オイラは技術屋である。
工業製品を作り出す過程のごく一部にかかわっている。
しかし、最近つくづく思うことがある。
コンピュータの発達によりさまざまなツールが生まれ、その精度も年を追うごとに上がっている。実にすばらしい限りなのだが、自分でものを生み出している喜びが薄れているように感じるのも事実だ。
かつてはKKDと言っていた。
K(経験)
K(勘)
D(度胸)
の頭文字である。
昭和の高度成長時代を象徴する言葉といえるだろう。過去の遺物とも言えるかもしれない。
しかし、何でもかんでもコンピュータ任せで、「計算結果がこうだからこれはOKであれはNG」となるのは効率的な反面、技術屋としては寂しい限りだ。
そこには技術屋の思い入れや情熱が入る余地がない。いや、無いわけではないが結果的に見える形として反映されないのが、つまらないのだ。
生み出されるものが、高性能だったり、高機能なのはいいのだが、ちっとも官能的でないのだ。
官能領域というのは数値化して評価するのがもっともむずかしい領域だけにどうしても後回しとなるのかもしれない。
でも、先日この与太話で書いた「ドカティ・パニガーレ」もそうだが、オイラ的にはちっとも官能的には見えないのだ。
http://ameblo.jp/mokuba-red/entry-11262089472.html
感性に訴えかけてくるものがない。乗れば楽しいのはわかっているが、少なくとも見ていて美しいとは思えない。特に墓石みたいなエンジンがそう思える。
最近のバイクのエンジンってどれもこれも同じような感じで、見て美しく、欲しいと思わせるものはほとんど無い。
エンジンおたくとしては寂しい限りなのだ。
別に昔のものが美しかったなんて言う懐古主義に走る気はさらさら無いのだが、コンピュータがこういう結果を出したから、計算結果がこうだから・・・・・という過程が透けて見えてしまい、興ざめなのだ。
遊び心というか、ある意味無駄を承知で追求する美学があってもいいと思うのだ。
むむー。
こんな事を書く時点で、おやじと呼ばれてしまうのだろうなぁ。ヽ(´ー`)ノ ハア
カメラだってそうだ。
Pentax LX は今見ても機械としての美しさを持っていると思う。
実際に触っても各部にこだわりが感じられて持つ喜び、使う喜びを感じる。
しかしそれを機能美と呼ぶと今どきのコンピュータ世代には鼻で笑われてしまうのかもしれないが。
だが、やはりこう思うのだ。
何でも無機的に計算結果だけでは駄目なのである。
そのLXだが残念ながら手放すことにした。
ツァイスレンズを使ったマニュアルフォーカスレンズもいくつか持っているのだが、すべて処分する。
思い入れや愛着はあるが、いかんせんフィルムカメラで撮影することはもう無いと思う。
だから、断腸の思い出はあるがばっさりと切り捨てる。
コンピューターにというわけではないかもしれないが、それを象徴するデジタル一眼レフに一本化するという意味では、デジタルの波にオイラ自身も飲み込まれていると言うことか・・・・
うー。。。。
何でも最新のモノが良いわけでは無いのは理解してるんだけどねぇ。
ま、早々に刀を捨ててピストルを持ち歩いたという龍馬のような人だって居るのだ。
(´ー`)┌フッ