「世界の諸民族は、ひとつの有機体を構築するべきです。子どもは、幼児期から世界人類の市民として育てなければなりません」
「汚れを知らない子どもの心の中にこそ、
世界平和を創造し、維持するエネルギーが宿っているのですが、残念なことに多くの親は子どもが平和のために役立つ使者だと気がついていません」
「科学技術の発達によって、現代の人類はかつてなかったほどの進歩を遂げています。しかし、この進歩は物質的なレベルにとどまっています。
科学技術を輝かせていた光とは逆に、人類は道徳的な暗黒状態にとどまっています。
その暗黒な状態から(人類を)引き出すことができるのは「正常化した」子どもであり、その意味で子どもは「人類の父親」に匹敵する力を持っているのです」
…と、モンテッソーリ女史の言葉だそうです。
1年前、龍さんを預ける前に、保育園に見学に行った折、短い時間だったけど、園長先生からも、そういった趣旨のことを伺って、ああ これはいいなあと思いました。
親の私たちにとっても初めての保育園で、いろいろ心配はありましたが、先生たちにあたたかく見守られ、穏やかに、楽しそうに日々を過ごしているようです。
モンテッソーリというと、日本だとなんとなく英才教育的なイメージがある気がするけど、私は正直、そういうのはあまり着目してませんで、個性を尊重して自主性を伸ばす感じがステキかなあと、ざっくり認識しています。
人の幸せと、平和な世界に必要なのは
自主性、主体性(つまり自由)、そして、他との違いを認めること。
違いを認めるのに必要なのは、自分へのゆるぎない肯定感。
他人を攻撃する理由って、自分を否定される怖さから、生じている。
でもじつは、観念的には、他人に自分を傷つけることはできない。自分を傷つけ、否定することができるのは、自分だけだ。
その怖さは、自己否定という幻想から生まれている。自分を守ろうとするあまり、違う他人を攻撃したくなる。違う他人を殲滅すれば、自分は安全だという幻想でね。
戦争って、表面の理由はいろいろあるけど、結局のところ、それが大きくなって収束がつかなくなった状態なんだと思います。
心屋仁之助さん風に言えば、それは、「自己否定」っていう名の壮大なコントなのだ。
↑私もチキンのくせに攻撃的な性格も内包してまして、いまだそうなので、あまり偉そうなことは言えないんですが…。チキンのくせに、じゃなくて、チキンだからこその攻撃性なのよね。うむ。
だから、平和のための教育って、ひたすら自己肯定への援助だと思うの。
それがモンテッソーリの諸所のメソッドの裏に隠れたテーマだと思うんですよ。語ってるくせに細かい部分はぜんっぜん知らないんですけどね(笑)(←当面お世話になるんで、亀の歩みで勉強はしたく思ってます。)
日本の子供って、自己肯定感が諸外国に比べても低めで、しかも、学力と逆相関する傾向にあるらしい。
つまり、学力高い子ほど、自分のことダメだと思ってる。みたいな。
これって、完全に教育の失敗だと思うんだよ。
大学院まで出た自分が言うけど、学校のおべんきょだけが出来ても、ほんと意味ないっていうか、学歴ってハリボテでさ、自己肯定感の低さの裏返しの学歴なんて、ホント最低よ…。
学歴でうまく就職して、それで自分のこと社畜とか、会社のことブラックとか言ってるのは、そういうのの成れの果てですよ…。主体性ゼロでしょ? 他人に褒められるためにしかやってこなかったから、そういうことになるんだよ。そんな人生つまんないだろ?
……自分の過去を重ねて内省してたらヒートアップしてしまった(笑)
話を戻すと、この国の従来の全体主義的な教育は、平和教育にはならないのだと思います。
戦争こそ起こしてはいないけれど、諸所に他責の文句をいうひとが増え、国全体の活力はいまひとつなのかなと思います。
おべんきょは、まあ出来ないより出来た方がいいけどさぁ、その辺は趣味の領域だと思うんですよね。
それより自主・自立だよ やっぱり!
自己責任の人生を歩みつつ、人に迷惑かけつつ、感謝しつつ、幸せに生きられるひと。
それが「正常化した」ひとであり、平和を作っていけるひとだと思うんだ。
うーん
書き散らしたのでどこか論理に穴がありそうな気がしますが(笑)
最近こういうことを考えていました。
とりあえず、
モンテッソーリ教育で育ったオバマ大統領が、まんま平和の使徒になっている
ということに、大変な感銘と喜びを覚えている、私でした。