
宮城県石巻市に住む 萬代好伸さんの日記を転載します。
萬代さんはブログをお持ちになっていません。
FACEBOOKからの転載なります。
「多くの人々に、自然の猛威の怖さ、恐ろしさ!そしていかに命が大切か、尊いかを、是非にも知って欲しいところでございます」
というメッセージを頂き、掲載しております。
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平成23年3月11日、この日を境に私の人生は一変してしまいましたが、今に来て、去年の3月と言う月が、自分にとってどんな月だったのか、少し考えて見ました。
この震災の、1人の被災者としてまた、当事者として、3月と言う月をどう過ごして行ったのか、そして何を見て何を聞いて、どう思い感じ考えたか、これから少しずつですが、書き留めて行こうと思います。
一周忌と言う日が来る前に、少しでも皆さんに、3月と言う過酷で辛く悲惨な日々を、知って欲しいと思っています。
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体験した当事者しか知り得ぬ事を、皆様方に知らしめると言う事は、次の有事の際に、参考とまでは言いませんが、何かを知り得るきっかけになればと思います。
たぶん私自身は、当日に近づくにつれ、物事正常に考える事が困難になると思いますので、先に書き留めておこうと思います。
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「萬ちゃん!もう少しで積み上がるから、トラックの荷台見ててねぇ」
そう声を掛けられて、午前の仕事を終えようとした矢先の事、突然の地鳴りとともに、木材チップがもう少しで、積み終えようとしていたトラックが、右に左に揺れ始め、あわや転倒する位の勢いで地震が発生しました。
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昨年の3月9日午前11時50分頃発生と記憶する地震です。
私が勤めておりました会社は、大手製紙会社に製紙用チップを、製造販売する会社で、所在地は門脇地区の捨喰と言うところです。
石巻の工業港地帯に隣接する工場地区で、海から1㎞位しか離れていない、準壊滅地域です。
地震発生時には、いよいよ来たかぁ"宮城県沖地震"と思い、工場内のプラント設備を緊急停止し、火災に備えるなどの処置を施す。
程なく行政の防災無線から、津波発生に注意する旨の放送が鳴り始め、社員一同緊張の渦に巻き込まれる。
早急に被害の有無や、地域の状況をテレビで確認して、津波注意報の発令に備えた。
直後に注意報は発令されました。
予想される最大波高は、数十㎝の報道。
到達予測時間までテレビを見ていました。
程なくして津波注意報解除の防災無線。
これは、3月11日の東日本大震災が発生する、わずか2日前の出来事です。
この時のマグニチュードは、私は記憶しておりませんが、震度は5強と記憶します。
私の勝手な判断、勝手な解釈をすると、この地震が本震で、2日後の巨大地震が予震だと思います。
この2日前の出来事が、何を意味するか、私が思うには、津波注意報あるいは津波警報発令下に、逃げる行為を阻むきっかけになったと思います。
何故なら、私自身も逃げようとしなかった、いや逃げようと思わなかった、逃げる必要がないと思っていたからです。
実際にその日は何の被害もありませんでした。
それが後日、取り返しの付かない悲劇を生むと、誰が予測したでしょうか?
今考えてみると、背筋も凍る思いです!
コメントを打つ手が、小刻みに震えています。
どうかこのコメントを見ている皆さんには、この恐怖を味わって欲しくはありません!!
"まずは逃げる"行為を怠ったりしないでください!!
3月9日の夕方、いつも通りに帰宅して、いつも通りに風呂に入る。そしていつも通りの晩御飯!
あたかも何事も無かったように過ぎて行く時間と記憶、家族で起きた地震について話したのは、ほんの一言二言でした。
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すると、一本の電話が鳴る。出ると実家の親父!
「今日の地震で、何処に逃げだのや?」この問いかけに、「何処さも逃げねよ」と答える。
すると突然「馬鹿者っこの!!!」「いす、そんでも子をもつ親が!!!」「童子どもはどうした?」と、物凄い剣幕で怒られました(*_*)!!
子供たちはそれぞれ、避難したようですが、祖父の必要以上の小言に、多少嫌気がさしていたのは事実です。
その後に、家族でもう一度話し合い、その日その時間帯に合った場所に、必ず避難する事を確認しました。
今思えば、このオヤジに怒られなければ、家族一同どうなっていたか・・・(-_-;)!
当のオヤジはお袋と伴に、近所のパチンコ屋さんの、立体駐車場の一番上に逃げたそうです。
この駐車場には震災の時も逃げていました。
そんなオヤジは、いつ何時にまた地震が来るか、わからぬから、まだ半分あったけれど、ガソリンを満タンにして、常に備えようとその日決めたそうです。
私は、今でもあの時オヤジに怒鳴られた声を忘れません。はっきりと耳に残っています。
子をもつ親として、事が起きる前に守ってやらねばと、痛感しました!!
事が起きた時では・・・(-_-;)!
守れぬのだから・・・!!
【私の2011年3月】
4年に一度のオリンピックの年に同じく、今年は1日多い閏年、4年に一度の2月29日も、いつもながらの平凡な1日でした。
そして今日からは3月・・・(-_-;)!
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被災者にとって、3月と言う響きは、どうしても昨年の3月を感じてしまう事でしょう。
当日の出来事を綴るには、かなり長くなると思うので、幾度にか分けて綴らせて頂きます。
3月11日、寒かった昨年の冬に、少しずつ春の兆しが表れて来ていたけど、その日は冬に逆戻りの感じで、水溜まりがきっちりと凍った氷点下の朝でした。
会社のプラント設備も、寒さの為か動きも鈍く、1つのベルトコンベアに異常を感知して、作業中断を余儀なくされました。
昼過ぎには正常に戻る見込みを上司に告げて、少し早めに昼休みに入りました。
修理班の作業完了の報告を受け、試運転の結果異常を認めず、このまま本格作業に移ろうとした矢先の事でした。
上司と作業の打ち合わせの最中に、「ちょっと揺れてるかぁ?」の声に、「えっ」と思った瞬間、大きいストロークの揺れが、瞬く間に工場全体を包み込み、激しさの余り大急ぎで建屋から離れて、広い所に身をおきました。
東北地方沿岸を、どん底に突き落とした、東日本大震災の発生です。
社員一同広い場所で、右往左往しながらも、何とか地震がおさまるのを待ったけれど、終わる気配が一向にありませんでした。
実に5分以上も揺れ続け、整理整頓されていた廃材ベニヤなどが、所狭しと散乱してしまいました。
一同お互いに顔を見合せ、「何これ、どう言う事?」と、現実を理解出来ない自分が、そこに居ました。
けたたましいサイレンが鳴り響き、大津波警報発令を告げる防災無線が、一気に街を飲み込んで行きました。
余りにも異常な揺れで、時間が長かったので、家族の事が心配になり、直ぐに電話するもつながらず、何とかメールで無事を確認しました。
電気や水道も寸断されて、事の重大さを、ようやく感じた次第でした。
会社からは、直ちに帰宅せよとの命を受け、直ぐ様車で帰路につきました。
度重なる予震を感じながら「ついに来たかぁ"宮城県沖地震"」と、少し浮かれ気味だった事を覚えています。
この後直ぐに、取り返しの付かない大惨事が待ち受けている事も知らずに・・・(-_-;)!!
只今女川にて、津波の第1波を観測、波の高さは50㎝、予想される最大波高は6mに達する見込み!!」
帰宅途中の車のラジオが、津波第1波到達を告げていました。車の時計で3時4分の事でした。
...
予震を常に感じながらの帰路は、大街道地区が停電により信号機が消えていたために大渋滞でした。
仙台方面に向かう車は寸分動かず、どうにか日和山方面に向かう車だけが、少しずつ動く状態でした。
各地区の指定されている避難場所に向かう歩行者の人々の、険しい表情で歩く姿が今でも脳裏に残っています。
やっとの思いで大渋滞を逃れ、日和山地区を走行していた際に、ふと、思った事は「女川で6mなら石巻は2m位だな」先人の人々が、津波の高さを予測する例えを、何ら疑う事なく安全な日和山地帯を通り抜ける自分が居ました。
山を下りきり、石巻小学校の裏手を通り、旧市役所通りを横切って、写真に写る交差点に来た瞬間に・・・、黒い壁が表れました。
「えっ!!」一瞬何があったかわからぬままに、身体だけが反応していました。とっさに私の左手は、車のギヤをバックの位置に入れておったのです。
後を振り返ると同時にアクセルを踏み込み、一目散に鹿島御児神社登り口まで、バックで逃げ切りました。
その時に、呆然と目の前に繰り広げられる惨劇を、只見ているしかありませんでした。
私の前を走っていた車は、運転手の方が車を諦めて身体だけで逃げ、私のバックする車と一緒に走る直ぐ後ろに、黒い壁が迫っていた事を、今でも鮮明に覚えています。
その時に、私は幾度となく"命拾い"をしています。
この交差点に入る前に、黒い壁を発見した事!
私の後ろに後続の車がいなかった事!
そして大街道地区の大渋滞で、時間を費やした事で、災難を免れる事になりました。
しかし、この交差点に"5秒"早く入っていたなら・・・(-_-;)、私はこの世にいなかったと思います・・・(-_-;)!!
今、このように生きてこの場に居る事は、奇跡なのだ、不思議なのだと感じています!!
この交差点を左に曲がって津波を受けたら、一瞬で車は破壊され、逃げる術を失なった事でしょう!!
もし、今の知識がこの時点であったなら、こんな危険を誰がするものですか!!
自然の猛威を知らぬ事が、これだけ愚かな行為をしてしまう事を、どうか皆さんには知って欲しいところです!!
私は、奇跡で救われた命で、このような事を後世に知らしめて行くつもりです!!
つづく。