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Success Fortune 筆頭占術士
フォーチュンアカデミー 専任講師

 ミカンは冬の果物である。ミカンから想起されるイメージには、「お正月」とか「こたつ」があるだろう。子供の頃、ミカンの汁で紙に透明の文字や絵を書き、乾いてから火鉢の熱にかざして発色させる<あぶり出し>で遊んだ覚えがある。火鉢が居間に出ているのだから、それは間違いなく冬である。夏場に果物屋の店先に並んでいる大柄で色の薄い奴は夏みかんと呼ばれた別品種。これは、すっぱくて好きじゃ無かった。駅の売店で売っていた普通のミカンを凍らせ赤いネットに入って居たミカンの方が甘くて美味かった。しかし、あれは冬場に収穫した物を冷凍保存していたのだろうか。それとも輸入していた物か。栽培技術や物流の進化から、食品から感じる季節感が乏しくなっていると嘆かれて久しいが近年は冷凍技術も飛躍的に進歩している様だ。いずれ、様々な食材が年間を通じて安定供給されるのだろう。ありがたいのやら寂しいのやら。

 ミカンが冬の物であるようにトマトは本来夏の物である。そのはずである。だがしかし、スーパーの売り場からトマトが消える時期は無い。トマトは、高山が原産地だけに気候変化に強く収穫時期は長いのであるが流石に冬場に実を付ける事は無い。でも売っている。いつでも普通に手に入る。国内の作付け面積は80年代の半ばごろをピークに減少傾向にあるそうだ。況や輸入量が増えているという事なのだろう。子供の頃は夏みかん同様にトマトも苦手とまでは言わないが好物でも無かった。大人達から「トマトは果物なんだよ」と言われても、それで味が変わるはずもなく野菜にしか思えない。果物だとは信じなかった。トマトは野菜か果物か?この論争は、過去に米国で裁判にさえなっていて高裁の出した判決を不服とし最高裁にまで持ち込まれたのである。そこまで拘ったのには理由があり、野菜と果物では関税が違い生産者や輸入業者にとっては大問題だったのだ。最高裁の下した判断は「野菜」。その理由は「トマトは食事中に食べ、デザートとして食後には食べない」だからだそうである。裁判官たちの本気度は知る由もないが決着はついた。これまた、「そのはずである」。今日、フルーツトマトなる糖度の高い品種が生まれて来ることなど当時は予想もしていないのだから致し方あるまい。更に甘いトマトが食後の食卓に提供されるようになる日も遠くないのだろうか。

 今はトマト大好きですよ。思春期頃に観た、とあるTVドラマのオープニングの影響で大玉のトマトを丸かじりするショーケンこと萩原健一演じる主人公の姿に憧れて真似しました。同様の経験を持つ同世代の男性は多く居るのではないだろうか。そうだ、ミニトマトやフルーツトマトじゃなくて、あの赤々とした大きなトマトが食べたい。早速、買いに行こう。そして、お行儀悪く果汁を辺りに飛ばしながら口いっぱいに頬張る事にしよう。トマトの美味さに初めて目覚めた、あの頃を思い出しながら。


 キアゲハ君の三回目にして最後の報告である。我が家のベランダで無農薬パセリを悪びれもせずにむしゃむしゃと食べていた幼虫は、リビングのカーテンレールにサナギを作り、無事に羽化する事が出来た。かなり気にしていたのだが残念ながら羽化の瞬間は見逃してしまった。

 いつものようにベランダ菜園に水を撒こうとサッシに手を伸ばした時に、サナギの異変に気がついた。割れている。中は、すっかり留守宅になっている。ということは、またしても部屋の何処かに居るに違いない。天井や壁を見渡すがその姿はない。ひょいと覗いたカーテンの後ろでジッとしていた。見つけたとたんに暫し固まる。一瞬どうして良いのか分からない。いきなりバタバタと暴れ出したらどうしよう。少し気を取り直し、息を潜めて観察してみる。まだ、羽が乾ききってはいないのだろうか。明るいガラス戸の外へ向けて羽を広げている。想像通りの大きさと美しさではあるが間近でみる大型昆虫のフォルムには、異世界的な存在感と威圧感を覚える。

 TVでは大型の台風が近づいて来ている事を知らせている。改めて、どうするべきなのか悩んだ末に、室内と外界を隔てるガラス戸を大きく開けた。1分ほど経ってキアゲハは空に飛んだ。別れを惜しんでくれているかのようにベランダの前を何度か旋回し、やがて遠ざかって行く。思えば僅か半月ほどの同居であった。

 スペースに限りのあるベランダ菜園で連作障害を避ける為に育てる品種は毎年変えている。最近は、面白がってスーパーであまりお目にかからない物を好んで選んでいるのだがパセリだけは来年も作ろうと思う。もしかすると今年のキアゲハの子孫がまた我が家のパセリを食べに来るかも知れない。その時は、腹いっぱい御馳走してやろう。


前回の小欄で登場したキアゲハの幼虫君は、サナギになった。しかし、これが一騒動を巻き起こしたのである。
 日々モリモリと元気に餌のパセリを食べていた幼虫君が、ある日割り箸で作った羽化用の柱の上でピタッと止まったまま動かなくなった。サナギの状態になる前の休眠に入ったのだと確信し、食べ残した餌などを巣箱から取り除いたり、敷いた土にスプレーで湿気を与える等々の世話をしていた。作業の途中で宅配便が届いたり、急な仕事の電話でその場を一時的に離れるも彼はジッとしたままピクリともしていない。不覚にも、すっかり油断した。巣箱の蓋を閉めずに寝てしまったのだ。翌日か翌々日には、その場でサナギになっているものと疑わなかった。だが、翌朝は巣箱の中に彼の姿はない。小指大の芋虫がリビングの何処かに潜んでいるのだ。心の中で嫌な汗をかく。頼むからソファーの上には居ないでくれよと願いながら、気が気じゃない。イスやテーブルの脚はもとより壁から天井から、しらみつぶしに大走査を敢行する。暖かい所を好むのではと当たりを付けてTVの裏を探そうとするがTV台を動かすにも神経を使う。キャスターの下敷きにしてはならぬ。ライトの光で隙間を念入りに確認し、溜まったホコリは見ない事にしつつ、力を入れてソロリと前に出す。居ない。影も形も無い。折角だから、そこだけ掃除する。重いTV台を元の位置に戻したところで力尽き、第一日目の捜査は終了する。

 翌日も恐る恐るリビングに入って行き、捜査を続ける。前日に探した所も改めて確認する。相手はジッとしているとは限らないのだ。カーテンの裏表を探すが発見には至らない。カーテンの緑色の草木柄が捜査の難易度を一層高めている。成長の度合いを考えても、サナギになろうとしている事に間違いはないはずである。餌を探しに遠出した訳では無いだろう。あ。巣箱の中の餌を片付けてしまった。それが原因かもしれない。いやいや、ここで後悔に暮れていて何になる。迷子の捜査は二日目も手掛かりも無いまま終わった。

 半ば諦めの気持ちを抱きつつ捜査三日目を迎える。きっと、部屋の何処かに居てサナギになっているはず。一週間もすれば、見事な羽を広げて美しいキアゲハがリビングの中を飛んでいるだろうと極めて楽観的な想像に逃避して行く。とは言え、足元を見ずに進む事もソファーに倒れ込む事も出来ない。

 4日目の朝、ベランダの菜園の水やりに出ようとした時に彼は居た。唄の歌詞じゃないが、探すのを止めた時に見つかる事もあるのである。カーテンレールの端が気に入ったようだ。その日から一週間は、カーテンの開け閉めは禁止である。

 ネガティブな印象で捉えられがちなワンドの9だが蝶になる前のサナギに見えないだろうか。良く知られている解釈は「手負いの兵士が残った陣地の守りを固め、次の戦いに備えている」あるいは「大きな変化の為の準備」などである。子孫を残す為の相手から視認性が高い、大きく美しい体の蝶になるべく、幼虫の時には栄養価の高い葉を大量に食べるのだろう。そして、敵に狙われても逃げる事さえ出来ないサナギの時代を経て蝶になろうとしている。