Aftersun(2022 アメリカ)

監督/脚本:シャーロット・ウェルズ

製作:アデル・ロマンスキー、エイミー・ジャクソン、バリー・ジェンキンス、マーク・セリアク

製作総指揮:エバ・イェーツ、リジー・フランク、キーラン・ハニガン、ティム・ヘディントン、リア・ブーマン

撮影:グレゴリー・オーク

美術:ビラー・トゥラン

編集:ブレア・マクレンドン

音楽:オリバー・コーツ

出演:ポール・メスカル、フランキー・コリオ、セリア・ローソン=ホール

①自分のことを考えてしまう映画

観ていて、自分のことを考えてしまう映画というのがあります。

…と言うと、まるで気が散っているみたいで、悪く言ってるようだけど。

本当に退屈で別のことを考えてしまう映画もあるけれど、そういうのとはまた別で。

映画は面白くて、引き込まれて、でもなぜか不思議と映画に没頭しながら、自分のことを考えてしまう。

 

本作は強烈に、記憶を刺激される映画でした。

自分の現在のことや過去のこと。妻のことや子供たちのこと、家族のこと。

過去に行った旅行のことや、そこでの出来事、思ったこと。

そして、今はもういない父や母のことなども…。

 

なんかこれまでにあまりない、鮮烈な体験でした。

映画って、そういう機能があるものだと思うのだけど。劇中の物語をきっかけにして、自分の内部に思いを向かわせるという…。

そんな中でも、特に強烈な記憶喚起装置になっていました。

 

②今はいない人のことがわからない映画

本作は「今はいない人のことがわからない」映画。…だと思います。

今はいない人のことは、わかりたくてもわからない。当たり前だけど。今はいないわけだから。

でも、得てしてそれは気づかない。

目の前にいる相手のことは、「わかっている」と思いがち。

いなくなって初めて、「自分はあの人のことを、全然わかっていなかったかも」と思いつく。

でも、その時にはもう遅い……。

 

本作の中では、具体的なことは一切説明されません。

ただ、31歳のカラム11歳のソフィの父子がトルコ旅行で遊ぶさまが、二人が撮ったハンディカムの映像を交えながら、淡々と描かれるだけ。

それを、当時の父と同じ年頃、大人になったソフィが、思い出していることが、断片的な心象風景を通して示されます。

その夏から後で、二人がどうなったかは描かれない。

でも、そこから匂い立ってくるのは「カラムの不在」です。

 

カラムがどうなったかは描かれていないのですが、おそらく彼は自死したのでしょう。

旅行中の父の細かな言動から、彼が何か深い憂鬱を抱え、暗く不穏な感情に取り憑かれていることが伝わります。

でも、当時のソフィはそれに気づかない。

それはソフィがまだ幼いから…というのもあるけど、でもそうでなくても、人はそういうものなのかもしれません。後になってから「そういえば…」と気づく。

そして、後悔する。深い傷になって、「あの時気づいていれば、何かできたかも…」と思い悩んでしまう。

 

父の死に傷つき、目を背けて来ただろうソフィが、父と同じ年齢になって、あらためて父をわかりたいと思い、過去の記憶に向き合う。

それがこの「アフターサン」という映画であるわけですが、そこから浮かび上がってくるのは、やはり「わからなさ」なんですよね。

他人の心の中は、わからない。自分じゃない以上、それは当たり前のことなんだけど。

 

それでも、年齢を経て、見えないところを想像できる範囲も、増えている。

あの頃は理解できなかった父の絶望を、想像できる自分がいる。…それが幸か不幸か、わからないのですが。

③ホームビデオに残される後悔

本作を通して浮かび上がってくるのは、やはりそういう「気づかなさ」…後になって気づくけれどその時にはどうしても気づかない、取りこぼしてしまうことたちの存在です。

過去の思い出は美しい。キラキラ光って、あまりにも眩しく見える。

でもその中に、あの時目の前にあったのに、みすみす取りこぼしてしまったものごとが混じっている。

だから、思い出に浸るのは慰めになるけれど同時に、心が痛いことでもある。

 

そしてこの感情は、普遍的なんですよね。「父の自死」という特殊な出来事に限定される感情ではなくて。

人は誰しも、後で後悔する生き物だから。

キラキラした思い出の中に、「あの時ああすればよかった」「あの時あんなことをしなければよかった」という思いが、必ず混じっている。誰でも。

だから、ものすごく身近に感じるし、こちらの記憶を刺激してくるのです。

 

ホームビデオの映像が、上手く活かされています。

ある世代から、幼少期からの高画質な動画が残されていることが、普通になっていますね。僕の子供の頃はそういうのなくて、写真のアルバムだけなんだけど。

詳細な動画が残っているのが、果たしていいのか悪いのか。それは両面ありそうですが。

写真と違って動画には、その時の感情の揺れとか、気分のようなものまでも、映ることがある。

きれいな思い出だけでなく過去への後悔も、より鮮明な形で残されることになるのかもしれません。

 

本作では全体がそもそも明確なストーリーのないホームビデオのような構成で、そこに更に実際にカラムかソフィが撮影した映像が加わっているわけですが。

面白いのは、現実そのままであるのは、画質の粗い手ブレも激しいビデオ映像の方なんですよね。(もちろん、映画の中の現実、という意味ですが)

それ以外のシーンは、現在のソフィが辿っている記憶の映像であるはずなので。彼女の心のフィルターを通っていて、現実そのままではない

だから、ソフィのいない、カラムだけのシーンでは、カラムの強い苦しみが思わぬ直接的な形で描写されていたりする。

また、夜の海へ消えていく…という実際はなかったシーンがあるのも、父はあの夜既に死んでいておかしくなかった…というソフィの気づきを反映した映像になっていますね。

 

④心情が投影されるプレイリスト

現在からおよそ20年前が描写されているので、当時のヒット曲が出てきます。「マカレナ」とか。そのプレイリストも印象的でした。

ブラーの「テンダー」(1999)には、苦悩する父親を優しく包み込んであげたい…という、現在のソフィが放っている思いのような感覚があって。

上に書いたように、本作のシーンはすべて現在のソフィの心が投射した映像なので、音楽にもソフィの心情が重ねられていくんですね。

 

 R.E.M.の「ルージング・マイ・レリジョン」(1991)は、ソフィがディナーのカラオケパーティーで歌う、見てられない痛々しいシーンの楽曲。

なんでその歌選ぶかなあ…と思うけど。盛り上がりがなくて、難しい曲なんですよね。

でもこの歌は、彼女と父にとって(母にとっても?)思い出の曲であるようです。

世界的な大ヒット曲だったので、まだ仲良かった頃の両親と、幼かったソフィにとって思い出の曲になることはあり得ることでしょう。

でも、絶望を歌った歌詞が、「後から思えば」あまりに父にフィットし過ぎていると思えたことでしょうね。

 

デヴィッド・ボウイとクイーンが共演した「アンダー・プレッシャー」(1981)はまさにそのものズバリ、人生を押しつぶす「プレッシャー」についての歌。

プレッシャーが人を押しつぶし、家族をバラバラにするけれど、愛があればきっと生き抜ける…と歌い上げるボウイとフレディの魂の叫び。

そして、それが届いていたら…という、現在のソフィの痛々しい思い。

⑤超個人的な話から普遍的なテーマへ

僕は自分自身父親で、娘がいて、ずっと前ですが旅行でトルコに行ったことがあるので、特に記憶を刺激されるところが多かったかもしれません。

でも、離婚はしてないし、年齢も違うし、トルコはバックパッカーだったのであんなリゾートホテルに縁はなかったし…で、違うところの方が多い。

やはり、誰にとっても記憶を刺激する普遍性を備えた映画なんじゃないかと思います。

 

日頃記憶の中に沈めていて、気にすることもないのだけれど、でもやっぱり自分の中できれいに収まっていなくて、いつまでもあれこれと考えてしまう、そんな記憶を呼び起こされる映画です。

僕は家族のことを考え、自分のことを考え……最終的にはやっぱり、亡くなった父に思いをはせることになりました。

考えてみれば、父のことを何も知らないなあ。そもそも寡黙な人だったし、面と向かって話すのを照れる人だった…のは自分と一緒だけど、だからろくに向き合って話した記憶がない。

あるいは、話したいことがあったのかもしれないけど。今となっては、知る由もない。

 

…と思わず自分語りをしちゃうような、そんな危険な映画でもあります。

 

それほどに個人的な琴線に触れるほど普遍性を獲得しているわけで、ホームビデオに近いような超個人的な話が、圧倒的な普遍性を持つという。

ホームビデオという媒体の、「過去になってしまう美しい瞬間を、永遠にとどめることができる」という特性は、実は非常に映画らしい。映画そのものの属性であると言えます。

ホームビデオが持つ「超個人的な映画」としての特性を、そのパーソナルな肌触りはそのままに、普遍的な域に広げている。

 

映画ってこんなこともできる。あらためて、凄いなあ…と思います。傑作です。

 

 

 

 

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