ちょっと昔の新幹線 | こぴっとちぴっと

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やってみたいことをやってみた

100系新幹線に初めて乗ったのは中学卒業時の3月でした。

 

その当時の月刊「鉄道ファン」で新しいタイプの新幹線イメージが誌面を飾り、そのカラーリング図案も何種類か掲載されていました。その中にはオレンジ色のラインのTGV風のものもありました。

 

 

 

 

 

 

 

で、登場したのがブルーの帯の下にストライプが入り、鋭角的なフォルムで目のつり上がったニュー新幹線 100系。

おぼこい初代0系新幹線よりも大きく見えましたし、4両もの2階建て車両を組み込んだ16両編成「グランドひかり」は、新幹線史に新たな風を吹き込みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

JR東海のCM 松任谷由実の「シンデレラエクスプレス」に山下達郎の「クリスマスイブ」、フジTVの絶頂期、ホイチョイ映画「私をスキーに連れてって」や「ペンションブーム」…当時はバブル真っ盛りで、平成の世を大人たちが下品に醜くバカ騒ぎしていた時代で、100系新幹線はそれと重なります。

 

 

 

 

 

 

 

 

100系新幹線の運転台はデッキから見えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さい子は運転士のサービスで運転室に招き入れられたりしていました。その当時からでもそれは禁止規定に抵触していたはずですが、国鉄からJRへのサービス向上意識を拡大解釈されていたのかもしれません。

 

その当時は国鉄からの脱却ということで、バブル景気を背景に様々な挑戦がありました。もちろん国鉄解体は累積赤字の清算と国鉄労働組合の分断解体が背景にあったので、新車はチープでシンプルなものが多かったようです。それまで無かったような斬新なスタイル、「タキシードカラー」(?)651系もJR化後初の特急型車両で登場しました。

 

逆に既にあった車両を各JRが競うように改造して豪華なジョイフルトレイン、サロンカー、お座敷列車、スキーリゾート列車…を走らせていました。バブル景気に押されて会社の団体旅行の貸し切り臨時列車も多かったからでした。「雷鳥」のグリーン車をお座敷改造にしたものは、逆にほとんど需要がなく早々と無くなってしまいましたが…

バブリーなイベントとしてフジTVがオリエント急行を欧州から日本まで走らせたという企画もありました。栄華を誇ったそのフジTVも今では地を這うような…

JR移行のお祝いムードで豪華寝台列車「北斗星」「トワイライトエクスプレス」の冒険的挑戦も。これらはヒットして後のクルーズトレインへと結びつきました。

JR移行に合わせるかのように瀬戸大橋開通と青函トンネルの開通がありました。その強い光の陰には宇高連絡船と青函連絡船が静かに消えていました。青函トンネルは洞爺丸台風沈没事故、瀬戸大橋は紫雲丸衝突沈没事故が悲願の開通への遠因となったそうですが…国鉄解体前には愚直な国鉄職員の自殺が相次ぎました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デッキ通路にはこんなスタションポールと500系の先頭車にあったような荷物棚がありましたが、ほとんど記憶に残っていません。後付けなのかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

0系では冷水器があり、乗車記念に…と無意味に消毒薬臭い紙コップを数枚持って帰っていましたが…家に持って帰っても使うことなくいつの間にか消えていきました。

100系には冷水器はありませんでしたか…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新幹線に乗って特別感があったのは、デッキから車内へ入る時の自動式ドアでした。

0系では足元の四角いエリアに体重をかけるとドアが開き、100系ではセンサーでしたか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

100系ではシート背面の引き出し式テーブルが、飛行機のようなアーム式引き出しテーブルが新鮮でした。今では当たり前のスタイルになりましたが…

100系新幹線は後にこだま運用になると横5列シートがグリーン車のものに変えられ幅広4列シートになりました。

 

新幹線の旅は100系時代が楽しかったです。

2階建て食堂車は1度だけ中学卒業時の一人旅で利用しました。何故かウェイトレスのお姉さんから話しかけられ、その人が同じ町内に住んでいたという奇遇も。少年だったので何のロマンス的発展もありませんでしたが…そんなに別嬪さんでもなかったし。

その後の300㎞/h運行と新幹線網の広がりのお蔭で、210㎞/hで走る100系も優雅な食堂車も早々と消え、ブルートレインの旅も消されてしまったから。