All of Us Strangers(2024 イギリス)
監督/脚本:アンドリュー・ヘイ
原作:山田太一「異人たちとの夏」
製作:グレアム・ブロードベント、ピート・チャーニン、サラ・ハーベイ
撮影:ジェイミー・D・ラムジー
美術:サラ・フィンレイ
編集:ジョナサン・アルバーツ
音楽:エミリー・レビネイズ=ファルーシュ
出演:アンドリュー・スコット、ポール・メスカル、ジェイミー・ベル、クレア・フォイ
①巧みなイギリスへの移し替え
ロンドンで一人で暮らす脚本家アダム(アンドリュー・スコット)は、同じマンションの住人であるハリー(ポール・メスカル)と知り合います。ある日、幼少期を過ごした郊外の家を訪れたアダムは、そこで死んだはずの父(ジェイミー・ベル)と母(クレア・フォイ)に出会います…。
山田太一の小説「異人たちとの夏」の二度目の映画化。
一度目は、大林宣彦監督の「異人たちとの夏」(1988)でした。
アダムに当たるのが風間杜夫、父が片岡鶴太郎、母が秋吉久美子。ハリーに当たるのが名取裕子。
夏の浅草の下町情緒が、主人公のノスタルジーと同期して、とてもエモーショナルな作品になっていました。
小説は未読なので、ここで言及する「原作」は大林宣彦監督版の映画になります。原作小説とは違うところがあるかもですが、ご了承願います。
ストーリーは基本的に原作に忠実で、上手くイギリスに置き換えてあります。
大林版は主人公が「テレビ業界人」で、バブルの時代の東京を背景にした物語でもあるんですよね。そんな軽いけれど疲れる「現代」と、昔の情緒を残す浅草の空気感の対比が、上手く郷愁を掻き立てていく。
本作では冬のロンドンと、郊外の住宅地の対比。
住人がいなくてゴーストタウンのようになったタワーマンションの設定は、原作通りなのだけど、上手く現代の都市風景にマッチしていますね。
イギリスの「郊外」への郷愁も、そこまで馴染みはないけれど、何となく伝わります。
いちばん大きな変更は、主人公のセクシャリティの変更。
アダムとハリーは、アダムが言うところの「ゲイ」、ハリーが言うところの「クィア」であって、マイノリティのカップルです。
これによって、二人の結びつきはよりシリアスな、強固な、かけがえのないものになっています。風間杜夫と名取裕子の結びつきが、割とバブル的な、表面的なものであったのとは対照的です。
そして、過去への郷愁に逃げ込まなくてはならないほどの主人公の「寂しさ」「孤独感」も、より明確に際立つものになっているんですね。
ただ現代風にアップデートするだけでなく、物語のテーマをより際立たせるために、この変更を用いている。
巧みだと思いました。
日本の物語をイギリスに置き換え、また現代の物語にするという上で、本作は完璧に近いアレンジをしているんじゃないかと感じます。
②自分のことを考える映画
本作を観ていると、非常に強く心を動かされるし、共感させられます。
自分のことを、考えてしまう。そんな映画です。
自分の両親のことを、やはりどうしても考えてしまいます。
(なので、この文章はどうしても、個人的な自分語りが多くなっちゃってます。そういうの苦手な方はスルー願います)
私も、両親は既に二人とも他界しています。
映画のように子供の頃に事故で失ったとかではなく、自分が大人になってから、それなりの老齢で病気で亡くなったので、別に特別な経験ではない。人生の上で誰にでも起こる、ごく普通の経験ではあるのですが。
それでもやはり、両親のいない喪失感というのは、時にふと思い出してしまうくらいには、大きなものです。
子供の頃の記憶を辿れば、必ずそこには両親の存在がある。それが、今はもうない。
永遠に失われてしまっていて、二度と戻ってくることはない。
その事実を思うとやはりどこか胸が痛いような気分になるし、切ない思いに囚われてしまう瞬間があります。
この「死んでしまった両親」「二度と戻らない自分自身の子供時代」というのは、喪失したものの象徴であって。
もちろんそれ以外にも、人生には「失ってしまったもの」「二度と取り戻せないもの」が無数にある訳です。
会わなくなった友人。
昔、好きだった誰か。
手放してしまった大事なもの。
卒業してしまった学校。
そんな様々なことに、思いを馳せてしまう。
それがつまり、ノスタルジー…ということになるのだと思いますが。
③甘さでなく、痛みである過去
ただ、本作をただの後ろ向きなノスタルジーの物語にしていないのが、新たに付け加えられた主人公の属性の側面です。
幼い頃から人と違う自分を自覚し、でもそれを両親に打ち明けられず、両親から理解されることもなかったアダム。
だから、彼のノスタルジーはただ甘く切ないだけのものじゃない。
深く心に刻まれた傷であり、痛みを伴うものになっています。
ゲイであることを、正直に話すことができなかった自分。
自分の辛さを、わかってくれなかった両親。
悪気はなかったとしても、心無い言葉で自分を傷つけた両親。
そんな、後悔と恨み。愛しい思いと、憎い思い。それが両方ともに、混じり合っている。
こんなふうに、ゲイという属性で際立つことになるのだけど、これもやはり属性に関係なく、共感に導かれるところなんですよね。
だって、誰しも後悔するものだから。過去を振り返って、ただ薔薇色で何の後悔もない…なんてことはあり得ない。
誰だって、達成できなかった思いがあり、「ああすればよかった」という後悔がある。
そして、失われてしまってからでは、それはどうにもならない。
単純に、亡くなってしまった両親のことを思えば、ああもっと親切にしておけばよかった…と思ってしまいます。
特に父親とは、もっと話をしておけばよかったと思います。無口な人だったんですよね。口下手で、余計なことは喋らない。
こっちも思春期になってしまうと、何を喋っていいかわからないから、父とじっくり話をした記憶が本当にないです。ないまま、いなくなってしまった。
それは本当、後悔ですね。後から悔やんでも、仕方がないのだけど。
④マイノリティの孤独と共感
僕には経験がないので迂闊なことは言えないのですが、やはり特別な性的傾向を持つ人が、同じ傾向を持つ人と偶然に出会えて、上手く互いに気が合う…なんてことは、なかなか難しいのだろうと思います。
圧倒的多数である異性愛だって、心の通じる相手に上手くめぐり合うことは難しいのだから。
だからこそ、そんな中での出会いはかけがえのないものになるし、それが得られない孤独の辛さも、とても大きなものになるのでしょう。
マイノリティの孤独の深さは、「正欲」でも描かれていましたね。
本作では割とハードな「同性愛のセックスシーン」が描かれるので、ちょっと「そこまで必要だろうか…」なんて思ってしまうところもあったのだけど。
それはあえて、彼らが「簡単には理解されない人たちである」ということを、強く印象づけるためであったのかなとも思います。
共感して、感情移入して映画を観ていても、それでもなお「ちょっと目を背けたく」なってしまう。そういう「無理解の壁」が、そこには確実にあるのだということ。
でもそれでいて同時に、そんな孤独のしんどさを、死別した両親や子供時代の喪失と重ねて描くことで、誰しも共感できるものにしてもいる。マイノリティだけの限定された話にしていない。
そこが、本作のバランスのいいところだと思うのです。
⑤人との関係の切実さの違い
ファミリーレストランでの、両親との別れのシーンはとてもエモーショナルで、涙を誘うものでした。
大林版では「すき焼き屋」のシーンですね。
夏祭りからクリスマスであったり、原作の「エモいポイント」の移し替えは本当に巧みです。
本作におけるもっとも大きな改変は、ラストでしょうか。
大林版では、名取裕子演じる主人公の恋人が正体を現すシーンでは、ほぼホラー映画の文法で撮られています。
主人公は「異人」と決別し、真っ当に生者としての道を歩んでいくことになります。
アダムはハリーの正体を知った上で、なおかつ彼を抱きしめ、寄り添うことを選びます。
たとえそれが、自分自身も死後の世界に身を置くことになるとしても。
二人が「星になる」ラストは、それほどまでの孤独の深さを感じさせ、他者と関係を結ぶことが本来持っているシリアスさを思い知らせてくれます。
そこは、バブルの時代との差であるかもしれない。
人と関係を築くことの、シリアスさ、切実さの違い。そんな変化も、感じさせられました。
ポール・メスカルが、ここでも繊細な男性を演じています。これも「自分のことを考えてしまう映画」ですね。
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