このところの自分テーマは、わりあいと明確です。
『言語化する』について。
言語化すること自体は、自己観察をそのまま「どう切り取るか」のワークです。抽象度が高ければ高いほど、多くの人に向けて、さあ、深呼吸しましょう、と呼びかける行為に近づいて行く。素材をそのまま見晴らす。カメラを構えて、どれだけ佳いライティングで「素材感」を魅せるか。
それがもっと、自分のなかの「もやもや」を煮詰めていって、そこから何が出てくるかという作業になると、少し調理人としての「自分」「スタイリング」が前に出てくる。いや、出てくるというより「出していく」という、エゴは見せないけれど、立ち方はホントの自然体ではなくポージングに近くなる。
さらに自分自身の人生とか、心の傷とか、ヴィジョンとか願いとか。
そういう部分をより具体的に言葉にする作業は、けっこう痛みが伴ったりもしますね。
「何かを手に入れるためには、同じくらい大切な何かを手放さないといけない」的な、自分が発明したわけではない何かしらの縛りや焼きを入れたくなる。別にむりに入れなくてもいいけど、承認欲求とか、自分のことばが商品として売り買いできるレベルになっているか、という「覚悟」というものでしょうかね。作品にいれるサイン。それだって、なくても全然かまわないんだけどね。
いろんなギアの入れ方がある。
そして、どのステージにおいても、そのことばが純粋に自分だけのためのものか、それとも「説得力」を求めるのは本当に自分だけではなく、ほかの「見えない多くの不特定多数のひとたち」なのか。そちらに意識が行くこともある。
好きとか嫌い。もしくは共感か拒絶。
誰かに対してのジャッジや思いは、そもそも言葉にしないほうがいいかもしれない。
好きだとか愛していますとか、あるいはあなたのことを思っています、というようなことは、きちんと言葉にして伝えた方がいいとも言います。が、はたして本当にそうかなあ。伝えることは「自分」の押し付けになっていないか。
人間関係と同じように、仕事のスタイルで、おそらくは親に刷り込まれた「シツケ」の延長なのですが、私の場合。「人のしごとを奪ってはいけない」というのが強烈に心のタトゥのように彫り込まれております。残念ながら、あえてそれを声高に言う機会もめったにないので、私がそんなふうに思っているということは、つきあいの浅い相手には(言わない限り)ほぼ伝わりようもない。
刷り込んだ当人(私の親)は、誰がやっても同じしごとで、なおかつ誰もがやりがたる「引く手あまた」なポジションであるなら、まえのめりになって椅子を奪おうとしないことだ、と。参加者が多い椅子取りゲームはよほどの覚悟がないかぎり、参加するなということですな。
そのぶん、自分の能力を磨きなさい。
まあでもそれって、私の母の世代の女性の、それなりに進歩的で上昇志向が強い世代の考え方です。
どんなに頑張ったところで、女が就ける仕事の数はとても少なかった時代。
同時に、有能で才気にあふれた女性が「あのひとが通った後はぺんぺん草も生えない」という生き方をすることに対しての嫌悪感も並大抵じゃなかった。そういう人には近づいても餌にされるだけだよと。
そういう時代から半世紀以上を経て、ずいぶんよい時代になったんだろうとは思います。でも、ちょっとでも「いい思いができそう」なスタイルの仕事を少し先を歩いている先輩たちが確立している。そういう気配を感じるだけで、椅子取りゲームの参加者がいきなり増える状況は、半世紀経とうが百年経とうが、たぶん本質的には変わってない。
腕を磨いて、いい人脈を築いて、虎視眈々と準備していつでも走れるようにしておくしかない。
けど、なぜそんなふうに「必死の人」に席を譲らなければならないのか、とも思います。欲しいものは欲しいと、きちんと手を挙げて言葉にできているかどうか。
隙あらばあなた(=私)を踏みつけにしていく気配まんまんの相手がいて、忖度ばかりしてお先へどうぞという必要もない。つまり、欲しいものを欲しいと言語化することがポジティブであって「自分を大切にする」ことであるなら、私(=あなた)を踏み石とさえも思わない、がっついた飢えた獣のような振舞いをする相手を許せないと思うことはネガティブであって「他者をジャッジする」こと……と断言するのもおかしな話ですけれどね。
少なくとも「ジャッジ」については、自分に向けた言語化にしておいて、そのうえであまり執着はせず、次へ行こう次。批判することと相手に対して被害者意識を募らせて、感情の無駄遣いをするのも、負のループにはまるので、避けたほうがよろしいです。ループ自体は、人生で何度かとか、短期なら「そういうものだ」と理解するために体験してみるのも悪くはない。けどホント不毛だからね。辛いだけだし。
じゃあ、あんな「通ったあとにはぺんぺん草も生えない」ひとを放置していいのか問題はありますよ。あなたがムッとする相手でしたら、まずまちがいなく、あなたの他にも何十人もそんなふうに思っています。だから、本当にパイが充分でないのであればあるほど、いずれその手の「おしごとプレイ」「人生プレイ」はガソリンも肥料もなくなって、どうしようもなくなります。誰かが「しっぺ返し」してくれるかもしれないけれど、それだって、そんな手間は人類の無駄。
■言語化するとき、ポジティブの「欲しいものは欲しいと言う」が大事。いわゆる「くれくれ星人」になったらどうするか、という意見もあるけれど、大丈夫です。きちんと「欲しいもの」を選び取ることができる人は、そんなふうに「くれくれ」と社会に依存することには決してなりません。
■ネガティブな「自分を踏みつけた相手」へのジャッジは、どこか(こういうブログで充分)にメモくらい取って置く程度にして、あとは関わり合いにならぬよう、距離を置くくらいにしておく。私の同世代の友人で、才能に恵まれた人ほど「あの人には気をつけて」と情報を共有して、こちらがどう判断しているかを確認しようとする傾向がありますが、それだって、そばにいて相談に応じるのがしんどいと感じたなら、いまだけでも距離をとる。
さよならだけが人生です。
でも、さよならがあるってことは、必ず同じだけ新しい出会いがあるってこと。
ごきげんよう、じゃあ、またね。