丸二年、食べていくための仕事が次々にキャンセルされていき、スケジュール表が真っ白という状態が続いた。不思議なことに、そうなると、食べていくため、とはいいがたい(情けないけど)本業のほうも、へんなストッパーがかかってしまったようで、山積みになっている長期の〆切りが順繰りに先延ばし・もしくはキャンセルになっていくのを見て、ああ、このまま私は寿命が尽きるのだろうか、という気がしてくる。

 

なさけない。

なさけない。

 

でも、へたに若い頃、がんばっちゃって、エンジンの空吹かしも相当やらかしたってのもあると思う。

できることなら、もっと頑張らなきゃダメ、と負荷をかけるよりは、もう頑張らなくてもいいよ、じゅうぶんやったよ、と自分に言ってあげたい。

 

甘ったれたことを言うなよオラ!という声も耳元でするけどね。同時進行。

どっちも「手を動かしていない」ということでは、じつは同じポンコツを走れ! とまるな! エンジン死ね(=動け)! とバンバン叩いているだけのことであって、車というメカでの比喩だとわかりにくいかもしれないけど、これが馬とか、使役動物とか、人間だったらどうよ。

 

気張ろうが脱力しようが、なるようにしかならん。

 

 

力加減がわからない

それが、日本社会……それもあくまで、私が生きている世界ということだけど、この社会もどうやら、ウィズコロナでやっていくしかないとマジョリティ的な諦念に達したようで、ぼちぼちと、二年半の空白がまるでなかったように、というと言い過ぎだけど、通常のリズムでのバイト仕事がポツポツと舞い込んでくるようになった。

 

コロナ禍での和風なロックダウンを経て、力加減がわかりにくい。

へたに引き受けまくるとダブルブッキングの嵐になる。それがわかっていても「予定をいくらがんばって入れたとしても、感染症の拡大状況によっては、順繰りに何もかもがなかったことになる」という無風状態を二年も背負い続けるとね。しかも、コロナではないかもしれぬが、この二年で、大切な人が亡くなった。友人が死んだ。芸能人の自殺連鎖、といわれても、ああ、そういうことも胸が潰れる心地になるけど、驚かないよ、と口からこぼれる。

 

いやいや、これは本心というより、「本心」というものが実は実体のない妄想であった、と判明したかのような。そのうえで、さらに人の都合にあわせようとしているから、むりやり「いまの私は悲しいのです」みたいに、実感よりはナレーションをいれて、自分の人生を「ドキュメンタリ作品」に仕立てようとしている。

 

そういうのも、もういらんのよ。

なくていいの。

 

ということで、まずは順番に予定をいれる。

下準備が必要な、そういうめんどくさい(誰かの責任逃れとかヒトゴトの)仕事は、とっくに私の中で調整済みの案件となっているから、気に病むことはない。とりつくろうことのない、へんに気合いの入ってない、そういう「素」の自分でできることだけ、きちんと丁寧にこなしていけばいい・だけ。

 

そんなこんな。

 

「しんどい」と言っているその瞬間は、筋肉の反射のような、エネルギー的な「閃く力」がジャンプしようとしている。つまり、一発逆転に通じるもっとも効率的なヴィジョンが見えそうなときほど、口からは「しんどい」と出てきがちである。

 

あくまで私の場合、なんだけどね。

 

ただ、だからといって「しんどい」を自分から求めて励みすぎると、どこかで限界を超えてしまう危険もある。自分のなかにできてしまった「捻れ」を、うまく活かして余生を送る。そんなふうに持っていくしかない。

 

そうできればいいなあ、というヒトリゴト。

 

仕事仲間

仕事ができる人には二種類いて、と、あくまで仮定の話ですよ。

刷込からくる捻れが業界だけではなく、自分のなかにもあることを認識したうえで「三方よし」的なヴィジョンをきちんと見晴らせる人と、そんなことをする余裕があるのは単なる「甘え」であり、甘えたことを言っている相手とともにいることは苦しいと思っている人。

 

はっきりした線を引くことは不可能だけどね。

だから「相性」ということばで説明するのが手っ取り早い。けど、自分を犠牲にすることなく、それでいて、きちんとすべてを分け合う覚悟がある人と一緒に走っていきたいな。ひとを「紹介する」ことができるかどうか、でもあるけど。それもまたケースバイケースだし。

 

私はいまは、この「紹介」をしたくないファーズにいるけど。したくないは、本当はしたいことでもある。

ああ、執着か……。むずかしいねえ。

 

日記を書くときに、自分で自分にハードルを課していることに気づいた。

 

たいていは「どういう切り口」で作文すればいいか、最初のきっかけがつかめなくて逡巡する、というハードル。小学生だったころ、国語の時間で作文を書けといわれて、なかなか書けずにいるうちに与えられた時間が終わってしまう、というあの現象だ。

 

次に、なんでもいいから手を動かせば、とりあえずマス目を埋めることはできるという発見。ただ、これだと「マス目を埋める」ことでの達成感は得られるが、自分で自分を褒めたくなるような、新しいエネルギーの回路を見つけた的な「努力」の部分が塗りつぶされて、さらに次の段階では「結局、何を書きたかったのかわからない」というモヤモヤに溺れそうになる。つまり、中途半端な自己嫌悪。

 

なので、論文の書き方とかのノウハウ的な「メソッド」に頼ってみる。人によると思うけど、私はこれでいっときは「原稿を書いてお金をもらう」というバイト感覚が腑に落ちて、わりと気持ちよく、文章を書けるようになった。

 

が。当然のことだけど、次があるんだよね。

もっと「いい文章を書きたい」の欲がわいてくる。ここで、ノウハウに頼ってそこそこ「発注元が満足してくれるもの」を納品までもっていく自分、ライターとしての一人の人間が、その感覚を「いい感じでキープ」しながら仕事をつづけることができれば、そのいっぽうで「もっといいものができるはず」と摸索してみればいいだけのこと。でも、人間って、そうそう上手くはいきまへんのや。特に、職業売文の才能をきっちりと花開かせた、それだけの才能と力とセルフプロデュース力がある大家であればまだしも(ここで具体的な名前をいくつか思い浮かべていますが、そういう「名前を思い浮かべる」というのも、ある種のセンスだと思うので、いまこのブログには書かないよん)、文章指南の師匠がいるわけでもなく、わたわた独学であっちにふらふら、こっちにふらふら……と今までどうにか生きてきた程度の人間にはね。

 

いろいろ悩みながらも、さらに次の段階。

それは、同業者の作品をエネルギー的に判断するようになる、という領域です。

たいていのものは、薬というより毒のように思えて、食えなくなります。

 

で、いまはそのへんを、ボチボチと抜けていこうか、というあたり。

「日記」でさえも、書くのがしんどい。手帳と同じ感覚で、ともかく「誰と会った」「何をした」という、事実だけを記載する、というやりかたを編みだした学者や物書きの人たちは、おそらく私が上にうだうだと書いてきたあれこれを、下手すると十代の年齢のころには食いまくって、昇華して、そして「そこから始める」ということなのかとも感じています。

 

はああああ。

溜め息の数だけ幸せが逃げるというけどさ。逃げたらそのぶん、欲(力)が抜けるということでもあるのよね。たぶん。だから、どんどん脱力して、そこから始める。そんな感じ。

 

読みやすい文章を書く

 

ブログから遠ざかっていたのは、ブログも含めての「SNSをどう使いこなすか」の概念に振りまわされていたから、という感じがする。この「SNS」という括りも、私の中では「日記という蟻の目」「ヴィジョンにフォーカスする」「日々の学び(インプット)」「ノートを使いこなす(必ずしもアウトプットではない。インとアウトの俯瞰チャレンジ)」といったような、未整理の概念をどう乗りこなすか、みたいな。

 

  1. 日記を書く目的
  2. 時間とエネルギーをどう管理するか
  3. 毎日をケチケチと学びやら体験やら教訓でちりばめてみたら何がどう変わるか
  4. 文房具やPC(記録ツール)を使いこなすと何がどう効率化するか

自分へのコーチング……と、ついついメソッドとか概念に嵌めてしまいたくなるのが、ここ十年くらいでの私の「時間とどうつきあうか」の迷いの森における地図作りの、現時点での成果なんだよね。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 

貪欲であること

自分が前のめりであることについては、ホントにどんくさいというか。なりたい自分はどんな自分かと聞かれて、身構えずに、そのときの貴重な「イマココ」の充実をすなおにそのまま味わって生きていく私、と。何年もかけて、うっすらとことばで言えるようになってみると、すでにその「失われた何年間か」で、本当の私とは時差がついてしまっているような気がする。どんくさいにもほどがある。

 

けど、それくらい「どんくさい」自分に憧れてるんだから、しょーがない。

つか、諦めて受け入れようよ。

 

自分では「あの人が通った後にはペンペン草も生えない」と、ある種の後ろ指ですな。そういう人にはなりたくない。子どもの頃から、いろんな刷込をされてきたけど、自分以外の人間の支配を受け入れるような環境で生きたくない。ヴィジョンとしては、これもまた「他者との相互依存」の変形なんだけどさ。

 

そういう相手を見かけると、挨拶しながら、心の中では全力で逃げる。

でも、逃げながら、心のどこかで「それでいいのか、ホントに」と指摘をいれる。アンビバレンツ。

 

それでも、たとえばウチノシャチョー(笑)が、三年くらいまえ、いっしょに香港にいったときに見さだめた同業関係の相手と、そのビジネスを紹介→というより、結局は自分の売り込みだったわけだけど。あまりにちゃっかりした、しかも関係者が誰も得をしない自己チューな仕事をねじこむやり口で、めったに愚痴をこぼさない友人が、さすがに「自分、もうすこし人を見る目があると思ってたんですけど」とぼやいていたという。

 

その問題児が、どうやらよそでもいろいろやりすぎたらしく、ドクターストップがかかって活動をいちじ休止するとのこと。

因果応報。ってことだよね。

 

と、ここまで書くのも私はけっこうしんどい。

俯瞰して言語化する能力が、めっきり錆びております。

 

主語がはっきりしてない。

もしくは、ものごとの客観視が言語化と結びついていない。

 

もどかしいから、またしばらくアメブロで日記をつけてみよう、と思います。

 

 

日々のこと

 

日々のことを書くのは意外と苦手だったりします。

たまに原稿依頼を受けて、どういう場で読まれる文章なのかを考えながら、ものすごい勢いで集中して書くことはあります。が、ここでの「努力」や「集中」が、ご依頼主さんの期待の斜めをいってしまい、やけに空回りする文章を書いてしまうことも多いです。

 

読んでもらう、という行為は、かくも難しいことなのか。

どちらかというと、子どもが無心に、あるいはオトナでも作為がなく出てきた言葉を連ねただけ、みたいな文章に魅入られたりすることもあるので、何か専門性の高い情報を、読みやすく、心惹かれる語り口で言語化することは、つまり、コミュニケーションの神髄というか、人が人であって、たまたますぐ隣に居合わせた相手に向かって、ほっとするような空気を共有するのと同じくらい、本能的なことだ、という。ただそれだけのことかもしれません。

 

が。

自分の機嫌くらい自分でとれよ、とバッサリと詩人が呟くのと同じくらい、想像のなかの相手に向かって放ったことばが、リアルの誰かのどういう反応を招くのかなんて、予想するほうが大変ですよ。

 

とりあえず今日は、肉体は神様からの借り物であって、魂をいれて運んでいく器でしかない、という大好きな作家の言葉を引用しておきます。昨日の私を今日の私に引き継ぐ。今日の私を明日の私に引き継ぐ。

 

それだけのこと。

 

 

ちむどんどん

朝ドラはここ数年、わりと機械的に見ています。

沖縄の山原(やんばる)村での主人公たちの暮らしが、とても清々しく、画面に沖縄の風景が広がるだけで見惚れる。

 

それでも、そろそろ見るのやめようかな、と離脱を迷うのは毎回のことではあるけど、日常生活のなかでの好きなドラマや新聞購読や、こうしてメモをとることも含めての「定点観測」が、たまにめんどくさくなることがあるんですよね。めんどくさいというか、いちおうは丁寧に、毎日15分のドラマをみて、自分の中で気になったことや感想のようなことをひねり出し、チェックしては「朝の恒例行事」として向きあう。それほど価値のあることなのかな、と。同じ15分なら、他にもいくらでもやりたいことはありますから。……とぼやきつつ、意外とダラダラするうちに時間がどんどん過ぎてしまう。そのことで自分をいじめてみたくなってしまう、というのも、ドラマやフィクションを鑑賞する落とし穴みたいなものでもある。娯楽なんて、みたいな。学校教育の弊害とか、好きなことで時間をつぶすくらいなら勉強しなさい、という「目的が見えない」ものであっても、勉強や学校の成績は尊い、という刷込。

 

おっと、話がずれました。

ちむどんどん、金持ちや借金保証人とか、学校のいじめっこや、社会人になってからも「地元の会社社長のバカ息子」のアホな言動やボロい服をあげつらう価値観が、あまりに昔からの「ドラマ世界」のスタンダードで……スタンダードというより、紙芝居でもみせられているみたいで、チクチクと不愉快。けんかっ早くて、どちらかというと怠け者として描かれている主人公一家の長男くんが、最初はただの「ダメにい」にしか見えなかったのが、おそらくは脚本の当初の意図から少しハズレたところで、反骨のピュアな魂をみせてくる不思議。

 

 

 音楽室にグランドピアノがある

こんなふうに、ドラマでピアノが登場して、しかも調律がきちんとされているのって、現実とどこまで剥離しているのかとふと思う、けど、最初にこのピアノを「練習させて」と弾いた女子の、モーツァルトのハ長調の小ソナタ。K595でしたっけ。上手い下手というのではなく、いい指導者がついているな、と感心しました。ただかっちりと弾くのではなく、そしてよくあるような「音をイッコずつちゃんと弾く」の罠にもはまらず、拍子ごとに刻む悪趣味はかけらもなく、それどころ、小節ごとでもなく、二小節ごとでもなく、四小節あるいはそれ以上と、全体をひと息で歌う、大きなフレージングで曲を捉えて弾いていた。

 

しかも。最初の一節での全体の(長三和音の)響きがとてもきれい。

そしてその日の効果音楽は、筋運びでの深みを帯びたところで、モーツァルトのレクイエムふうの弦楽の響きをきかせていた。

さらに、今日(14話)の、縁側から吹き抜けっぽく見晴らせる部屋で、内職をしながら長女と話すお母さんの場面で流れるピアノが、すごくしっくりと情景と融け合っていた。

 

※けなすほどのつもりもないけど、前作のカムカムで、チャップリンへのオマージュっぽく出てくるピアノが、少しばかり「とってつけた」みたいで違和感があったので、なおさら、今期のちむどんどんは、音楽のよさが引き立つなあ、と。オープニングの歌とアニメも、一発で掴んでくるような強さや分かり易さではなく、何回きいても新しい気持ちでみられる薄味の透明感でつくられているのも、巧妙なたくらみ。けっこう好きです。

 

ということで、こんなふうに毎日、さすがに今期はリタイアして、朝の15分を別のことに使おうかと迷っていますが、たぶんもうしばらくは見続けるんだろうか。まあ、明日のことは明日考えればよいかね。