明け方の若者たち(2021 日本)
監督:松本花奈
脚本:小寺和久
原作:カツセマサヒコ
撮影:月永雄太
音楽:森優太
主題歌:マカロニえんぴつ
出演:北村匠海、黒島結菜、井上祐貴、楽駆、菅原健、高橋春織、佐津川愛美、山中崇、高橋ひとみ、濱田マリ
①いくつかの映画を連想しつつ
明大前の居酒屋で行われた飲み会で、「僕」(北村匠海)は「彼女」(黒島結菜)と出会い、付き合い始めます。一方で「僕」は大学を卒業して印刷会社の総務部で働き始め、理想と違う現実に直面していきます。2人の関係は順調に見えましたが、実は2人にはある秘密がありました…。
学生から社会人へ、理想と現実の格差に直面する若者たちの生き様を、恋愛関係を軸に描く青春映画。
明大前、下北沢、高円寺などが舞台となる、「東京」映画です。
2012年から17年くらいの期間が背景で、RADWIMPS、キリンジ、きのこ帝国などの楽曲が登場人物たちが聴いている音楽として出てきます。
「花束みたいな恋をした」や「街の上で」、それに「ボクたちはみんな大人になれなかった」のような映画を連想させる作品です。
きのこ帝国は「花恋」ではカラオケで歌っていたし、「街の上に」に出てきた劇場で芝居を観ていたし、「ボクたちは…」と同じヴィレッジヴァンガードで待ち合わせしてましたね。
登場人物の世代は「花恋」で、学生から社会人へ移っていく時期の心境を描くのも共通です。現在アラサーくらいの人にちょうど響く感じでしょうか。
映画の語り口は「ボクたちは…」が近いように感じます。「花恋」の三人称視点ではなく、より一人称に近い視点。
これは原作に由来するところでしょうが、これによって「よく言えばエモい」、「悪く言うと、やや自己憐憫が強く感じる」という印象です。
②等身大の恋愛と青春
大学の飲み会で出会い、公園で缶ハイボール飲んで好きなアーティストの話して、舞台を見たり王将でごはん食べたりしつつ、互いに様子を伺いながら、距離を縮めていく。
本当に等身大の、劇的なことは何もない、誰しもが自分のことに置き換えてむず痒くなったりできるような、恋愛初期のドキドキがストレートに描かれていきます。
一方では会社に就職して、新人研修では何だかイノベーションとか言ってクリエイティブなことやらせてくれそうなふうに見せといて、いざ配属されてみると総務部で、会議の机並べたり蛍光灯変えたり誤植のシール貼りしたりで、「こんなはずじゃなかった」と落ち込んでしまう…というのも「新入社員あるある」ですね。
同期と飲みに行って文句言いながら、いつしか仕事にも慣れていって、不満もありつつルーティンな生活に順応していく。
これも、本当にどこにでもあるような。普遍性のある日本の若者の姿が描かれていきます。
いろいろと幻滅することは多くて、ストレスも溜まるのだけれど、でも彼女と、仲のいい友人が支えてくれていて、どうにか毎日やっていくことができる。
営業に回された同期と、居酒屋で「クリエイティブ会議」するのがいいですね。ガス抜きのためのお遊びだけど、でもどこか真剣味ある若者たちの必死の抵抗でもあって。
彼女と、友達と、明け方の街で「マジックアワー」の空のもとで、徹夜明けのハイになって、笑いながら走るあの感じ。
タイトルにもなっている、明け方の若者たちの刹那な輝き。
実際に明け方の光を狙って撮影されたこのシーンは、確かにグッとくるシーンになっていたと思います。
③見え方が変わる中盤の転調
序盤からずっと、本当にオーソドックスな生活が描かれていくんですよね。
どこにでもありそうな恋愛。どこにでもありそうな就職。
共感できるけれど、映画的なケレン味には乏しい。
それが、中盤の「転調」によって大きく変わります。
「僕」と「彼女」の間にはじめからあって、ずっと伏せられていた「ある秘密」が、観客にも明らかにされる。
これによって、それまでの「当たり前の恋愛の描写」はガラッと見え方を変える。様相がくるっと反転することになります。
本稿はネタバレなしで行こうと思うので、その秘密が何なのかは書きませんが。
これはなかなか、上手いと思いました。ずっと「順調な恋愛」を見せられて来て、微笑ましいけれど、それだけではあるような…と感じていたところへ。
この事実が分かることで、2人の恋愛が最初から「いつか終わりがくる」ことが確約された、自由ではないものだったことが分かる。
あの楽しそうな描写も、アツアツのバカップルぶり(失礼!)も、一瞬ごとが大切な、かけがえのない時間だったことが分かるんですよね。
一気に、切なさがそれまでの印象を書き換えてしまう。
ここで明かされることは、倫理的に危ういことなので、登場人物の評価が変わってしまいそうではあるのですが。
でも、秘密にされていたのは観客に対してだけで、登場人物たちは最初から知っていたこととして、描かれるので。
それはあくまでもお互いに納得ずくのこととして、誰かを責めるような論調にはならない。むしろ、分かっていてもそうせざるを得なかった、切実さとして受け取ることができます。
④でも、この「隠し方」はアリ?
ただ、ちょっと思ってしまったのは…
このタイプの、「意外な真相」の明かし方。物語の中で隠されていた事実が明かされるのではなく、登場人物はその事実は既に最初から分かっていて秘密でも何でもなく、ただ観客だけが知らなかった事実が明かされるというのは、果たして作劇としてフェアなのかな…ということです。
いやだって、これって映画の中の世界では意外でもなんでもない前提ってことですからね。意外に感じてるのは観客だけで。
何かを伏せておくのも、どのタイミングで明かすかも、映画の中の世界とは関係がない。作者の思い通り、好きなようにできるわけで。
このタイミングで観客がそれを知らされるというのも、特に物語上の必然性はないわけです。
必然性は映画の外側。ここで知らせたら、映画を鑑賞する上で効果的だ…という必然性以外にはないんですよね。
例えば真相を明かす過去パートが、映画が始まったより更に過去に遡った時制であれば、まだ必然性はあると思います。
本作でいうなら、出会いでなく、主人公の2人が既に付き合ってる状態で物語を初めておいて。
後で挿入される過去パートで、初めて出会いのシークエンスが描かれる。そこで、意外な真相が分かる…というパターンです。
観客に対して真相が伏せられたのは、単に「物語がいつ始まったか」に起因しているのだ…という「隠し方」ですね。このパターンで作られてる物語も、たくさんあると思います。
本作では、2人が初めて出会った夜の公園のシーンで既に真相は話されているのだけど、1回目の描写ではその部分だけが省かれています。
なぜ省いたのか…というのが、映画では説明つかないんですよね。観客に対して効果的だから…というだけのことになっちゃうので。
たぶん原作小説では、この不自然は生じなかった。なぜって、原作小説は一人称だから。(…ですよね?未読ですが)
小説に書かれているすべてのことが、「語り手が語ろうと思ったこと」に限定されて、「語り手が語りたくなかったこと」は省かれている。一人称の場合は、それで自然なんですよね。
真相は「僕」にとって何よりも触れたくない、忘れたいことだったから。出会いを語る場面では、触れなかった。そういう解釈ができる。
しかし映画では、その構造上どうしても、一人称か三人称かの区別はつかなくなるわけで。
そこを上手いこと処理するためには、映画は例えば「主人公が友人に彼女とのあれこれを話している」シーンから始めて、物語の全体を主人公の回想にすれば良かったんじゃないか…と思います。
最初の出会いのところを語るときには、嫌なことは言ってなくて、後で別れについて語る段階になって、どうしても避けて通れなくなるから「いや実はね…」とあらためて語り直す。そういう主観的な語りの構造になってれば、本作の構成は自然になったはずです。
そこが、本作の原作を映画にするときに必要なアレンジだったんじゃないかな。
⑤もう一段、前向きであってほしい気も
最初に「花束みたいな恋をした」「ボクたちはみんな大人になれなかった」と似ているということを書いたけれど、前者よりも後者に似ていると感じたのは、特にラストの処理の仕方が大きいんじゃないかと思います。
本作でも、「ボクたちは…」でも、ラストは「ふっ切れてない」んですよね。
主人公が、彼女への恋愛感情をまったく消化できていなくて、前を向けていない。視線が過去へ向いている。
ろくでもない今に比べて、あの頃は良かったなあ…という後ろ向きのノスタルジーが、非常に強いものになっていると思います。
本作でも、彼女と別れて、アラサーの年齢になって、友人と飲んで、「あの頃は明け方まで飲んだりしてたけど、今はそんなことできないよな」などと言い合う。
「今考えてみると、あの頃が人生のマジックアワーだったよな…」とか。
いや、分かるけどね。気持ちはわかるけど。
30歳くらいで、そんなこと言うなよ! ノスタルジー感じてるんじゃねえよ!と思っちゃいますね。
「花束みたいな恋をした」では、ラストシーン、主人公の男も女も、互いに新しい恋人を作っていて、新しい生活をスタートしている。
2人とも前を向いている。それであってこそ、あの恋愛にも「甲斐があった」ことになるわけだからね。
まあ、ドライであるように感じさせずに、そういう描写をするのはとても難しいことで、だからこそ「花恋」は特別なのかもしれないけど。
俳優たちはみんな良かったと思います。北村匠海、友人役の井上祐貴もとても好感の持てる佇まいでした。
黒島結菜さん、とても魅力的でした。朝ドラやるんですよね…。個人的にはドラマの「アオイホノオ」の印象が強い…。
ただ! これは俳優じゃなく演出への文句ですが、彼女がそこまでがっちりガウンを着込んで、最後まではだけもしない…という条件なのであれば、あんなに長々とベッドシーンをやらない方が良かったと強く思います。
ものっすごく…不自然でしたよ。別に「脱げば良かった」とも思わないし、軽く流す描写にとどめる方がずっと自然に映画に馴染んだように思います。