(このブログは一旦移転してるので、その前のやつ。恥ずかしいのでリンクは貼りません 笑)
放射能のことで右往左往する世の中に憤りをぶちまけたブログでした。余震も活発だったし、先々の不安が文章ににじみ出てた。あのころは、まだ龍ちゃんがお腹に来る前だ。
自分の畑で作った、たぶん放射能が多少検出されるであろうほうれん草を、色々調べて大丈夫そうだなと判断した上で、モシャモシャ食べていたようです。
5年経ったけど、やっぱり今なんともねーなぁ。まあ、それはいいとして。
原発についてね、考えました。
あの、先に断っておくと、世の中のいわゆる脱原発、反原発、放射脳系の手合いはあんまりっていうか全然好きじゃないので、そのタグで間違って寄ってこないでね(笑)
イデオロギーとか自然回帰のポリシーとかと離れて(というつもりで)考えてみたことを書いてみます。
原子力って、元をたどれば人工の力なんて範疇じゃない。太陽や恒星の中心で起こってる核融合反応もそれの一種で(原発は核分裂だけど)、
ごくごく、自然なちからだ。
でも、とても大きな力。
原子力発電に関連する物質ごとの放射線量の半減期のオーダーなんかを見ても、人間の生きるスパンと、文字通り桁が違うものがたくさんあるし(セシウムは30年、プルトニウムは24000年、ウランは245000年~)
本来、人間の手に負えない力なんだなと思う。ほら、太陽の寿命ってあと50億年とかいうじゃないですか。そういう領域のチカラなんだよね。
人間が愚かとかそういう感情論じゃなくて、住んでる領域とか寿命のオーダーとかを機械的に考えて、人間に見合ってないチカラなんだなと思います。
自然界はうつくしい。
宇宙は完璧だ。
それは、世界を観察したり、数学をちょっとかじったくらいでも、そう思う。
原子力かて、宇宙の偉大な、うつくしい、力なのだ。
でもきっと、人間が扱うには、無理なオーダーの領域なんだわ。神というか、もっと大きなものに属する力。
地球の表面で、せいぜい100年弱で生きて死ぬ生き物には…本来は扱えないエネルギー。原発事故は、起こるべくして起こったものだろう。
原子力じたいは美しいけど、それを扱うもの(人間)とのオーダーの不釣合いが、美しくない現実を産む。
そんなわけで、原発って、やっぱり将来的には無くなった方がいいなというか、なくなっていくだろうなと、思っています。世の中は、なんだかんだで妥当な方向に向かうから。
国の経済の規模や方向性を思えば、すぐに無くすというのは無理だろうよなあ。そんなわけで、デモに行くのは無駄だと思ってる。他者にパフォーマンスをするそんなエネルギーがあったら、自分のライフスタイルを考えた方がよい。
もっとお金、もっと仕事、もっと成長……
って感じの流れから、抜けることに。
いや、正確にはやりたいだけやったらいいんだけど、自分の幸せに必要な分のそれを、きちんと見極めることかなと思う。他人とか世間の当たり前に合わせてると、その辺の意識が濁る。
その濁りから抜け出して、分相応に幸せ感を持って生きられたら、そういうひとが、どんどん増えていったら
それが、国全体を変える静かな原動力になるだろう。
本来自分の扱えない、自分の領域でないものを求めて、餓鬼(※コドモの意味じゃなく、ほんとに飢えた鬼)のように、もっと、もっとと走り続ける。
っていうスタイル、このエネルギー自体が、国全体のいまを作ってきたのだろうから。
まずは自分がやめることだ。
ちなみに自然回帰のライフスタイルだけが必ずしもそれじゃないなあ。その辺は好み。
あくまで生き方ね。
世の中の『こうでなければならない』の理を出てしまうこと。
そうすると、人間って案外省エネなんじゃないのかなー。カッコつけることに、無駄なエネルギー使いすぎなんだよ。
話が右往左往したけど
原発という存在の無理さと、経済的な先進国の人間の生き方の無理さが、なんとなく通じるものがあるなあ、と、思ったのでこういうことを書いてみました。