【私の2011年3月】
頻繁する予震に怯えながら、何とか逃げ切った高台に車を止めて、流れ行く多くの車に人の有無を確認する。
すると、一台の車から人の手が・・・、無我夢中でその手をつかみ、力一杯に引っ張り込む。
...
すると続けざまにもう一台、危うく手をつかみ損ねてしまったが、服を無理矢理引っ張って、何とか外に出した。
奥の方にもう一台が・・・(-_-;)!! だが到底手の届く距離ではなかったので、悲痛な思いで見送ると、遠くの方で誰かの手が伸びていたので、確認はしていないが、きっと助かったに違いない!
次から次へと流れ行く車は、いつしか一斉に悲鳴をあげるように、クラクションが鳴り始めました。
その音は、車に閉じ込められて、もがき苦しんでいる人々の「助けてぇ」の声に聞こえて、今でも耳から離れません。
長めのクラクションを聞くと、身体が無意識に反応する位にトラウマになっています。
そんな光景に、急に両親の事が心配になり、一目散に日和山に登って実家の方を見てみた。
「何だこれは!」 日和山から見たのは・・・(-_-;)!!
日和山から見た故郷は・・・(-_-;)!!
言葉もなく只呆然と、その場に座り込むしかありませんでした・・・(-_-;)!!
我が町湊地区は、造船所から流出した船が、右往左往と大暴れしていて、見る影もなく、破壊されていました。
その光景に・・・(-_-;)両親の生存を諦めました・・・(-_-;)!!
こんな状況下で、いくらオヤジでも、生きられない・・・、そう思いざろう得ませんでした。
そんな折に、日本製紙方面から爆発音が・・・!!
荒れ狂う津波の黒さにあちらこちらから上がる火の手の赤、灰色の煙り溶け込むのは、無情にも降りしきる雪の白さ・・・(-_-;)!!
これがこの世の事か? 本当にこの世なのか?
嘘に決まっているだろう・・・!!
夢に決まっているだろう・・・!!
何度そう思った事か・・・!!
ご免なさい、少し泣きます。
【私の2011年3月】
昨日はすみません! どうにも涙が出てしまい、スマホのタッチパネルが見えなくなってしまいました。中途半端な投稿を深くお詫び致します。
当日に日和山から見た光景は、正に凄まじい地獄絵図のようでした。
...
太平洋の海底から押し寄せた津波は、南浜町地区を、なんなく飲み込み、古い木造家屋など一気に日和山のふもとまで蹴散らし、流れ込む所は旧北上川。
その旧北上川おも逆登り、漫画館を有する中瀬地域を容赦なく破壊しつくした。跡形もなく木っ端微塵に!!
その惨劇の最中、梁や柱に懸命にしがみつき、助けを乞う人々が居りました。破壊された家屋の屋根に立ち、両手を大きく振って、喉がつぶれる位に大声で助けを乞う人々が居りました。
慌てて何とかせねばと駆け寄るも、とても手の届く所ではないと知る・・・(-_-;)!!
旦那さんだったのでしょうか、1人の女性が「お父さん!!!お父さん!!!」と、腹の底から絞り出すような声で叫んでいました。
自分が飛び込んで助けに行こうとする所を、周りの人々に制止されて、その場に崩れ落ちる姿を見ました。
その険しさと、悔しさを滲ませた顔をして見る目線には、必死に生きようとして、柱に掴まる旦那さんの姿が、その後ろには黒い津波が・・・(-_-;)!!
その日は多くの尊い命が、波の狭間に消えて行きました・・・(-_-;)!! 二度と戻らぬ旅立ちをして行きました・・・(-_-;)!!
せっかく助かった命、やっとの思いで助かった命も、「凍死してしまえ!!!」と言わんばかりに降りしきる雪に、耐えきれぬままに消えて行ったところもあります。
この無慈悲とも言える惨劇模様に、私は思わず天を仰ぎ、「何だよ神様!何もここまでする事ないじゃないか!!」そう叫んでいました。
何もここまで・・・(-_-;)!!
何もそこまで・・・(-_-;)!!
【私の2011年3月】
私が避難した日和山から見た光景は、壮絶なものでした。
そんな日和山に、市内の至るところから避難する人々と車の数々で、大混乱になっていました。
...
人々はみな悲痛な赴きで、お年寄りや子供たちは小刻みに震え、歩く事すらもままならない状況でした。
1人の男性は「もうこの世の終りだ!」「生きていても仕方ない!」「俺も津波に飲まれればよかった!」そう叫んでいました(-_-;)!!
携帯のメールで、何とか家族の無事を確認するも、20時以降は通信手段をすべて失いました。
私がその後避難したところは、日和山の一番上にある法務局でした。妻がパートとして勤めていた事もあり、一緒に避難させて頂きました。
公共施設と言う事もあり、多くの人々が避難して来ました。先ずはラジオでの情報収集に必死でした。
何がどうなっているのか、全くわからぬままに、辺りは暗くなり、門脇地区から上がった火の手が赤々と、不気味な色をして、人々の不安を煽っていました。
そんな避難場所となった法務局で、取りあえず食べる事をみんなで考えていましたが、やはり一番はお年寄りと子供たち。
我々は、いつか来るであろう支援物資を待つ事にしました。
頻発する予震に怯えながら、暗闇の中に響くのは、ラジオの被害を伝える放送。
「仙台の荒浜地区で、波打ち際に数百の遺体とみられるものが打ち上げられています」
何てこったい!!!地元のラジオ局は、停電の為、ガソリンで動く発電機で放送しておりました。
そのガソリンも、もう無いとの事・・・(-_-;)!!
そのラジオ局に、津波で家ともども流された人が、携帯で助けて下さいと、連絡しているみたいでした。
ラジオ局のアナウンサーも、遣りきれない様子の声が、避難所に響き渡っておりました。
つづく