一度に夫と美しい息子を失った母親の悲しみについては
こちら (※鶴見寺尾図逍遥)御参照
時代は下り江戸時代、徳川光圀の名義なる水戸藩「大日本史卷之一百六十二 列傳第八十九」にも勢多加丸斬首事件はしっかり録されています。
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泰時迫京師,與源有雅守宇治。又敗就虜,斬于京師。【東鑑、承久記。】子惟綱、為綱皆死。【印本尊卑分脈。】季子勢多伽年十四,美容姿,事道助法親王,在仁和寺。及廣綱死,親王送勢多伽于六波羅,遣使乞宥死。其母從行哀訴,泰時憐而赦之。叔父信綱適至,信綱與廣綱相惡,固爭以為不可。泰時遂殺之。【○參取東鑑、承久記。】
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ところでweb上では勢多伽を十一歳と規定しているところもあるようですが、概して美少年の花盛りが十三歳ぐらいからであると言われていることや前欄既述の服飾返歌の妙などを鑑みればやはり承久記の言うとおり十四歳が妥当なところではないでしょうか。また彼は七歳で御室に来ていますが法親王との肉体関係は様々な意味で稚児灌頂以降と思われますからやはり十一歳というのは不自然だと思われます。
おそらくは前欄後段で記した吾妻鏡の「十余歳単孤頼み無き者、を安易に曲解して11歳としたのでしょうが、勢多伽を考証する際は法親王との性愛のことは不可欠であることを認識すればやはり13・4歳でしょう。何よりも承久記に十四歳と出ているのであればそれに従うべきと考えざるをえません。
なおソースは不明ですが、承元2年(1208年)生まれとの説もあります。処刑されたのが承久3年(1221年)7月11日ですからその場合は十三歳ということになります。が、私はやはり原典に基づき「年十四」説を採りたいですね。
追記
同
勢多伽、今年十四歳、眉目心様・衣紋付袴の着様、世に超たれば、御所中にもならびなけり。