものを滞らせておく方が、出口が見えないトンネルにずっとい続けることになるのだと思います。



一番信じられるのは、自分の心。

大きな感情が湧いた時に、"そうなんだね、そうなんだね、"とただ受け入れることだけ。

そういう時に、周りの人が言う理屈みたいなのは、逆効果だと私は思っています。

周りの人にはそれぞれに心があるし、その心は色んなものを背負ったり含んでいるので、ありのままをありのままに見られない気持ちがあると思うのです。

だから、もっとも純粋に自分を抱きしめられるのは、自分だと思います。



理屈抜きに、感情を抱きしめていきましょう。

自分を抱きしめていきましょう。流れ星







ある人が言いました。


不安だっていう気持ちも、楽しみだっていう気持ちも、実は同じようなものなんじゃないかな…って。


非日常みたいなものだし、未知の世界のようなものだし…。


ちょっと頭の中で噛み砕いて、なるほど~と納得しました。にゃ


プラスとマイナスがあるけれど、実はそれはそんなに大差がないということがあります。


プラスに傾けば、それを保つしんどさがあるし、人間はもっともっと欲が出てくるものだし。

マイナスをプラスにしようと思っている時は、そういう面が見えないんですよね。



私は、十代で心を病んでから普通の人よりも心について色々考えたりしてきました。

紆余曲折を経て、そして今も学びの途中ですが、あらゆるもののプラスとマイナスの間にある中間のような地点を探っているのかな…と、そんな感じです。

中間、平坦、普通、特別でない…こういう言葉で表せるような。


前に本で読んだんだけど、右にも左にも傾いていないところ、それは人間にとって死んでいるのと同じだ、みたいなことが書いてありました。

生きてるってことは、常に動いている。

それはちょうど振り子のように、右にいったり左にいったり。


そういうものを、もろに惑わされるんじゃなく、客観的に見ていられればいいですね。うさ。





おひさしぶりです音譜


まったく更新しない時も、訪れてくださった方々、本当にどうもありがとうございます。ブタ 



ここから、テーマ(カテゴリー)を新しくしました。顔文字

元々、摂食障害から始まったブログです。

同じような病気でも、症状も人それぞれだと思います。

そんな中で、私の摂食障害は、心の問題が大部分を占めていたので、私は完全にの病気だと認識しています。


摂食障害の、特に若い年齢の人たちは、心よりもどちらかというと食行動や目に見える部分に意識が向いていらっしゃるようで、私もこのブログを書く時に、けっこうそれを意識してしまってました。

まぁそれも大事なのだけど、私としては、の方に関心があります。

摂食障害に関わらず。


自分が色んなものに縛られないように、「こころ」というテーマにしました。ラブラブ



ラインラインライン



世の中には、色々なものに対して、色々な考え方があります。

自分の本音よりも、どう考えるべきかに縛られたり、多数派に入ろうとしたり、無意識にそんなふうにしてしまうこともあります。


例えば、ダイエットはいいことなのか、悪いことなのかということで…

それは、どこまで議論したって結局は意味のないことなんじゃないかと思います。

ダイエットしたい人はすればいいし、したくなかったらしなければいいし。

ダイエットしても大丈夫な人もいれば、病気になってしまう人もいる。

だから、いいか悪いかを判断する時、自分にとってどうなのかは結局自分の中だけで考えなければならないことだと思います。


こういう摂食障害のコミュニティの中では、きっとダイエットはダメなもの!という認識が強いと思います。

そうして、ダイエットを否定することで、ダイエットしなくていいという思いを強めていきたい気持ちもあると思います。

でも、一歩外に出ると、またそれは違ってきます。

だから、コミュニティの中にいる時はいいけれど、外に出た時に、周りの意見にまた惑わされて辛くなるかもしれません。


いつも、一番考えなければならないのは、自分の心が最も楽になれるものを選んでいくことかなと思います。


ダイエットの例ばかりで申し訳ないですが、

ダイエットをしようと思ってわくわくする人もいれば、ネガティブな気持ちになる人もいます。


誰よりも細くなりたい!とか、見返してやりたい!というのが動機だと、やっぱりそれは自分の中の、か弱い自分を追いつめているんじゃないかな…


別に何をしようが、何を思おうが自由だと思うんです。(^-^)

ただただ、自分自身が良い気持ちになれることを選んであげるのが一番だと思います。



ひどく心が病んでいる時は、自分を労わることさえも辛い(腹が立つ)ことがあります。

心が癒されてくると、自分や世の中の優しさ、丸さを取り入れようとする心の部分が育まれてきます。


自分を労わることが大事なのだという心掛けと、それを受け入れようとする心、双方が少しずつ少しずつ歩みよっていくという感じじゃないでしょうか…





体重に拘る気持ちについて、今の私が思うこと。


現在の私は、ほぼ食べる量も一定で、体重も大きな変動がなく、変化なしという状態です。


あまり体重を量りたいとも思わないし、時々思い出したように量る感じです。


思うに、ダイエットって多くの女性が多少興味あるんじゃないでしょうか…。

特に若い頃は、スタイルの良い人を見ると、自分も痩せたいって気持ちが出てくるんじゃないかな。


だけど、それをどれだけ本気で思ったり、その気持ちが持続するかですよね。

今の私は、持続しません。。。


身近に、モデルさんみたいに綺麗な人がいるんです。

眺めているうちに、こんな思いが湧いてきました。

“私も今食べてる甘いお菓子をちょっとやめれば、痩せるのかな…”

そして、やってみようと思ったんです!


明らかに私は甘いものを必要以上に食べていると思うから(適度な量でやめないで、ちょっと気持ち悪くなるまで手を伸ばしてしまう時が度々あるんです。結構後悔します涙)、ダイエットとかじゃなく、少しだけ意識して適量くらいでやめてみようと。。。


そしたら、不思議なことに気づきました。


普段なら、すっかり忘れている‘食べることに関する意識’みたいなのが、生活の前面に出てくるような感じになるんです。

結局食事に関してそんなに意識していない時は、さっきの食事は終わればすぐに過去のこと(忘れる)、そしてこれから後(未来)に食べるものも、それはその時に考えていればいいことで、本来満たされていれば食べることに振り回されることはないのです。


でも、ちょっと気をつけようかなとか、意識し出した途端、食べることの存在が自分の中で大きくなってしまうんです。

“さっきのあれは、適度な量だっただろうか、必要以上に食べすぎたかな”とか余計なことを考え始める。


そして、ちゃんと自分の思ったようにできるだろうかという不安のようなものも、自分のどこかに芽生えてくる感覚になるんです。


そんな自分を冷静に見ていて、これがダイエットの落とし穴か~…と思いました。

きっと、意識すればするほど、脳に余計な負担がかかり、逆になってしまう感じ。(逆に食べたくなるということ)


私は、今まで、太ることを恐れる気持ちって、どうにかするものだと思っていました。

でも、ちょっと思ったのは、どうにもすることないんだろうなって。

どうにかできることではないと思いました。


言ってみれば、全ての人に、太るのが怖いという気持ちが潜在的に潜んでいて、それを自分がどれだけ引き出してしまう機会(可能性)があるかってことじゃないかな~と。


私は現在の生活で、痩せるとか太るを意識する機会があまりありません。

今私が関わるのは、子供を通しての人との付き合いが中心だけど、体型の話なんて出ないし、そういうことを話す機会がありません。


テレビでも、ダイエット番組とかあまり興味ないし、見ない。


だから、生活の中で私の意識の前面に出ているのが、食べることとか痩せることじゃないんだな~と思います。



例えばたまたまテレビや雑誌でダイエットのことを目にしたとしても、私が思うのは、“そういうことは人間の単なる一部分”。




ペコリコメント欄閉じます。




摂食障害で、よく共通している心が、負けず嫌いとか、自分のこと見てほしい構ってほしい、プライドが高い・・・そんな感じのことだと思います。


私も、こういうのが強かったから過食症だったと言ってもいいくらい。


強すぎたんですよ。

何も病気でない人でも、きっと人間として汚いな~って感じる気持ちは持っているはず。

どうでしょう、たいていの人が、そういうものには蓋をして気づかないようにしていたりするのかな・・・?


蓋をできるくらいならいいですよね。

私なんかは、直視せずにはいられないくらい、そういう性格で苦しみました。


きっと私の周りの身近な人も苦労したはず。

理解できないものね。


摂食障害が治ってからも、そういう部分は結構ありました。

もちろん今でもあります。


でも、今は昔とは比べものにならないくらい、あっさりしてきました。

まっすぐに進んで壁にぶち当たり倒れてしまうんじゃなく、障害物に対しては、頭でピピピッと考えて回避できるようになってきました。


そして、何よりも重要なのが、そういう自分の嫌な部分を、嫌ったりしないこと。

嫌ってはねのけるより、受け入れた方がうまい具合にいくって分かっています。


受け入れること

この一言に尽きます。

でも、なぜ何回も何回もこの言葉を聞いてもその通りにしない人が多いのかと言えば、きっと受け入れたからってすぐにどうにかなることじゃないからかなと思います。

受け入れれば、ずっとそれを持ち続けると感じるのかな。

はねのけなければ!、逃げなければ!って思うのかな。


それから、一つ二つの受け入れならできるけれど、摂食障害で苦しんでいる時のような、次から次へと溢れる気持ちは、なかなか受け入れきれるものではないと思います。

逆にしんどくなりますよね。


でも、嫌な自分も嫌な心も気持ちも感情も、頭で“どうしようか・・・”って考える必要はないんですよ!

考えて答えを探そうとしているかもしれないけれど、答えはもう出ている。

今、まさに今この時の自分が、唯一の答え。

どんな気持ちだとしてもそれを認めればいいです。


誰かに対して腹が立つのなら、直接相手に言うんじゃなく、自分の心の中で、“私は今こう感じているの”と認めるんです。

そして、それに対して、もう何も考えたりしない。

この気持ちは良いのだろうか、悪いのだろうか、とか判断しない。


それでいいの、全てがそれでいいの^^



私は、受け入れることを努力しているうちに、自分の嫌な気持ちなども、ただたまたま今起こっている現象の一つって感じで客観的に見られるようになってきました。





ふっと思い出しました。

摂食障害から抜け出そうと必死になっていた時、本に書いてあったことで、

『痩せたい気持ちは、自信のなさからきている』そんな言葉です。


その頃私は、自信を持つってことは容姿のことだと思っていました。

自分の顔を好きになるとか、痩せていなくても好きなファッションなどを楽しんで自信を持つとか。


頑張って好きになろうとしていたんですね。

でも、ものすごく嫌っている自分を好きになるなんてものすごく難しいことですよね。


あれからなが~い月日が経って、今の私の立場から振り返ると、何気なく重ねてきたこの月日、時間、それこそが揺るぎない自信ってものを生み出すんだな~なんて思います。


それは、容姿じゃなく、心の中です。人間性。

別にあえて人に誇れるようなものじゃないけれど、それは自分の中だけで分かっていることで、私が得たもの、余計なものを捨てていったこと、その一部じゃなく過程全体が私にとっては誇りって言えるのかな…


あの頃、そんなものがあるなんてことは全く気づかなかったけれど、なんの期待もなく歩んできたその空間に大切なものがあったんだな~ってしみじみ思います。


今の私が思うのは、私の中に太るのが怖い気持ちが残っているというのは、まだ私が自分に自信を持ち切れていないところがあるっていう証拠じゃないかって感じます。

劣等感の表れです。

それは、人に対してではなく、“自分はこれでいいんだろうか”という自分の中の気持ちです。

それとか、私もまだまだ欲があるから、理想と現実の差みたいなものから、満たされないものを埋めるように、痩せていることにしがみついているところがあります。


でも、今はそれでいいかなって思います。

だって、それを埋めようと思ったって、絶対埋められないって思うし、1日1日過ごす中で知らぬうちに埋められていくだろうと信じているし。


私は今、過食行動とかは出なく、ほぼ毎日安定した食生活を送れているので、今の状態をそのままで置いておけるのだと思います。


今苦しんでいる方は、必死で抜け出そうと頑張ったり、気力がなくなったり、それぞれの置かれた状況、立場があると思います。

どんな状況にも、それぞれの人の対処法があり、大切な過程だと思います。

対処法っていうのは、心が感じる“こうしてみようかな、ああしてみようかな、こうしたらいいんじゃないか”っていうようなこと。

きっとそれらの時間が、数年後に自分の一部となって自信として確立されているんじゃないかと思います。



私にも、先が見えなくてもがいていた時期があるから、自分を信じて、がんばってくださいheart




体型に関して、普通に人生生きてきた人なら、太りたくないって気持ちをシンプルに受け入れられると思う。


でも私は、摂食障害って病気で、必要以上にダイエットや体型について頭にこびりついた過去があるから、太りたくないって思うことは悪いこと、とても苦しいことっていう固定観念ができてしまいました。


だから、自分の心の中から太りたくないって気持ちを完全に消してしまいたいってずっと思っていました。


私は、ある時期(摂食障害の頃)、ストップかけずに思う存分食べたい、でも太りたくない。本気でそう思っていました。

それから、頭であれこれ考えずに、必要以上に意識せずに食べたいだけ食べれることが、病気が治ることなんだと思っていました。


これって、摂食障害で極度に食べることを規制した対極の在り方って感じで、本当に白黒の世界だな~って思います。



摂食障害って病気は、異常に体型や食べることに関して拘りがある状態。

でも、治った時に、それらに関して無頓着になることじゃないと思う。


元々普通って呼ばれる人たちの中にも、体型に関して何の思いもない人もいれば、拘る人もいる。

どちらとも、それはそれで一つの性質なのだから、いいと思います。


みんな、興味あることは違うし、拘るところも違うもの。



太りたくないって気持ちの中にも、色んな段階や種類があると思います。

太ると自分の存在価値がなくなるようで怖いとか、人の目が気になるとか、体を動かすのが億劫になるとか、色々。

結局ダイエットが悪いんじゃなく、そのやり方とか、程度とか、それから自分が自分自身にどういう気持ちを持っているかとか、そういうのかなと思います。


私は、とても苦しんだから、長い間‘ダイエット’にすごく反発心がありました。

でも、ダイエットだって、生きるツールの一つです。


きっと、人間って、何かを極端に禁止すれば、思いもよらないくらいの欲求がたまってしまって、‘ほどほど’という観念をなくしてしまうのかな…


ほどほど、臨機応変、気持ち次第とか、ほとんどのものが、そういうあいまいさの中でバランスとっているんだろうと最近思います。


私は、自分の中に太りたくない気持ちがあっても、全然いいと思います。

それが私だし、ごくごく自然に思うことだし。


ダイエットとか体型…って、色んなことにつながっていて、食事の仕方、物との向き合い方、ただ痩せていることが良いっていうんじゃなく、自分らしいライフスタイルを営んでいく一つだと思います。


自分に合った体型、自分が動きやすい体型、そういうのを見つけていき、人間だから食べすぎることもあるし、ちょっとセーブしようかなと思ったりもするし…


対、人じゃなく、全部自分のためですよね。。。



同じ摂食障害って言っても、色々だな~と最近本当に思います。

同じ病気だから考えていることや気持ちが同じってことでもないし、やっぱり人それぞれが思う気持ちや考えがそれぞれに正しいんだと感じます。

人と同じじゃなきゃおかしいなんてことは、いっさいないし。


摂食から抜け出す道は、好きなだけ食べることって人もいるだろうし、必要な量を食べることって人もいるだろうし、色んな道があるんだな~って思います。


治った後も、やっぱりダイエットや体型に関する感じ方は色々で、そのすべてがそれでいいんだろうな~って思う。


痩せたいって気持ちや、自然に感じる気持ちを否定してはいけないなと思います。

でも、痩せたいと思うからって、無理をして逆に太ったり苦しんだりしなければいけないのは自分のためではないし、ほどほどってところが一番落ち着くのだろうと思います。




病気のことを知っている友人とのランチも最近は苦痛になるので、「朝寝坊したいから」を理由に、お昼過ぎに会うことが多いです。いつか、「自然に」一緒に食べれるようになるのでしょうか?それとも、多少無理してでも、行くべきでしょうか?



私は、無理はしなくてもいいと思います。

無理をすれば友達との付き合いが苦痛になっていくばかりなんじゃないかと思います。


病気のことを知っている相手ならなおさら、今の私にとって一緒にランチはきついってことを言ってもいいかな…と。


自分の心や状態が変わるにつれて、自然に一緒に食べれるようになると私は思います。

今は、一緒に食べることが苦痛だと思うのが正直な気持ちであって、これから先、“ちょっと行ってみようかな”って思う時が来るかもしれないし、更には、“一緒にランチしたい”って思う時が来るかもしれない。

何事も、‘今’の自分の本当の気持ちを認めなければ、別の気持ちはなかなか湧いてきませんね。


そうしなきゃしなきゃって焦るばかりで、実際はどんどんそこから遠ざかっていくっていう…



でも、もしも断ることで友達が離れて行ってしまうのが怖い、その恐怖に耐えられないっていうのなら、無理をして行ってもいいと思います。

それは、自分自身の選択。


私は、摂食障害を通ってきた道で、いつも、長い目で見て私にとって何が大切かを考えてきました。

なので、もしも私なら、無理はしない方向でやっていくと思います。

無理をして苦痛だと思うことをやっていても、何も進まないし、変わらない。


やっぱり何よりも、自分が楽なことを選ぶのがいいんじゃないかな~…




ここ最近、ブログで、『摂食障害が治ったきっかけ』や、この間の摂食障害ってことを大切な人に話す時の記事で、旦那との時間や結婚についての内容を書く機会が多くありました。


そして、私としては、ちょっとした勘違いが生じているんじゃないかと思い、書くことにしました。


私が自分自身で感じる、摂食障害から離れることができたのは、何よりも自分自身の努力です。

これは、私がこんなに努力したんだよってことが言いたいんじゃなくて、苦しみを乗り越えるのに、必ずしも‘人’が必要なのではないと思うってことが言いたいのです。


今の旦那と出会い、私を受け入れてくれたのも、結婚するちょっと前から過食行動が減っていったのも、全て全て結果論です。

たまたま私はそうだったということです。


私は、何も期待していませんでした。

もちろん、彼に受け入れてほしいって気持ちはあったけれど、そうしてくれたから摂食障害が治るなんてこれっぽっちも思っていませんでした。


それから、『摂食障害は、結婚すれば治る人も多い』って書かれている本も見たことがあります。

でも、私はそんなことも信じていませんでした。

結婚はあくまでも、純粋な結婚そのもの。ただただ、彼と一緒にいたい、一緒に生きていきたいと思っただけです。


私は、ブログの中で、どちらかというと、うちの旦那さんは受け入れてくれた、認めてくれたってことを強調して書いていると思います。

今の私は、以前ほど感情に波風立たないので、色んな人に対して、‘受け入れてくれている’って部分を見ることができるのですが、あの頃の私は、やっぱりそういうふうには感じ取れなかったので、分かってくれない!分かってくれない!とものすごい葛藤を感じたことは数え切れないほどあります。

それで、何度も何度も喧嘩もしました。



ブログでは、ちょっと誤解が生じるような書き方をしているのかもしれないけれど、私と旦那の関係は、病気とか心の不安定さ中心で成り立っているのではなく、とにかくお互いが一緒にいること、それだけで幸せだ、そこから始まった関係です。

一見冷静に見える2人だけど、実はお互いとても熱い人間で、あることについて話し出すと止まらないとか、楽しいと思えることが一緒だとか、本当に波長が合うのです。

一応書いておきますが、とんでもない喧嘩もいっぱいしてきました。。。



私は、摂食障害で辛かった頃、ひたすら自分の思いを、日記に書き続けていました。

「私は本当はこんなふうに思っている」、「こうしたらいいんじゃないか、こうしてみよう」、小さな小さな本音を書きまくりました。

そうすると、普段‘他人’を意識して自分を偽ってしまうことが、その日記の中では本当の自分が見えてくるんです。誰にも見られないから、何を思っても自由ですよね。

どんなにひどいことを思っても。

例えばね、「誰かを殺したい!」って気持ち。それだけ憎しみの感情をためているのに、認めなければ病気になるの当たり前じゃないかな。

自分の本音を書き出した時、“あっ、私は本当はこんな気持ちなんだ”って気付けて、自分で自分に“これが本当の私なんだから、それでいいの”って言い聞かせる。

本音に気付いたり、“これでいいんだ”って思えた時って、どことなくホッとして、力が抜けます。

そういうものこそが、自分にとって必要なものだと思います。



彼氏とか大切な人は、自分の心の病のためにいるんじゃない。

まず、自分は‘心の病’じゃなくて、一人の人間、一人の女性だよね。


彼氏彼女、2人の関係の中に、温かいものや信頼っていう空間があり、その結果お互いの心に何らかの形で作用していくんじゃないかなって思います。




自分が摂食障害だとか、人には言いにくいことを、大切な人に(彼氏や旦那さんに)話しますか?


話すとしたら、どのように話しますか?



私は、旦那と4年付き合って結婚しました。そして、本当に早い時期に摂食障害ってことを話しました。

会って3回目くらいの時に。

別に、“話すぞ!”って構えていたわけでもないんです。


私、20歳くらいの時、たくさんの人(男の人)と遊んでいて、ちょっと依存症気味でした。一人でいられないって感じで。

とにかく誰かに何かを求めていたんだと思います。

心が乱れれば誰かに電話をして「すぐに来て!」って言い、その人と嫌なことがあれば家に帰ってまたすぐに他の人に来てもらい…

だから自分の弱いめちゃくちゃな精神状態を人に(男の人に)見せることは全然抵抗ありませんでした。



もちろん、知り合う時はすごくまともな私です。

でも、一緒にいれば、ちょっとしたことで話がかみ合わなかったりってことありますよね。

私は自分の意見(考え・思うこと・気持ち)に全く自信がなかったので、すぐに否定されたとかそういう受け取り方をしてしまっていました。そんなことで気まづい雰囲気になり、相手はなんで私が不機嫌になったり泣いたりするのか分からなくて、「私はこういう病気で、こうで、ああで・・・」と話すことになるのです。


今思えば、私は、本当に私のことを支えてくれる人を見つけようとしていたのかもしれません。

だいたい反応で分かるでしょ。この人は自分を大切にしてくれるか、そうでないか。

私は、ただただ自分を大切にしてくれる人を探していました。だからちょっとでも“違う!この人じゃない!”と思うと、関わる意味はありませんでした。



初めて旦那に話した時、実はよく覚えていないんですが、旦那は特に驚く様子もなく、これは前にブログで書いたと思うんですが、そんなことよりも、私が私であるということを見てくれていたと感じます。


旦那はあの時のことを、「ちょっと普通よりも線が細い子、と思った」と言っていました。


自分の中では、摂食障害は生活の大部分を占めていたかもしれないけれど、彼にとっては一緒に過ごす時間の中で、2人で楽しく過ごせることの方が多かったんじゃないかな…


摂食障害の内容までは話しませんでした。(話したら一緒に食事する時、自分が変に意識してしまうから)


私は本当はあの時、「一緒に治そう!」とか言ってほしかったんですよ^^

でも、彼にとって、私が病気だとか治るとか、そういうことは超えて私のことを見てくれました。

結果的にそれこそが、今の私への道だったと思います。あの時に彼も治ることを見ていたら、私は、その時点での自分を受け入れられなくて、結局受け入れられないということは前に進めなかったように思います。



彼には何かと迷惑かけました。。

とことんまで話しても、気持ちを分かってもらえないことも多かったです。

なぜかというと、私自身はどんなに醜い辛い自分や感情だったとしても、それをそのまま受け入れることこそが大切だったのに(当時は自分でもそうは思えなかったけれど、今なら断言できます)、彼は、私を不幸にしないためかな…「そうじゃない!」と否定するようなこともありました。

ちなみに、こういう場合、何が正しいのか事実を追求することには実は何の意味もなく、ただただ本人がどう感じているかの方に意味があります。(私の中では、です。そんなの違う!っていう人もいっぱいいると思います)


私と彼の付き合いは、私が精神的に弱い子で、彼がそれを支えるって形が基本でした。

いっぱい喧嘩もしたし、困らせたし、めちゃくちゃだったけれど、私と彼の間では、今までたどってきた約10年間は完璧だったと思います。

それこそが今の私に導いてくれたし。(私がこの人生、今の自分に満足しているっていう意味です)


私たちの結婚までの4年間は本当に濃い時間でした。そこで、全ての基盤ができたのだと思います。

結婚してからは、本当に想像もつかないような色んな色んなことがあるし、危機を感じるようなこともあります。

でも、あの4年間があったから、乗り越えてこれたってことはいっぱいあります。



だから、色んなこと心配だろうけれど、歩んでいく道は、全て完璧だよ!


私の彼との今までの付き合いは、もう結果論だから、これでよかったと思うのが本心だけど、一つだけ気になることは…


もちろんあの頃の私にはそんなこと分からなかったけれど、もう少し自分の足で立っていられたらもうちょっと楽だったかなって…


他人に対しては、甘えがない分しっかりしていられるし、どことなく付き合いが楽って感じたりすることありませんか?

家族や大切な人との関係は、近すぎて甘えが出て、その結果自分がしんどくなってしまう。。


分からないんですよ、うちの旦那みたいなタイプの人は、もしかしたらとことんまで甘えてきてほしいって思っているかもしれないし、だから変に遠慮するとそこで距離ができてしまうかもしれない。


私は、もちろん今も旦那には色んなこと支えてもらっています。でも、やっぱり今はどんなに辛くても自分の足で立っている。自分の足に代わるものはないって分かっているから。


それは、人に求めないってことだし、すごく楽なことです。


人それぞれ、色んなことで、色んな在り方ってものがあると思います。

だからこうしなきゃいけないってものはなく、その都度その都度自分の心に問いかけていけばいいと思うんだけど、ひとつだけ、どんな時も自暴自棄にならず状況の一つ一つを自分のためだと思って、ていねいに経験していきたいですね^^