ボクたちはみんな大人になれなかった(2021 日本)

監督:森義仁

脚本:高田亮

原作:燃え殻

製作:山本晃久

製作総指揮:坂本和隆

撮影:吉田明義

編集:岩間徳裕

音楽:tomisiro

出演:森山未來、伊藤沙莉、東出昌大、SUMIRE、篠原篤、平岳大、片山萌美、高嶋政伸、ラサール石井、大島優子、萩原聖人

①あまりにドンピシャすぎて…

何というか…小っ恥ずかしかったです!

小沢健二に、尾崎豊に、ビューティフル・ドリーマー

なんか自分を見せられてるようでね。好きなものが一緒すぎて!

 

90年代に青春を過ごして、ある方向に偏った趣味嗜好を描いた映画。個人的に、その方向がドンピシャではあるのです。

ただ、あまりにもドンピシャ過ぎると、少々気恥ずかしくなるんですよね。

「ビューティフル・ドリーマー何回観た?」とか言い出した時は、赤面して悶絶しそうになりました。

 

小沢健二。それもファースト。天使たちのシーン

MAYA MAXXとか。ソニック・ユースの「ウォッシング・マシーン」のTシャツとか。ポール・スミスのストライプとか。

中島らもとか。「永遠も半ばを過ぎて」とか。あとオーケンとか。

 

めっちゃ覚えがある。でも、この時期本当に流行ってたものは入ってない

非常に偏った、ある特定の興味を反映した、なおかつ非常に男子っぽい…

 

なかなかに嬉し恥ずかしい時間を過ごさせられる映画だったのでした。

 

②現在から過去へ遡る映画

映画は2020年から始まります。そして、そこから少しずつ過去へと遡っていく。

数年ずつ小刻みに遡って、最終的に1995年まで遡ることになります。

 

この構成、着想の元は韓国映画「ペパーミント・キャンディー」だそうですが、僕は未見だったので。連想したのは「メメント」ですね。

過去へ向けて物語を語っていくから、結果が先に分かっている状態で、その前の出来事を見ていくことになります。

 

「メメント」のように、展開が過去に向かっていくことに物語上の意味があるわけではない。

でも、この構成は新鮮で、なかなか面白かったです。

仕事が上手くいったりいかなかったり、彼女と別れたり出会ったり、そういうごく普通の生活を追っていくだけなんだけど。

あらかじめ結果が分かっていることで、ある種の切なさや物哀しさが感じられてくる。

ミステリである「メメント」ともまた違う、ちょっと他にない独特の感覚になっています。

 

彼女と上手くいかなくて別れてしまって、後悔している様子が描かれた後で。

その彼女とまだダメになっていないけれど、きちんと向き合っていない様子が描かれる。

これはキツいですね。人生における現在は、過去の自分の選択の結果であって、まさしく自業自得なんだけど。

 

そういう過去の振り返り方というのは、我々が普段何かと過去を反芻してしまって、後悔を噛み締める。そんな心の動きに近い気がします。

③後悔とキラキラの過去

過去はいろいろと悔やまれるものだけど、同時にキラキラと輝いて見えるものでもあります。

過去へ遡っていくということは、若返っていくことでもあるわけで。

 

本作は「いろいろと諦めた中年」から「希望に満ちた若者」へと巻き戻していく構成なので、映画の流れは後半へ行くほど明るく、清々しいものになっていきます。

普通なら、逆なんですけどね。だんだん若くなっていく、この感覚は新鮮です。

 

ここはやはり、森山未來という人の凄みを感じますね。最初、これどうやって遡るんだ…と思いましたけど。

普通に、40代から20代までを1人で演じてましたね。何の違和感もない!

役作りで痩せたり太ったり…はあるけど、若返るというのは凄い。40代はちゃんと40代に見えるし、20代は20代に見えます。外見だけじゃなく、中身も含めて。

 

40代になって、なんかいろいろと業界に染まって、のらりくらりと生きてるなあ…という自覚があるときに。

なんかふと、過去に思いを馳せてしまって。

様々な出会いと別れ、しょうもない失敗の繰り返しのその先に、なんかやたらとキラキラ輝いて見える1995年があって、小沢健二が流れていて、伊藤沙莉みたいな女の子がいる。

 

暗いトンネルの向こうにキラキラした青春があって、そして現在の自分はその頃の経験が形作っている…ということに気づく。

キラキラした青春…その頃は、別にキラキラとも思ってないんですけどね。何かとカッコ悪くて、恥ずかしいことの多い日々。

でもやっぱり、今の自分はあの頃の自分の続きなんだよなあ…なんてことを思う。

 

そんなふうに、観てるといつしか自分のことを考えてしまう。そういう映画ですね。

④あくまでも個人的なサブカルネタの範囲

サブカルネタの固有名詞を羅列するのは「花束みたいな恋をした」を連想したりもするけれど。

でもあらためて、「花恋」はしっかりしたリサーチの元に、普遍的になるようにバランスが取られていたんだろうなあ…なんてことを思いました。

本作のサブカルネタは、あくまでも個人的なんですよね。引き出しは少ない

原作未読なので、映画のネタがどこまで1人のものなのか、そこは分からないのですが。

 

小沢健二と尾崎豊が同じ映画の中で仲良く同居してるって、90年代の感覚だと考えられないことだよなあ…と思ったりしました。

まさに「犬キャラ」が出た時の小山田圭吾の評が「なんだか尾崎豊みたい」で、それがもう説明不要で最大の悪口だったわけだから。

 

かおりは絶対に尾崎豊とかバカにしてたよね。そして、佐藤は実は高校生くらいの時には尾崎豊好きで、そのことはかおりに対してはひた隠しにしてたんじゃないかな。

かおりに同調して、オザキとかダサいよね…とか言ってたと思う。絶対。

 

そして、2000年にカラオケで尾崎豊を歌う女の子に出会って、グッときてしまう。

スー(SUMIRE)はあれ、オシャレな業界の女の子というよりは、ヤンキーですね。安いダンスホールで踊ってたタイプ。

 

映画では前半、つまり佐藤の人生においては後半、小沢健二は一切流れない。だから、かおりパートになった途端に流れまくってビックリするんだけど。

かおりにフラれたことで傷ついた佐藤は、オザケン聴くのもやめちゃったんでしょうね。

そんなところへ、いかにも尾崎豊の歌に出てきそうな幸薄そうなヤンキー入った女の子の歌う「I LOVE YOU」聴いて、ついつい入れ込んじゃう。ついつい自分の地が出ちゃう。

 

それからまた時が過ぎて、酔っ払ってゴミにダイブするかつての仲間を見てもアハハと軽く笑える余裕があって、でもタクシーのラジオで復帰した小沢健二の「彗星」聴くと気分が過去にトリップして、思わずあの頃の自分に簡単に同期してしまう。

そして、ああ俺って大人になれてないなあ…なんてことを思う。

 

と、大幅に自分自身のことを混ぜてしまいましたが。

⑤大人になるってこと

若い頃は誰しも、特別であることに憧れるもので。

でもまだ何者でもない若いうちは特別さなんて何もないから、人とは違う自分を演出することで特別であろうとするんですよね。

メインストリームじゃなくサブカル系の音楽聴いたり、映画観たり、本を読んだり。

「ビューティフル・ドリーマー」何十回観たとか言ってみたり。

オザケンでも、「LIFE」じゃなくファーストにこだわるのがそこのところでしょうか。

 

手っ取り早く特別をアピールするために、何かを排除するというのもありがちです。

わざわざ、それは聴かない、それは着ない、なんてことを主張する。尾崎豊とか、ポール・スミスとか。

そしてとりあえず、小説を書く

 

…という有り様が結局のところは「あるある」であって、この世にゴマンと存在している。

それこそまったく特別ではないと突きつけられるのが、本作の刺さるところですね。なかなか痛い…です。

 

いろんな人から影響を受けて、好きなものや価値観は変わっていく。元から好きだったものとも入り混じって、その人なりの価値観を形作っていく。

変なこだわりを捨てて、普通であることを受け入れられるのが、大人になるということなのかもしれない。

かおりは結婚してお母さんになって、古着屋ではなくユニクロで服を買ってることだろう。

佐藤は「大人になれなかった」と自分で思っているのだとしたら、まだ普通を受け入れられていないのかな。

受け入れないことに、むしろ誇らしげな気もするけれど。

それにしても、みんなって誰だろう?

 

あ。俺かもな。大人になったつもりだけど、なんかやっぱり大人になれてないのかな。

いろいろと、諦めきってはいないもんな…。

…と、自分ごとにしてしまう映画なんですねやっぱり。なんかまた小っ恥ずかしくなりそうなので、この辺でやめます!

 

 

 

 

 

 

2019年のオザケンについて書きたくて無理やり書いた文章。こういうのがな〜。