在りよう考

浄化や掃除って、神さま(自分や他者)を気持ち良くさせるおまじないなのです。

そう思うと、そこらへんを歩いているときの服装や身ごなし、佇まいとか風情、リズム感や旋律感、放っているオーラ。それだって、浄化のパワーであったり、逆にカルマの伝搬や増殖の一環だ、という現象に気づくこともできる。

あの人と会うと気分がよくなるとか、その逆も、すでにこのテーマに気づいて講演ネタにしたり、本を書いてベストセラーになる、という事例にも事欠きません。

だがしかし。
マネタイズする人の「意識の状態」が、これまた流転していくわけでして。あんまり当てにしないほうがいいかな、私の場合。

ちょうどいま、大手町の新聞社へ仕事に出かける電車のなかでこれを書いています。

出勤前らしい女性の、気合いの入った服装とつんとした顎。てきぱきとした仕草。

いただけない、と思ったのはあくまで私感。見ている人とじぶんじしん。調和した在りようと、活性化。

そういう路線を生きたいな。
私はね。

自分らしさに特化せよ。
そういうこと。
たぶんね。
ネバーマインド。

佳い一日を。

”自分を知る”

テーマ:

だいじょうぶ、だいじょうぶ。
アロマのことを「勉強」していた時期の私は、目につくすべてがありがたくて、すべてを情報として平等に自分の心と脳の「記憶しなくちゃ」のタスクエリアに放りこんでいた。だから、いまそのころの記事を読み返すと、まじめだね~かたいね~と。でも、それはアロマのことをセラピーやビジネスの教室ビジネスのメソッドとして展開しようとしていた、わたしのまわりの人たちの「欲」や枠までをも吸いこんでしまっていたから、ってことなのだといまは思う。

 

ってか、情報過多で自家中毒……と私が幼児の頃から陥りがちだった症状。自家中毒で「こんな私は生きていてもしょーがない」というのに近いな。お教室メソッドは「成果」をウリモノにするからね。……というあたりは、いま書いても鬱陶しくなるだけだから、またの機会にするとして。

 

この頃にはだいぶスッキリしてきている。

だから大丈夫。私は私のしたいこと&すべきことを淡々とおこなっていく。

 

行動ってそういうことだよ。

知らんけど、たぶんな。

https://hmdksk.com/blogger_no_hito
このひと面白い。
このところ、数年ぶりの停滞感と、矛盾するけど「ブレイクスルーの流れがきている」感覚。ほかにもいろいろ私なりに思うところがありましてな。

私がこのブログ始めたのは、自分がどう変われるか、いままで自分が「学び」と思っていた日々の記録を取りながら実験してみよう、ってことだったんよ。

おもにアロマやセラピーなどね。
どこまで「実世界での専門分野」と絡ませていけるか、それによってどういう反応をおこせるか。それが報酬や実績と結びつくのか。

結論から行くと、ぜんぶ自分次第だってね。わかったことは、アウトプットするには必ずインプットが必要だっていう、言わば「働かざるもの食うべからず」「労働や学びは苦しくストイックであるべき」「勉強しなくちゃ偉く(=稼げるように)なれない」ってのは、嘘っぱちだな、ってこと。嘘というと語弊があるなら、洗脳されてるって。みんながそう思い込むほうが誰かにとって都合がよかった。

ま、いまもおおよその枠組みは変わってないけどね。
そゆこと。

おはようございます。数日まえから都内は曼珠沙華が咲き始めました。

 

今朝のワンコとの散歩道の脇の花壇。花壇というより、生け垣のすきまの地面にいろんな花が植えてある。コーナーの部分にはアイビーや色彩が綺麗な「葉っぱもの」を寄せ植えにしてあって、樹の隙間に葵がのびていたり、平らに均した地面で季節に応じてパンジーやゼラニウムが置いてあったり。

 

さて、夏のあいだは犬の散歩(六時に出られれば気温が低め)で早起きの習慣が身についた。とはいえ、早く起きると早く眠くなる。もしくは、寝過ぎて四時くらいに目が覚めたりする。だいたいは「眠れるときは眠る」ことにしていますが、睡眠が足りている気がすると、ぼんやりと考えごと。もしくは、仕事をしちゃったりもします。

 

フリーランスでなくとも、季節や温度差による体調変化や、ちょっとしたできごとに気分が引きずられて、重苦しい気分にとらわれて、なかなか復活できない時期。あるんじゃないかと思います。

 

気分は「まぎらわす」に限ります。たいてい、鬱鬱とするときに人は(私は)「理由」を探したくなりますが、理由探しは不毛です。ダライ・ラマの名言だったかしら。悩みごとは「解決できないことは悩んでもしかたがない。解決できることも悩んでもしかたがない」というようなアレ。ま、ムリに笑ったりするのも、ソノバシノギなこともあったりするから……ってか、笑えばウツは吹き飛ぶってのも、原因に対しての解決策ってか、理由に応じてのメソッドってことだよね。あんまりつなげすぎないほうがよかったりもする。

 

古来より、神さまに何かを計らう(相談)ときの儀礼とされていること。お浄めとか捧げものとかお経をとなえるとか合掌するとか。基本的に、ああいうことはすべて、自分のムードを浄化するときにも同じ。手段はおよそすべて有効です。

 

お花、植物療法(フィトセラピー)、書物や知識、音楽、学問。癒し。医術。このへんもね。根っこをたどれば、すべて神技に通じている。もちろん諸説ありますがね。

 

ってことで、目が覚めたときに「んっ?」と重苦しいときほど、効きめがあるのがお掃除。禊ぎ(お風呂、水浴び)や類似のことも悪くはない。生活するうえで、お浄めというと塩とお酒。そのへんも使えますが、朝一番の気分にふさわしいものというと、やっぱり玄関を掃除するとか。トイレを磨くとか。そのへんがオススメです。

 

今朝、起きるなり「中途半端」な感じがしたので、トイレ、洗面所、玄関を拭き掃除しました。掃除の仕方とかも、こだわるとろくなことがない。ともかく自分のやりやすい方法でOK。玄関に関しては、気が向くとアロマをドロップ(今日はシダーウッドとペパーミントを1滴ずつ)した雑巾で最後に磨きをかけます。

 

おかげで気分はリセット。

オススメですよ。

 

おっと、そういえば盛り塩を替えるのと忘れました。それだけ、のちほど。

 

 

朝ドラ

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録画して見ております。
なんかね、テレビをつけてドラマを見る。何時からだわ~と思って、その時間にテレビの前に座るという行為が、もうダメなんだな。これ、完全に独り暮らしだったら「気にもしない」感覚なのかもしれない。相手の顔色みちゃってるってことでもあるのかな。

 

ま、いいや。そのへんはどっちでも。

で、半分、青い。

 

よくも悪くも、切れ味は悪くないけどタマシイが入っていないドラマだな。そう思いつつも、毎回なにかしらの刺激をもらえるので、ありがたく継続して毎朝みてます。今朝は、イケメン攻略ゲーム(ソフト)のアプリが冒頭で登場して、出演する俳優さんたち「たぶんどのお一人をとっても今が旬」な人たちばかりなんだろうなあ、と思って。そこから、廃校になった小学校の校舎での起業という、わりといまどきトレンディな設定を軽くおさらい。戻ってきた津曲(この名前がやけに覚えやすいのはなぜだろう、とか)が一室でラーメン屋を始めて、つくりは食券購入&社食なのに、やけにオシャレな。とどめがゲランとの塩とか(笑)。

 

いったいいつの設定だ。

それと、離婚して独り暮らしを始めた律の部屋。これがな。ナチュラル系というか。

私はこのドラマ、何がいちばん凄いといって、この「全力のプロ」たちの関わり具合ね。美術のひとたちのセンスには文句なしで惚れ惚れさせられております。秋風羽織先生のオフィスもそうだったけど。小道具とかも。いちいち惚れ惚れ見入ってしまうよ。

 

今日は律がカンちゃんにつくってあげたカニもね。スズメとの子供時代にこしらえた作品群も、ロボット工学のゼミ室での「ふるさと」とかもな。

 

最後の最後で思ったことは、少しこのドラマをハズレるけど。

カーネーションだった。お母さんが癌……だったと思う。入院して、個室にいれて、花を飾って、毎日お弁当を届けて、面会にきてくれる人たちと楽しそうな笑顔。

 

すっげーファンタジー。

親孝行で、せっせとファッションの業界での仕事にいそしみつつ、腕によりを掛けたお弁当で毎日毎日毎日……。もちろん、実際にこういうふうにやりとげたという女性も、もしかするとこの国にはいっぱいいらっしゃるのかもしれない。

 

リアルの病院でも、優しい看護師さんとか有能で命の看取りにもたけたお医者さんとか。そんなのありえん、って思うほうがただの親不孝もん。

 

だけどなあ。大阪発信のカーネーションで、あのファンタジーのつくりはないだろうよ、って思った。いや、そんなふうに思うほうが「筋違いの視聴者」だってことはわかったうえでね。

 

さて、トレンディの女王はどういうファンタジーを描きだしてくれるんだろう。

演出や美術のプロたちが、どこまで全力でやってくれるだろう。

歪んだ観点であいすみませぬ。

でも、そういうふうに思った上で見ると面白いよ、今期のドラマ。

なぜ日記を書くのかしら、という一石からの波紋につながっているのかもしれない。発信するひと、あるいはテキストや作品に触れて、ただありがたく消費することがほとんどである。が、それ以上に「不要」という判別がね。瞬間的になされてリリースしてしまう情報もしくはコトバが数多く存在する。

 

目に入れなければ存在したことにならない、という考え方もあるけれど。目に触れた→読まないor読みたくないというジャッジがあって、それが特に「まだ無垢であった自分」の時代であるなら、読みたくないことを確認するために読む。そしてそこからナニガシカの印象をつかみとって、ああ時間とエネルギーの無駄であった。もうこれは知っているから要らない、とか、これから自分のなかで学ぶためのまっさらな雪原に無駄な足跡をつけられてしまったことへの怒り、とかね。

 

そういう「私から学びの機会をうばう意図をもったエネルギー」というのも、ここ数年はすぐにわかる。とはいえ、ホントに不要なものであれば、そもそも視界をかすめることもないのかな、という気もする。

 

ああ、ぐちゃぐちゃ書いてしまってごめんなさい。

 

自分で発信してみたい、というステージに立っているとき、表現を創りあげるためのタネとかエネルギーをひとはどこからもらってくるのか、ということです。

 

自給自足だけ、なんてことはありえない。そもそも「ひと」は1人だけでこの世界に生じたわけではないのだしね。同時に、逆説的にきこえるけれども、他者からの刺激がなければエンジンは発動しない。もしくは、自給自足の自己の裡(外?)に、よっぽど扱いにくいいびつなものを孕んでいる。

 

とはいえ孤独はイヤです。ともにいてくれる相棒や仲間の存在がなければ、おそらく私はすぐに「生きるモチベーション」を手放してしまう。

 

とはいえパクったりパクられたりで、いちいち傷ついたり、怒りをくすぶらせるような生き方もイヤ。うーん? この場合の「イヤ」は、あんまりタチの良くないイヤだけどね。こういう「生き方はイヤ」というように、ネガティブを否定すると、次の瞬間に世界は白黒反転しがちだから。ま、それはともかく。

 

表現を創りあげる、という行為にあたって、オリジナリティとか価値ということを考えすぎるからグルグルする。うん、そういうことだと思います。執着しない。それでいて、イマココをきわめる。

 

低波動の用語で言うところの(いや、もともとのコトバは決してそういう波動をまとっていない)解脱とか、瞑想とか。そういう「誰かに教えてもらったこと」の、波動を落として概念化したイメージで凝り固まる。うん、それはすでに「イマココにいない」ってことだものね。

 

さくさくいきます。次のメモ、着火!

 

 

セミナーはファンサービスの一環であって、動いて行動して、より大きなエネルギーを扱いなれていくためのボルテックスの一部なのだ。その時点での集客が赤字覚悟であっても、見据えているのはつねに将来。

同じことを他のセミナー主催者・コーチング・起業コンサルのひとが唱えても、こんなふうに「歯を食いしばってでも笑顔でゆるゆる」とした芸風にはなかなかならない。

いまのタイミング。
さくらももこさんの訃報。ミセス8月号の角田光代コラムで西原理恵子の毎日かあさんの終了について書いていたこと。個人的には、どちらも「自分からは読まない」距離感の作家ですがね。西原理恵子に関しては不思議とよく勧められたり本を贈られることが多かったなあ。

他にもいろいろ。シンクロ。
楽器の貸与で知られる財団の顧問を辞してラトルが「怒っている」という記事が出たこと。体操協会のパワハラ事件。

今期のドラマ。たとえば半分、青い。と高嶺の花。今年みた邦画。孤狼の血と万引き家族。

芸風の確立。
パワー政治。
タイミングと話題性、わかりやすさ。

いろいろ思う。
けど、思う余地もないくらい。
行動。ホントの意味での、行動。