女性性ってなんだろう。
女子力……可愛い髪型とか服とか化粧とか、料理とか裁縫とか、その他家庭的なスキルとかですかね。
それはジェンダー(社会的にこうであろうと決められた、外側の性的役割)であって、女性性とは似て非なるものです。
このジェンダーをうまく演じられないために、私は女らしくないとか、母性がないとか、お母さんにはなれないとか、母親失格かもとか思っている人は、結構いるんじゃないでしょうか?
でもそれは勘違いで、自分の生き方の趣味が、その時代のジェンダーに合わないだけで、パートナーを見つけたりとか、母親になるだとか、そういうものとは本来無関係です。
女性性の本質は、陰陽の陰。
自分自身を、ひいては周りを受容すること。
場面場面で、同じ人でも役割はスイッチはするけれど
たとえば子供を産んでる時点で、生物的に自動的に、母という役割は受容しているわけで、全体から見たら、陰のバランスを担っている。
そして、パートナーを見つけることは、相手を受け入れることで、その行為自体が陰、女性性のなせる技なんです。(男・女、パートナーの形に関わらずね)
その本質に比べたら、いわゆる女子力というものは表面的で、趣味の一種みたいなものなんですよ。

私の話をします。
自分の女性性を高めようとおもって、ベリーダンスをやったことがあります。
でも今思うとこれも、若干ジェンダーに寄った発想だったのよね。
女は色っぽくあるべきだし、セクシーな格好をするべきだし、いわゆる「女神」というイメージに相応しい振る舞いをしなければならない。みたいな(笑) ← 全然自分を受容してないよね(笑)(笑)
誤解のないように言うと、これはベリーダンス界じゃなくて、私自身の思い込みです。それの成就をベリーに求めてたわけよ。
ただ幸い、その時習ってた先生はとても素敵な人で、「受容」という女性性の大切な本質を、常に教えてくれました。それによって自分を少し、受け入れることが出来たのは、良い体験でした。
でも、その時の自分内の女神というイメージが、ジェンダーのバイアスがかかってることには気がつけなかったな(笑)
ボンキュッボン! 美人! ウフーン!!
みたいなwww 誰のイメージなんだ(笑)


そういう像を求めれば求めるほど
そうでない自分を抑圧し、
本当の私は泣いていて、女性性の、受容という本質からは遠ざかる。

そういう私も、オシャレはたまには好きで、可愛い服を着たり、お化粧をするのが異常に楽しい時とかもあるんだよ。
それがいつもいつも楽しい人は、いつもやればいいと思うけど、別にそーでもない人は、気が向く時だけ、気の向くぶん、やったらいいと思うよ。
社会が求めるジェンダーを演じる力、いわゆる女子力が低くても、自分を受容するとさ、なぜかちょっと美しくなるんだよ。
あんまりジェンダー ジェンダーって連呼すると、とんがったフェミニストみたいで嫌だけど
女らしさと女性性とジェンダーをゴチャゴチャにして語っておかしくなってること、世の中にたくさんあると思うわ。
私は料理が好きだけど、いまは、楓ちゃんの後追いが凄すぎて、料理はほぼ全部よっちゃんに丸投げよ。
裁縫が嫌いすぎて、保育園の提出物(雑巾とか)は全部よっちゃんに丸投げよ。
ウルトラマンごっこは私の方がなりきりがうまいんで、私の担当よ。
ステレオタイプに反発しているわけではないけど、適材適所で今はこういう役割になってて、楓ちゃんの後追いが止んだら、私が料理担当に戻ると思う。裁縫は、永久に丸投げだと思う(笑)
時代の中の性的役割や、母としてこうあるべきだっていう外側からのイメージは、「自分の受容」(=女性性の本質)を考える上では、ある意味呪いみたいなものだなと、思います。
それが苦痛でないときは、趣味に合ってるんでしょう。それは悪いことではないです。
苦痛を感じたら、それは自分を知るチャンスですね。バイアス、呪いがあるから自分が分かる、という利点もあるかもしれません。
受容、受容、受容。
これからも、女性性のことを時々、書いていきたいと思います。