筑後草野氏について調べてみよう | 上条武術研究所

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先日、筑後の平知盛の墓に行った時のこと。

檀ノ浦の戦いから筑後に逃げ延びた平知盛。しかし、その地を治める豪族・草野氏は源氏に寝返っており、筑後で討ち取とられたという言い伝えがあるので、お墓があるわけです。
(推測ですが、おそらく順番が逆で、何かしらの縁があり、平知盛の供養碑が建てられていた為、年月を経て平知盛本人が討ち取られた話になっていったのだと思います…。)

で、今回の記事のメインは、その草野氏です。
平知盛を追っかけている私からすると、情勢に合わせて源氏に寝返った人物としか認識していなかったですし、それくらいの認識で良いかな~と思っていました。
しかしながら、お墓に行った後に訪れた草野歴史資料館さんで、草野氏について色々と教えて頂きました。
せっかくですのでブログ記事に落としておこうと思い、この記事をまとめております。
草野歴史資料館にて。

写真が悲しそうな表情をしていますが、そんなことはありません。私もわりと近場の歴史資料館には行ってますが、トップクラスに親切かつ内容も充実した資料館でしたよ。

で、草野氏。この筑後草野では、やはり土地の礎を築いた重要な存在なわけです。
こんな資料にもまとめられていて、資料館で販売もしている。地元にこういうちゃんとした資料館があるのって、本当に素晴らしいと思う。
北九州市の場合は、何となくエンタメに寄っている気がしますね。


では、草野氏の概要をまとめていきます。

◯草野氏の入国。
平安後期の長寛二年(1164)に、初代・草野永経が肥前山高木より筑後に入国します。

草野氏の出自については諸説あるようで、在地の豪族説と、草野氏は公文書では藤原姓を使用していることから藤原鎌足を先祖にもつ一族の説もあるようです。
初代・草野永経の父は、肥前高木氏。草野永経は筑後に入国してから草野姓を名乗ります。


この1164年とは、平清盛が安芸・厳島神社に法華経を書写して奉納した年。平家が勢力を拡大し始めた時でもあり、この時点で北部九州の要所と言うべき大宰府は平家の本拠地であり、筑後地方も平家の支配下でありました。

草野氏が筑後国に入国を命じられた理由としては、肥前の日向太郎通良の乱での鎮圧の功績が認められたからと言われています。(さすがに日向太郎通良の乱とかまでは調べま…まあ、タイミングがあれば掘り下げたいと思います。)

当時、筑後国守を平家貞なる人物が務めており、この人物も日向太郎通貞の乱の鎮圧で活躍した人物だそうです。草野氏はその関係から筑後への入国に至ったようです。


つまり、入国時は平家に認められていた一族であったのですね。



◯源氏への鞍替え

元歴元年(1184年)、草野永経は源頼朝から筑後国守護を命じられます。(草野文書による)

なお、檀ノ浦の戦いは1185年です。平家滅亡前には源氏についています。

これは、どういう流れなのでしょう?


1183年に東国での戦いに敗れた平家は本拠地である太宰府に逃げ帰ります。いわゆる平家都落ち。

そして、体制を建て直すために九州の平氏一門に呼び掛けますが、情勢は東国での状況と同じく、九州でも反平家の動きが始まっていました。

筑後国の草野氏もこの時点で反平家派となっています。草野氏を含めた肥後国の菊池氏、肥前国の高木氏ら九州の反平家派たちは高良山で決起、高良本庄にて平家と戦闘となります。

この戦いで平家軍は敗北。

平家軍は本拠地である大宰府まで追われ、筑前国山鹿(遠賀)、豊前国柳ヶ浦を経由して讃岐国屋島へと、九州を追われて東へ追いやられていくわけです。

で、ここで僕が理解できていないのが『豊前国柳ヶ浦』について。これを北九州市門司区大里としているのと、大分県宇佐市柳ヶ浦としているのがあるんですよ。ちょっと何かが混在しているようで…勉強してきます。




◯以降の草野氏。

私は平知盛を調べているだけですので、この後の草野氏についてはザッとしか書きません。


鎌倉幕府に筑後国守護を命じられた草野氏は、地元の大名として元寇にも参戦しております。元寇の図に『くさのし』とちゃんと書かれている資料もあります。

草野氏の活躍としては、筑後川に船を使った浮橋をかけ、肥前軍を迅速に戦場へ到達させた話もあるようです。なお、この浮橋というのは筑後川付近の生活で培われた草野氏ならではの技だったようです。

しかし、元寇による恩賞は少なく、学校の教科書で習うような鎌倉幕府倒幕の流れに草野氏も呼応しています。


そして、この後の九州地方は、島津、大友、龍造寺のいわゆる『三氏鼎立』の時代になります。

草野氏は大友氏についたりもしますが、最終的に島津氏について、豊臣秀吉の九州征伐を迎えます。
島津についていた草野氏は、豊臣秀吉が筑後に訪れた時に挨拶をしなかったため、1588年に滅亡となるようです。
その様子が書かれた資料もありました。

筑後草野氏については、おおよそこんな感じの豪族のようです。


あと、筑後草野周辺について。
筑後草野という地区は、このように大名がいた城下町として、または長崎街道沿いですので宿場町として、町の礎が築かれたのだと思うのですが、炭鉱なのかな?昭和30年代くらいまでは機関車も通っており栄えていた様子が伺えます。
なんと言うか、今は田舎ではあるのですが、町並みが上品なんです。
こんな感じ。凄い整っている。

さすがに久留米なので頻繁には行けませんが、たまには旅行したい町の一つですね。