島村志津摩の顕彰碑に行く | 上条武術研究所

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島村志津摩の顕彰碑に行ってきました。
島村志津摩とは、どういう経歴の何をやった人物なのか?
今回の記事はそういう内容です。

第二次長州征討にて、小倉潘と長州潘が戦闘となります。島村志津摩はこの戦いに登場する小倉潘士です。

~おまけ。戦争名の整理~
・第二次長州征討(征伐)…1866年に幕府と長州潘との間で行われた戦争全般を指す。
・四境戦争…第二次長州征討において、大島口、芸州口、石州口、小倉口が戦場になったことから呼ばれる第二次長州征討の長州潘側の呼称。なお、薩長同盟を知らなかった幕府の草案では、萩口から薩摩潘が攻め込む計画もあったそうだ。
・小倉口の戦い…第二次長州征討において、小倉口で行われた戦闘。大きく田野浦の戦い、大里の戦い、赤坂の戦いの3つに分かれる。
なお、小倉戦争というのは小倉口の戦いの小倉側の呼び方。第二次長州征討全体で見れば【戦いの一つ】、小倉潘の視点で見れば潘の存続を掛けた【戦争】という使い分けがしっくりくるかと思います。

あと、これは個人的な感覚ですが、【小倉戦争】は今回後述する島村志津摩の戦いも含めた長州潘との停戦までが小倉戦争で、【小倉口の戦い】は小倉城が燃えるところまでみたいな感覚ですが、どうでしょう?


さて、続き。

小倉口の戦いにて。
開戦となる田野浦の戦いでは、小倉潘を筆頭に、唐津潘、久留米潘なども集結。幕府軍の総大将として、唐津潘老中の小笠原長行も迎えておりました。

島村志津摩はというと、小倉潘の一番備(そなえ)を指揮する役目を担っていました。前線のトップ中のトップですね。
しかし、総大将・小笠原長行からの攻撃命令を待っている中、幕府軍は長州潘から奇襲を受け撤退します。
これは幕府側から長州潘に停戦の条件を提示していており、その返事を待っていたので攻撃命令が出せなかったのです。

その際、幕府側は昔ながらの鎧では動けないことを知ります。


続いての大里の戦いからは、島村志津摩は小倉城の防衛を担います。
長州軍は最新の軍艦での関門海峡の封鎖を行い、散兵戦術なる海外の戦法での九州上陸を狙いました。
なお、散兵戦術とは、予め目標をみっちりと指導し、上官の指揮が届かなくても兵士が各個人で動くという戦術です。
対して、幕府軍では前回の反省から、甲冑を脱ぎ、軽装の兵士が多かったようですが、付け焼き刃の対策では新時代の集団戦に対応できず、長州潘の大里上陸を許します。
ここで長州潘の奇兵隊の戦略が明らかになったのかと思いますが、後に島村志津摩は同じような戦略をとることになります。
大里の戦いも長州潘の勝利となりました。

続いての赤坂の戦い。かなり距離的に小倉城が近くなってきました。
ここからは幕府軍に熊本潘が参戦。圧倒的な軍勢の攻勢により、幕府側が防衛に成功します。幕府軍の機運は大里奪還へと傾きますが、ここで2つの不運が重なります。
一つは熊本潘の撤退。赤坂の戦いを勝利に導いた熊本潘でしたが、この時に他の潘が戦いに参加しなかったことに不満を抱き「我が軍だけが傷付く必要はない。」と撤退をします。
もう一つは、将軍・徳川家茂の逝去。この知らせを聞いた総大将であった小笠原長行は「大里の奪還でなく、戦闘の落とし所を検討する。」と唐津へ戻りました。
なお、これは方便で逃亡しただけと言われています。後から長行の撤退を知った小倉潘士・小宮民部は、長行の乗る船に船奉行・岡野六左衛門を派遣しましたが、面会謝絶の上、小銃を浴びさせられています。

そんなわけで、孤立無縁になった小倉潘と、散兵戦術で進行が止まらない長州潘。
半分、私闘に近い状態のまま泥沼の戦闘が継続されます。

小倉潘は、小倉潘のみで城を防衛することは不可能と結論つけます。
ところで、ガイドブックなどの簡単な説明では、簡単に城に火をつけて敗走と書かれていることが多いです。まあ、文字数の制限があるから仕方ないのですが…

でも、それだと島村志津摩が登場しません。
顕彰碑の説明もできません。

というわけで、小倉城の自燃の流れを細かく書きます!

まず、小倉潘は城を幕府に返納するという申し出をします。これを受けた幕府は、小倉潘領を【日田】に移し、撤退を許可します。
これにより小倉潘は日田に移動することになりました。敗走じゃないのよ。正式な事務処理で移動しているのです。

そして、赤坂の戦い後、小倉から撤退した熊本潘でしたが、実は竹崎律次郎という潘士を小倉に残留させていました。
竹崎は「決戦の後に開城するのは敗戦の印象を与えるのではないか。」と、小倉城を自焼させることを提案します。
さらには「停戦への責任は熊本潘がとる。」とも言い、この提言を受けたことで小倉潘は自ら小倉城に火を放ったのです。
なお、小倉城のパネルでは、火を放った後も戦闘が続いていたことが、短い文章ながらも、ちゃんと書かれています。

で、多くの小倉潘士は田川郡香春へ逃げました。要人では熊本潘の庇護を受けた者もいます。

ここで島村志津摩が再登場します!島村志津摩のストーリーはここからです。

小倉潘と熊本潘、幕府も含めての協議でしたが、島村志津摩は撤退を拒否。徹底抗戦を主張します。
結果、島村志津摩は、新しい小倉潘領である日田を守るように金辺峠を拠点に長州潘を迎え撃つことになります。
また、熊本潘による事後処理で話を進めていた小宮民部も島村志津摩に賛同し、島村と別の場所となる狸山峠に拠点を置き、長州潘を迎え撃ちます。

小宮は昔ながらの幕府の戦法で戦いましたが、島村志津摩は違いました。
実際に、平和な時代を過ごした武士は戦闘の役に立たないことが分かり、荒くれものの農民を集め、戦術も今でいうゲリラ戦法で戦い抜きました。
そして、戦いの最中に小倉潘と長州潘が停戦。無事に長州潘から日田(小倉潘領)を守ったのでありました。

あと、小倉城が燃えた後も奮闘をしていた小倉潘士達ですが、すでに制圧されていた小倉城内に潜入していたりもしています。
この小倉城に展示されているパネルには島村志津摩の名前はないですが、他の資料では小倉城内に侵入した人物として名前が出てきます。

島村志津摩とは、そんな小倉潘にいた武人です。


というわけで、小倉で武を学び調べる人間として、その顕彰碑がある場所に行ったわけなんです。
日田彦山線で呼野駅へ。
距離的には小倉市街地からでも20分くらいで来れるくらいの近さのですが、無人駅です。
で、ここから1時間ほど歩くと、島村志津摩の顕彰碑があります。

デカい。
この場所こそが金辺峠で、島村志津摩の拠点があったと言われています。

!!
驚くのがリアルに顕彰碑の後ろに石段(石畳?)の形跡があるんですよ。上に山城的な小屋みたいな拠点があったのだろうと想像がつきます。
これはネットで事前に調べられなかった事実です。現地に行ってから知ることもある。

そして、剣を振る!!



あと、面白い点が1点ありました。

この顕彰碑に行くルートの話ですが…
北九州側からも来れるし、日田側からも来れる。

私は北九州側から来たのですが…
汚い山道を通るし、

Googleマップの指示に従うと、この水没し閉鎖されたトンネルに辿り着く。顕彰碑はこの上にあるんですね。
道に迷うというか、ちょっと探さないと分からない。

対して、日田側からだと車で現地まで来れる。

このルートの違いが【北九州側からの長州潘の進軍から日田を守るために、この場所でゲリラ戦法を駆使して戦った】ことの名残のようにも感じました。


あとは、顕彰碑とは別の場所となりますが、現福岡県京都郡の島村志津摩が没した地にも行きました。
後ろに一本だけ桜の木があり、しずま桜と呼ばれています。

さらに島村志津摩のお墓にも行きました。
コチラもまた別の場所で、小笠原家の菩提寺に一緒に埋葬されています。
小倉潘が誇る武人の1人だ。素晴らしい。

島村志津摩関係の碑であれば、この3ヶ所を巡る感じでしょうか?
山道こそ歩きますが、それぞれが近くにあるので丸1日かければ、なんとか回れます。
(私は2日かけましたけど。)


ただ、最後に唯一の解せなかった点があります。

せっかくだからと、最後に大好きな小倉城に行ったんです。島村志津摩の展示を見て帰宅しようと。
そしたら、2024年4月16日現在の話ですが、小倉城内の常設展示に【島村志津摩】の名前は一切ないのです。
記憶ではあったような気もしましたが…。企画展とかだったのかしら。いのちのたび博物館のほうだったかしら。

島村志津摩の展示をお願いします!