伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇(1982 日本)

総監督:富野喜幸

監督:滝沢敏文

原作:矢立肇、富野喜幸

脚本:山浦弘靖、富田祐弘、渡辺由自、松崎健一

キャラクターデザイン:湖川友謙

アニメーションディレクター:湖川友謙

メカニカルデザイン:樋口雄一

音楽:すぎやまこういち

出演:塩屋翼、田中秀幸、白石冬美、井上瑤、松田たつや、山田栄子、横沢啓子、佐々木秀樹、塩沢兼人、鵜飼るみ子、林一夫、戸田恵子、麻上洋子、石森達幸

①心に刻まれる衝撃の作品

イデオン劇場版「接触篇/発動篇」が2本同時上映で公開されたのは1982年7月

「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編」の公開が1982年3月だから、ブームの盛り上がりの中で間をおかずに公開されたことになります。

 

テレビ版39話の前半部分の総集編である「接触篇」

間をズバッ!とすっ飛ばして、テレビ版最終回から始まり新作のクライマックスに突入していく「発動篇」

2本合わせて3時間越え。ガンダムの興奮のまま観に行って、その壮大かつ強引な作劇にびっくりした記憶があります。

 

全員死亡とか、子供の首も平気で吹っ飛ぶ容赦なさとか、みんなが全裸で宇宙を駆ける宗教的エンドとか。

ウブな中学生の心をワシづかみにするパワーのある映画ではありましたね。そりゃ影響を受けまくる。

 

ガンダムの時はまだそんなに感じなかった富野監督の「クセの強さ」が既に存分に発揮されていて、その毒気にドキドキさせられてしまう映画でもあります。

「じゃあ私たちは、なぜ生きてきたの?」とか、「星になってしまえ!」とか、「こんな甲斐のない生き方なんぞ」とか、「死ぬかもしれないのに、なんで食ってんだろ…」とか、「俺はまだ、何もやっちゃいないんだぞ」とか。刺さるセリフの目白押し。

カーシャの叫びとか、ハルルの声が裏返るところとか、あまりのことに演技も臨界突破してますね。

ロゴ・ダウとかバイラル・ジンとかガンド・ロワとかフォルモッサ・シェリルとかキッチ・キッチンとか、独特すぎる固有名詞の数々も記憶に刻まれます。

 

シェリルとかアクが強いし、コスモもカーシャも何かとツンケンしてるし、カララは身勝手だし、ハルルは怖いし、我が強いキャラばっかりで観ててしんどいのだけれど、決して嘘っぽくはない。リアルな人間味のある登場人物達になっています。

ロッタとかリンとかラポーとかファードとか、脇役も一人一人魅力的に描かれていて、だからこそ発動篇終盤の大虐殺はなかなか心に来るものになっています。

 

それだけに、急ぎ足の2部構成は残念ではあります。映画版だけ観て、すべての登場人物を把握できるとは到底思えないですね。

ガンダムのように3部構成なら、キッチ・キッチンやギジェのストーリーもじっくり描けて、より感情移入は増したと思いますが。

「Zガンダム」を映画化したりするのなら、「イデオン」を3部構成完全版にして再公開…なんてのも、今の時代に意味あることじゃないかと思ったりします。富野由悠季監督、どうでしょう…?

 

②エヴァに与えた影響

「シン・エヴァンゲリオン」にハマって、解釈していると、いろんなものがエヴァと関連しているように見えちゃうのですが。

「イデオン」がエヴァと関連しているのは、確かだと思います。少なくともテレビ版の「新世紀エヴァンゲリオン」旧劇場版「AIR/まごころを、君に」は、「イデオン」の影響を受けていますね。

 

大きいのは、物語の大きな構造。人類の滅亡と、再生を描くという。

神とも呼べるような「大きな力」によって、人類がまるごと滅ぼされ、その後に新たな生命の源として再生する。

人間同士の壮絶な殺し合いによって人々は無残に死んでいき、その罪は滅亡によって浄化され、すべての生命は海に還ることになります。

 

エヴァ旧劇場版の構成は、「接触篇」「発動篇」の2本立て構成を踏襲しているようです。

「シト新生」「テレビ総集編/新作最終回」という2部構成はまさしく「接触篇/発動篇」ですね。

「AIR/まごころを、君に」もわざわざ2部構成になっているのは、イデオンに合わせる意図があるのかもしれません。

2本の間にクレジットがあって、映画のラストはエンドクレジットなく唐突に終わる、という「接触篇/発動篇」の特異な構成も踏襲されています。

 

他にも…

イデオンは第6文明人の遺跡。エヴァンゲリオンも南極で発掘されたアダムを母体として作られたものです。

イデは子供の防衛本能に呼応して発動します。エヴァンゲリオンは14歳の子供達によって起動されます。どちらも「シンクロ」という言葉が使われています。

イデは時に人間の制御が効かなくなり、暴走します。エヴァンゲリオンも同様です。

使徒と人は遺伝子が99.89%まで一致します。地球人とバッフ・クランはほとんど同じで輸血も可能であり、同じルーツを持つことが示唆されています。

イデは第6文明人の意思の集積です。エヴァでは出来損ないの群体である人を一つにする人類補完計画が進められます。

どちらも2つの異なる人類の「接触」によって始まり、大いなる力の「発動」によって終わります。ラストカットはどちらも海です。

 

あと、ドバ総司令とギンドロは発動篇を通してコンビを組んでいて、ゲンドウと冬月のコンビによく似ています。ドバとゲンドウ、髪型とヒゲもよく似ていたりして…。

それから、「総監督」という表記も共通点ですね。

 

まあ、エヴァは庵野秀明監督が影響を受けた様々な作品のコラージュみたいな側面があるので。それだけ、アニメ史における「イデオン」の存在感が大きいということも言えますね。

旧劇場版では、物語の着地も「イデオン」の影響が大きかったので、あらためてそこから脱却して、自分なりの物語を紡ごうとしたのが「新劇場版」かもしれないですね。

③なぜか止められない、破滅への道

「イデオン」を観ていて今でも古びていないと感じるのは、分かっていても破滅に突き進んでしまう人間の業を描いているところですね。

 

地球人とバッフ・クランの衝突は、もともとはお嬢様カララの身勝手な行動をきっかけに始まったのだけど。

戦火が拡大することで、多くの人が当事者になっていき、やがて最初のきっかけは忘れられていきます。

殺される恐怖も、大切な人を殺された憎しみも強い感情だから、最初のうちは感情のままに事態を悪化させていくのだけれど。

やがて、このままではヤバいということに、互いに気づいていく。

 

敵も味方も、個々の人々はもう戦いにうんざりしていて、早くやめたいと思っている。みんながそう思っているなら、戦争はすんなり終わりそうなものなんですけどね。

でも、組織としての行動は、そう簡単には方向転換できない。組織としての決めごとに、個人の思いは飲み込まれてしまいます。

末端の個人は「みんなで決めたこと」に従うことを求められるし。

上司は上司で、責任を持って遂行しなくては…という義務感に動かされてしまう。

 

終盤になって、大勢死んでいって、イデが発する流星が故郷さえも滅ぼしてしまって。

イデに試されていることにも、皆が気づいていくんだけど。それでも止められないんですね。

まだ何もやっていない!という思いがあるのに。こんな甲斐のない死に方は嫌だ!と思っているのに。

それでも結局流れから逃れられず、みんなで手を携えて、破滅へ向かって突き進んでしまう。

 

これが…ねえ。まさしく、太平洋戦争の時に起こっていたことだし。

たった今、オリンピックに関して起こっていることですね。

みんな本音ではもうやめたいと思ってるのに、それでもどうしてもやめられないのは、これはもう「イデの意志」なんじゃないでしょうか。発動しなきゃいいけど。