『誰も自分を傷つけられない』
って強がりの話じゃないんです。事実。
例えば、誰かの言った言葉で傷ついたとする。それは、厳密には誰かが自分を傷つけたのではなくて、自分自身がその主張を受け入れた時に、初めて傷つくのです。
だから、ほんとはその酷いこと言ったり、同調したりしてるのは、深層の自分自身だったりする。
全然その批判なり指摘なりは当たらないなと確信していると、気にならないんです。
傷ついたときは、あ、自分は自分のこと、そんな風に思ってんのかと「気がつく」。それは客観的な真実ではなくて、自分の思い込みなの。そういう受け止め方すると、だんだん自分に優しくなれます。
(傷ついてる・被害者でいるほうが楽なためにそのままでいる、っていうケースもあるんですが、ややこしいんでその件はまた改めて
)

たとえば、インターネットで、ある発言が炎上して「傷ついた」祭りになってる事案、時々ありますよね。
あれは、自分の心の中の闇を、その発言なり、特定の人物に投影しているわけです。
『許せない!』『傷つきました』
って、実は自分自身へのことば。
あとは
逆の立場のことも同様に言えて、
自分が言ったことで、誰かが傷ついたと言ってきたとしたら、それは、その人が、自分にその人自身の闇を投影していることになります。
もちろん、闇を投影されるのは、いい気分ではないですし、無闇にひとの心を傷つけるような発言をするのは違うと思うんですが、
自分への批判やら反対意見は、常にそういう相対的なものであって、真実とはちょっと違うところにある、と心得ると、ちょっと楽になります。
…なんか回りくどい言い方になりました。
ネットって面白くて、技術的な代物のようで、実は人間の深層心理やテレパシーを可視化したようなものだと思っています。
傷ついた、傷ついた!という人がいたり、それに配慮した過剰な自粛があったりするのを見ると、
逆に言えば、すごく自分で自分を傷つけている人が多いんだと思います。
こういう自傷癖がこじれると、他人の評価に、他人のしてくれることに、自分のあり方を明け渡すようになります。
いやむしろ、子供の頃から、そういう生き方が身についてるから、「自分のことは自分が決める」というスタンスの想像がつかないのかも。
あなたは被害者じゃない。
ぜんぶ自分で決められる。
いま、被害者になっているのだとしたら
自分でそう決めただけ。
思い出して。
傷つく、傷つけられる
批判する、される
わたしは、もうこういう世界は卒業したいなと思ってる。
だって、わたしのことは、わたしにしかわからないんだもの。だから伝える。言葉にして。
それで伝わらず、誤解されても、しょうがない。ひとは、その人の思いの中で生きている。その人の思いの中でしか理解してもらえないから、誤解されるのはわたしのせいじゃない。
誤解されても、わたしの思っていることとか、わたしのあり方は、わたしにとっては揺らがず、常に正しい。
思いが変わることもあるけれど、その揺らぎや矛盾こそが、わたしにとっては真実なのだから。
他人に、「わたしの正しさ」を認めてもらう必要はないの。そこはあきらめましょ。他人にいくら正しさを認めてもらっても、癒されないし、正しさを否定してくる人に常におびえ、探すようになるの。
「わたし」を受け入れるのはわたし。それが出来れば、誰もわたしを傷つけられない。

自己肯定に関するカウンセリングで、いつもこんなことを伝えてます。
いわば飯のタネだけど、ここに書いても、飯のタネはなくならないから、書くね(笑)
これを皆さんにつたえながら、わたし自身が自分を癒していくのが、私のやること、やりたいことだなあと、背伸びもせず思ったのでした。