北村諒×西田大輔『ひとりしばい』Vol.3
「ひとりシャドウストライカー、またはセカンドトップ、または、ラインブレイカー」
ずっと感想書こうと思っていたんですけどPCの調子が悪かったの先延ばし先延ばしになりました。
(パソコンじゃないと長文書けません)
そしてタイトル文字数制限を余裕でぶっちぎっていた。
さすが西田大輔。尺という尺を余裕でオーバーする脚本・演出家。
(それはちょっと関係ない)
配信日からだいぶ経ってしまったので物語の感想を語るという中身ではないと思いますが、当時のツイッター遡りつつ思ったことをつらつらと。
あらすじ…ということを語るのもなんだか無粋な気もしてしまうこの作品。
と思えるほどには美しく強い物語です。
ひとことで言うなら「壁を壊す話」です。
観終わった後、物語を見て声を上げて泣く、ということを久し振りにしました。
その涙は歓喜か、悲嘆か、既存の単語では言えないほどの感情が溢れて来ました。
西田さんは「敢えてはっきり描かない。観た人間に解釈を委ねる」という創り方をする方なので、これは私が勝手な解釈で勝手に感じたことです。
役者が板の上を恋しいと思うように、客も座席から見る唯一無二の景色がある。
脚本・演出家が物語を創り、役者が演じ、それを席に座った客が観る。
役者には役者にだけ見える景色があり、客には客だけの景色がある。
舞台作品というものは生ものです。同じ話を繰り返ししても同じ公演というものはない。
その日、その時間、その公演、その席に座るのは自分だけ。
そこから見える景色は私だけのもの。
例えそれが決して見晴らしが良いと思えるものではなくても。
私が舞台が好きな理由のひとつです。
私だけの景色がそこにあるんです。
そういうものを愛しいと思うこと、宝物のように抱える気持ちがあること、そしてそこで見た景色を自分の中でどんどん育てて行くこと。
西田さんが描いて北村さんが言ったあの台詞で、それを認めてくれたような気がしたんですよね。
気がしただけで十分です。
推し演出家にそんなこと言われて泣かないわけないじゃないですか。ほんとずるいんですけど西田大輔って人は。
コロナ禍になる前に私が観た最後の舞台は西田さんの作品でした。
いずれ以前のように自由に何処へでも舞台を観に行ける時代が再びやって来る、絶対に観に行きたい舞台がある、そう強く一方で「あれが人生最後の観劇なのでは」と思う事があります。
舞台やライブが行われてはいるけれど、自分が自由に動けるわけではない。
時代は確かに少しずつ動き始めていて、各地で舞台やライブも行われているけど。
でも自分自身はとは言えば何も動けていないという現状です。
世間は動いていても私はそうではない。
私の時間は2月くらいからずっと止まったままです。
この時間は動く日は来るのか。この壁が壊れる日は来るのか。
考えても仕方ないと思いつつもついつい考えてしまい、そして、そして病む!(血涙)
「演劇の死」なんて言葉が少し前は飛び交いましたけど、世間はさておき私にとっての演劇の死とは何か?と考えます。
公演があっても劇場に行けないのであれば演劇ファンの私は生きているのか。
なんて自問自答を繰り返します。
演劇の死が何かは分かりません。
ただそれで滅びるならいっそ滅びてしまえば良いとさえ思います。
それはきっと演劇ファンとしての自分も同じ。
あの青いお月様の言葉を思い出します。
「野垂れ死ぬならそれまでだ」と。
演劇に限らず全ての物事において、強くて正しいものが生き残るのか、それとも生き残ったものが強くて正しいのか。
「きっといつか」と「もうだめかもしれない」が交互にやって来ます。
諦めなくてならないのか。捨てなくてはならないのか。
けれどやっぱり私は縋ってしまうんですよね。だって演劇が好きだから。
這ってでも辿り着きたい場所があるから。
理想も希望もあります。けれど現実は分からない。
だからこそ、選び取れる道は自分で作っておこうと思います。
ひとつではなくて、いくつか。この壁を見つめながら。今はまだ。
願わくば、壁が破壊され、何を遮ることなく、私だけの最高の景色が見られる日が一日でも早く訪れますように。