正欲(2023 日本)
監督/編集:岸善幸
脚本:港岳彦
原作:朝井リョウ
製作:石井紹良、神山健一郎、定井勇二、飯島三智
企画/プロデュース:中村優子
撮影:夏海光造
美術:井上心平
音楽:岩代太郎
出演:稲垣吾郎、新垣結衣、磯村勇斗、佐藤寛太、東野絢香、山田真歩、坂東希、宇野祥平、渡辺大知
①世界の見え方が変わる映画
横浜に暮らす検事の寺井啓喜(稲垣吾郎)は、不登校になった息子の教育方針をめぐり妻と衝突を繰り返しています。広島のショッピングモールで働く桐生夏月(新垣結衣)は、中学の同級生だった佐々木佳道(磯村勇斗)が地元に帰ってきたことを知ります。夏月は水にしか性欲を感じることができず、同じ傾向を持っていた佐々木以外には誰にも心を開かず生きてきました…。
朝井リョウ原作の小説の映画化。
複数の主人公による群像劇で、様々な多様性の形、「普通」と「異常」のせめぎ合いを描きます。
スゴイ話でした!
「水」にしか性欲を感じないというのは突飛な話で、劇中の人たちのように「そんなの信じられない」というのが初めの方での感覚なのですが。
じっくり丁寧に「当事者の一人称の感じ方」を描いていくことで、感情移入し、深く共感することができていく。
「確かに、そういうこともあるだろう」と徐々に思えてきて、いつしか当たり前のように感じていく。
冒頭ではまったく共感できなかった「明日生きていたいと思わない」ほどの孤独が、よくわかるものになっていく。
最後の方では、劇中でそれを否定し、「あり得ない」と切り捨てる人たちが憎たらしくも思えてくるのだけど。
でもその感覚は、まさしく映画を観始めた最初の頃の自分自身の感覚なんですよね。
だから確かに、世界の見え方が変わる。コピー通り、「観る前の自分には戻れない」映画だと思います。
②「ノーマル向けの世界」での生きづらさを体感
本作は寓話でもあって、「水にしか性欲を感じない」というのは、「ノーマルとは違うすべての性的指向」のメタファーですね。
異性愛をノーマルとした時に、同性愛や無性愛が多様性の範疇になります。
ただ、それらは少なくとも対象として考えられるのは人間であって、人間に対して一切の性欲を感じず、無機物である水にのみ性欲を感じるというのは、その中でも相当に特殊なケースですね。
あえてもっとも極端なケースを想定することで、そこから生じる問題を見えやすくしている…というのが、本作の基本的な狙いだろうと思います。
我々が自分と違う指向性の人を見た時に、その人自身の感じ方を本当には想像できていない。
想像して、共感しているつもりでも、どうしてもどこか「軽く」考えてしまっている…ということが、往々にしてあるのだと思います。
「そこまで大騒ぎするほどのことか?(ちょっと我慢すればいいのでは)」というふうに思ってしまっている。
「ちょっと努力すれば、自分を変えられるんじゃないの?」とかね。生まれつきの、自分ではどうにもならないことなのに。
(異性愛である人が、無理やり自分を同性愛に変えることを考えてみれば、このことの理不尽さはわかるはずなのだけど。人のことだと、軽く考えちゃうんですよね)
世の中は「ノーマルな人」に合わせてカスタマイズされているので、そうでない人にとってはいろんなところで細々と生きづらい。
でもそれは、「ノーマルな人」には感じ取れないんですよね。
日頃からずっと我慢して我慢して、耐えきれなくなって「配慮を求めた」時には、相手にとってはあたかも「行き過ぎた配慮を求められている」ように受け取られてしまう。
夏月にとっては出産の話をしてくる先輩も、「彼氏いないの?」とか聞かれることも、友人の結婚式にメッセージを送ることも、町で親子連れを見かけることも、テレビで「はじめてのおつかい」を見ることも、すべてがストレス要因としてのしかかってくる。
その一つ一つは「小さなこと」かもしれないけれど、でもそれが「物心ついて、自分と人との違いを自覚してから、今までずっと」続いているんですよね。毎日、当たり前に身の回りにあるものとして。
やめてくれとは言えない。だって、「水にしか欲情しない」なんて人に説明できないから。
(信じがたい話というのもあるけど、そもそも自分の性欲について他人に説明するなんてこと自体が、普通はしないし抵抗感があり過ぎることですよね)
だから夏月はずーっと死んだ目をして、薄い笑いと合わせた態度で人生を生き延びてきた。他人からは「心を開かない嫌な奴」と思われつつ。
それでも遂に耐えきれず、不快感を表明すると、先輩は逆ギレするんですよね。あたかも不当な非難を浴びせられたように感じる。
なにこの先輩!と観てると思うのだけど、でももし自分がこの先輩の立場で、日頃から「気を使って話しかけてる」相手にこの態度を取られたら、確かにムカつくだろう…というのもわかっちゃう。
かと言って、説明されてれば受け入れられるか…といえば、それもまた微妙な話であって。
「水」なので極端な話にはなっているのだけど、これが実は「ノーマルからはみ出した多様性を属性として持つ人」が日常的に生きている世界であるということ。
そのことを、理屈ではなく肌感覚として実感させられていきます。
③そんな世界での関係性のかけがえのなさ
辛いということ自体が、誰にもわかってもらえない辛さ。親しい友人にも、親にもわかってもらえない。
それほどの孤独だからこそ、わかり合える人と出会えたとしたら、それは奇跡のようなかけがえのないものになる。
絶対に手放したくない、それなしの生活にはもう絶対に戻れない。
この特殊な性的指向を持つ男女がたまたま同じクラスにいて、再び巡り会うことができるというのは、実際問題としては無理のある話だとは思います。そこにリアリティはない。
だからやはり、そこは寓話なんでしょうね。ここまで「孤独性」が強調されているからこそ、互いの存在の重要性がひしひしと伝わる。
「宇宙から留学しているみたいに思っていた」という気分は、人間として当たり前とされる営みから除外されていれば当然でしょう。
「生殖」からの除外。人間というか、生物そのものからも異質な存在になってしまったような。
そしてそれは、「水」じゃなくても、異性愛以外の性的指向であれば同じですね。
だからこそ夏月と佳道の結びつきの貴重さ、当人たちにとってのかけがえのなさがわかる。
そして、それが無理解と決めつけによって引き裂かれようとすることの悲劇性も。
この辺りは、今日の同性婚の問題とか、制度や権利の問題にも通じるところになってきますね。
本作のある種のクライマックスシーンと言えるのが、夏月と佳道が男女のセックスを擬似的にやってみるシーン。
お互いに、まったく相手への性的感情がない状態で、セックスっぽい動きを「やってみる」。
ものすごくエロチックなシーンなのだけど、抱き合おうが腰を振ろうが、登場人物の感情からはエロいものがきれいさっぱり排除されているという、驚くべきシーンなのですが。
こうして客観的に見てみると、男女の「普通の」営みというものも、いかに滑稽で、いかにヘンテコなものであるかが見えてくる。
見た目のアホらしさという点では、「普通」だって大して変わらない。
だから結局のところ、すべては見方の問題にすぎない。普通のセックスが正常で、それ以外が異常なんてことは別になくて、ただそれをやる人が多いか少ないかだけの問題でしかないのです。
④それぞれの世界の在り方、変わることと変わらないこと
夏月と佳道のストーリーと並行して、いくつかの別の主人公の物語が描かれていきます。
その一つが、男性恐怖症の大学生・神戸八重子(東野絢香)とダンスサークルに所属する人嫌いの青年・諸橋大也(佐藤寛太)の物語。
八重子は「何らかのトラウマ的な出来事」のせいで、男性が近くにいるだけで過呼吸になるほどの恐怖症を抱えています。
大也の性的指向ははっきりとは示されないのですが、本人は自分の性的指向を強く恥じていて、激しい自己嫌悪に陥っています。
八重子はなぜか大也とだけは恐怖症にならずに接することができる。そこから、自分を変えようとし、大也にも変わってほしいと求めます。
八重子と大也に共通するのは、自分を嫌っていること。それは自分がノーマルではないからで、そこは夏月や佳道も同じですね。
ただ、八重子は出来事のトラウマによる恐怖症だから、後天的なものですね。それに対して大也の性的指向はおそらく先天的。
だから前者は変わろうとするし、後者は変わることを拒む…というか、変わるなんてそもそも考えられない。
「普通でない状態」を、持って生まれた個性と取るか、あるいは克服すべき課題と取るか。そこも、難しい問題ですね。
八重子が変わろうとするのは、彼女にとって望ましいことだと思えるのだけど。
でも、大也は自分が変わるということを考えることもできないし、それは夏月や佳道も同じでしょう。
「普通」の側にいる人は、努力すれば変われるんじゃないの?と軽く考えがちだけど。
でも、それこそ我々が「明日から異性を愛することをやめて、水だけを愛するように変われ。明日以降はそうやって生きていけ」と言われたって、そんなの無理ですよね。
もう一つのストーリーは、検事の寺井(稲垣吾郎)の物語。
小学生の息子が不登校になって、不登校小学生YouTuberに憧れて、母親も応援してYouTubeを始めるけれど、寺井だけはいつまでも不満な態度を隠そうとしない。
彼にとっては「皆と変わらない普通であること」だけが望ましいことで、そこから外れた生き方は落伍でしかない。
ここもね。両方の気持ちがわかるんですよね。
息子が生き生きとするのであれば、YouTuberであっても応援したいし、そんな在り方も認めてあげるべきだという母親の思いもわかるし。
でも、そんな「自由」を無尽蔵に認めていたら甘やかしにしかならないし、親なら学校に行けと言うべきじゃないのかという父親の気持ちもわかる。
自由と規律の軋轢…ということになるかと思うのですが。
無制限の自由なんてものはない。無制限の自由なんてものがあったとしても、それは人をより良いものにはしない。
…という考え方になるのは、日頃から規律から外れることで人の道も踏み外した犯罪者たちを見ている検事の寺井であれば、当然のことだと思います。
そうでなくても、小学生が学校に行くことを拒否して、代わりにYouTuberという居場所を与えられることは本当に正しいのか?というのは気になりますね。
まだ未熟な子供なのだから、叱ったり、ある程度いやなことを強制することも、大人の責任ではないのか?
…と言いつつ、虐待になってもいけないし。結局のところすべては程度問題で、どっちかに白黒つくことではないとは思うのですが。
「ノーマルでないことは、努力で矯正される。ノーマルでないままでいるということは、努力が足りないのだ」というのが、寺井の考え方なんですよね。
もしかしたら寺井自身、自分も努力しているのだという自負もあるのかもしれない。自分は努力してノーマルでい続けているのに、どうして他の奴らはその努力をしようともせずに、甘えて認めてもらおうとするのだ…という憤り。
それはそれで、共感できるところもあるのだけれど。その考えを変えられないことで寺井は家族を失い、孤独になっていくことになります。
⑤他者との関係性のない性的指向は…?
世の中は「普通」に合わせて設計されているから、普通でない人は、多かれ少なかれ世の中との軋轢を感じることになっていく。
「水」に欲情するからと言って、別に何の罪にもならない。罰せられることはないはずだけど。
でも、公園の水道を出しっぱなしにするのは、厳密に言えば軽犯罪? 少なくとも迷惑行為とは言えると思うし。
公園の噴水を見て人知れず興奮しているだけならいいけど、もしそこで我慢できずに自慰を始めたりしたら、やっぱり逮捕されちゃいますね。
(性的指向と言いながら、そこに踏み込んでいないのは本作の上品さなのだけど、やや都合の良いところであるとも言えます)
そして、同じ性的指向でも、子供に対しての性欲に関しては、絶対的に許されないものとして排斥されることになります。
実際に子供に性行為を強制するようなことが犯罪であるのはもちろんとして、現代ではそれを目的とした表現だけでも規制されることになりますね。劇中で、「噴水で遊ぶ子供の動画」が猥褻目的として槍玉に挙げられていたように。
僕自身も子供の親なのでね。子供に性犯罪をやらかすような奴は最低だ! 絶対に許すな!と正直思うのだけど。
でも、もしそれが生まれつきの性的指向であるなら…「水に欲情する」ことが多様性として認められるなら、「子供に欲情する」ことも認められるべきなんじゃないか。
もちろん実際に犯罪行為を行うことが許されないのは当たり前のこととして、でも例えば「噴水で子供が遊ぶ動画」を「欲情目的」でハードディスクに溜め込むことは、どう受け取ったらいいのだろう?
…ってなっていかないですか? どうなんだろう。
なんか観ていてそういうところまで考えが及んで、頭がクラクラしてきました。
映画の全体を通して「水に欲情する人」に感情移入し、深く共感してきただけに、最後に放り込まれるこの「劇薬」はかなり刺激的です。
本作における「水に欲情する」そしてそれと同時に「人間には欲情しない」という属性は、どこまでも他人に迷惑をかけないと言う点で、極めて特殊なんですよね。その点で、ちょっとズルい設定だとも思います。
性欲というのは本来は他者との関係性あっての存在で、そして他者と関係するというのは多かれ少なかれ、他者に迷惑をかけることではあります。
他者に迷惑をかける可能性をあらかじめ排除した上での性的指向というものが、このテーマを語る上でのメタファーとしてふさわしかったのか、少しモヤっとするものが残ったりもしました。
…と、ちょっとモヤモヤしたりするのも、それだけ本作に深く考えさせられたからであることは確かです。
答えはない。観るものに深く考えることを促す、思考実験のような映画です。一緒にモヤモヤ考えましょう!
心のあるようなないような…という有り様がいつも絶妙な稲垣吾郎。
そして、磯村勇斗の存在感は近年いつも素晴らしいですね。
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