高校生の時、本屋で
『クソゲー名鑑』みたいな
タイトルの本をみつけ
ついつい手に取った。
『クソゲーとは
クソつまらねえゲーム
のことである』
前書きの第一文で
腹筋崩壊www
それはさておき。
私が生まれ育ったのは、ちょうど
ファミコンの黎明期で
不完全なゲームがたくさんあった。
(1980年生まれの、今年年女
です)

難易度高すぎて理不尽だったり
システムのバグも多いし
自由度も低い。
でも、誰もそれを
非難するひとはいなかったと思う。
『クソゲー』って言っても、
私が腹筋崩壊した本の前書きのように
なんというか
バグや不完全さを、
むしろ面白がってたなーって。
別に良いとは誰も思ってないけど、
そのまんま許容しているというのか…
なくすべきとか、そういう次元
ではないんだよね。
ゲームに限らず、色々なところで
不完全なものにたいする許容が、
昔の方があったのかなー
と感じる。
(今の方が良くなってることも
たくさんあるけれど。)
人間への許容も。
クソゲーでも思うけど
物事を好きだと思うことに、
正しさは必ずしも要らない。
私の親友は
時間をすごくまもらない人だ。(笑)
30分で行くよと言ったら
1時間半くらい待たせるのが普通。
家もめちゃくちゃだし、
おおらかでルーズな人だ。
(でも良い人だよ)
でも良い人、って書いてみたけど、
この人と仲がいいのは、
別にいい人だからではない。
ましてや正しい人だからでもない。
何が言いたいかというと
もっと
『正しくいること』
『正しくあること』を
手放してみても
いいんじゃないかな、
って。
他人に対しても、
自分に対しても。
『正しくないこと』に
目くじら立てると、
いろんな事が窮屈になるし
世界が敵ばかりになってしまう。
不完全な世界、歪んだ世界を
受け入れると、楽しい事が増えて
世界が自分に優しくなる。
クソゲーの思い出は
私にそんなことを教えてくれる。
クソゲーのくせにね。(笑)