先月21日付稚児の悲恋@古今著聞集 では鳥羽上皇の五男、御室仁和寺の覚性法親王が愛した二人の少年について言及しましたが、当欄では後鳥羽上皇の第二子の同じく御室の道助法親王と彼が目に入れても痛くないほど愛していた稚児の勢多伽丸(せいたかまる)(現代語表記は勢多加丸)について言及しましょう。
承久記には「御寵愛の稚児」「眉目じかたち心ざま世に優れたりければ、御所中に並ぶかた無き稚児」と書かれています。また同じく「七歳より召し使われて、今十四歳まで御前を立ち去らず」の記述はいかにこの美少年が法親王の魂を奪っていたかは推して知るべしです。
※承久記の記述ですが、正確には、「御最愛の兒有り」「勢多伽、今年は十四歳、眉目心様・衣紋付袴の著様、世に超たれば御所中にも雙び(ならび)無けり」
「勢多伽丸、七歳より召仕て、已に七八年が程不便に思召せども、父廣綱が罪深して切れられぬ」
等とあります。
この稚児の父親は佐々木広綱で後鳥羽上皇の引き起こした承久の乱では上皇方に与しますが、当然ながらあっけなく敗北。広綱は「重き科の者」として斬首となりますが、末子とはいえ直系男子は縁座の法の適用が必定ですが、あれでも事前に出頭すれば事なきを得るのではないかと法親王はきわめて不本意な決定を強いられます。もしかしたらこの時点で彼は愛する少年との永遠の別離を覚知していたのでしょうか。
埋木の朽ちはつべきは留まりて 若木の花の散るぞ悲しき
六波羅で少年への取調べに当たった北条泰時は「まことに美しき稚児にて侍れば、君(法親王)の不憫に思し召さるるも御理に候へば、暫く預け奉る」と御室にお返ししようとしました。泰時も少年を見た途端にかの平家物語におけるかの熊谷直実と同じ心境になったのでしょうか。
が、美の風情や心の琴線を解しない無骨者はいずれの時代もいるものです。身柄を引き取った少年の叔父にあたる佐々木信綱は兄広綱と不仲で幕府方に与していましたが、成人後の報復でも懸念したのでしょうか、あるいは佐々木家の家督継承が目的か、強行に死罪を要求します。結局、泰時も押し切れなかったのか、少年は六条河原に引き出され、実の叔父に斬首されてしまいます。
朽ち葉の直垂とは少年なりのせめてもの返歌でしょうか。心ざまも最後まで優雅な14歳の最後でした。
「最後には、上(親王)より賜りたる朽葉の直垂を着替えて、西に向かひ念仏数遍唱へて討たれけるぞ哀れなる。」
法親王は「空しき骸なりとも、今一度見ばや」と遺体を眼前に運ばせてたいそう悲しんだそうです。
吾妻鏡での記述も紹介しておきましょう。
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1221年 (承久3年 辛巳)
7月11日 癸巳
相州以下勧賞を行わる。これ院中に参る逆徳の輩の所領を順うなり。今日、山城の守
廣綱の子息小童(勢多伽丸と号す)仁和寺より六波羅に召し出す。これ御室(道助)
の御寵童なり。仍って芝築地の上座に副えらる。眞昭武州に申されて云く、廣綱の重
科に於いては、左右に能わずと雖も、この童は門弟として久しく相馴れるの間、殊に
以て不便なり。十余歳単孤頼み無き者、何の悪行有るべきや。預け置かるべきかの由
と。その母また周章の余り、六波羅に行き向かう。武州御使に相逢って云く、厳命を
優じ奉るに依って、暫く宥める所なり。また云く、顔色の花麗と悲母の愁緒と、共に
以て憐愍に堪えたりと。仍って帰参するの処、勢多伽の叔父佐々木四郎右衛門の尉信
綱これを欝訴せしむに依って、更に召し返し信綱に賜うの間梟首すと。
こちら ※東鑑目録
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次欄も勢多伽丸の関連を予定しています。