Dawn of the Dead(1979 アメリカ、イタリア)
監督/脚本/編集:ジョージ・A・ロメロ
製作:クラウディオ・アルジェント、アルフレッド・クオモ、リチャード・P・ルービンスタイン
撮影:マイケル・ゴーニック
特殊メイク:トム・サヴィーニ
音楽:ゴブリン、ダリオ・アルジェント
出演:ケン・フォリー、ゲイラン・ロス、デビッド・エンゲ、スコット・H・ライニガー
①ディレクターズ・カットについて
ロメロの最高傑作「ゾンビ」については、「日本劇場公開復元版」を観た時にレビューを書いてます。
ですが、それは日本で最初に劇場公開された時の、不完全なバージョンをあえて復元する…というマニアックなバージョンだったので。
BSプレミアムで「ディレクターズ・カット」をやっていたので、そちらのレビューをあらためて書いてみたいと思います。
「ゾンビ」には、主だったところでも3つのバージョンがあります。
アメリカで公開された「米国劇場公開版」。127分。
アメリカ以外での配給権を手に入れたダリオ・アルジェントが編集し、音楽も差し替えた「ダリオ・アルジェント監修版」。119分。
1978年のカンヌ映画祭のフィルム・マーケットで上映するために、ロメロが粗編集した「ディレクターズ・カット版」。139分。
というわけで、ディレクターズカット版がもっとも長い。他のバージョンにないシーンがたくさん収録されていて、「ゾンビ」ファンにとっては嬉しいバージョンです。
ただ、これはあくまでもカンヌでの機会に間に合わせるための粗編集版で、ここからロメロがきちんと編集して仕上げたのが「米国劇場公開版」なので、真のディレクターズ・カットはそちらだと思います。
②ゆっくりと訪れる終末
「ゾンビ」が飛び抜けているのは、もはや「モンスターの恐怖を描いたホラー映画」ではなくなっているところですね。
同じロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」とは、映画の作り自体が全然違う。
本作ははっきりと、終末SFなんですよね。
黙示録的に、世界の終わりをじっくりと描いた終末SF。
死者の蘇りを驚きを持って見せるのではなく、始まった時点で既にゾンビが既成事実になっている。
だから、冒頭も混乱したテレビ局から始まるんですよね。そして、混乱して指揮系統を失った警察の描写へと続いていく。
テレビも警察も、通常ならゾンビに直面した人々が救いを求める対象ですからね。それが真っ先に、崩壊してる。
ディレクターズ・カット版では、スティーブンとフランシーンがロジャーたちと落ち合う巡視艇基地で、同じく脱出を図っていた警官たちに出会うシーンが付け加えられています。
ここで、スティーブンらは警官たちにヘリを奪われそうになります。治安を守るべき警察が、単に武器を持った強権者になろうとしていることが、このシーンで明確にされます。
ヘリの飛行中に挟まれる「一般の人々のゾンビ狩り」シーンは「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を引き継いだシーンですが、陽気で呑気なムードで冒頭の緊張感を損なうようではあります。
でも、この妙に楽観的なムードが皮肉として機能してるのも、ロメロゾンビの持ち味ですね。
全体を通して、ロメロのゾンビは走らない。のろのろうろつくだけで、結構簡単に対処できそうに思える。
むしろ、楽しいスポーツハンティングの対象にさえ思えてしまう。
でも、じわじわと数が増えていくんですよね。だんだん対処しきれない数になって、ふと気がついたら包囲されていて、のろのろしたゾンビに生きたままゆっくりと食われていく。
核戦争による終末なら瞬間的に訪れるけど、ゾンビの終末はそうじゃない。ゆっくり、じわじわと、しかし不可逆的に確実に、訪れる。
この世界の終わり方は、パンデミックにも似てますね。
世界の終わりは、ドラマチックには訪れない。
何となく誰もが舐めてかかり、「まだ何とかなるだろう…」と思ってるうちに、いつの間にか取り返しのつかない状況になっていて、気がつけば「既に終わっている」状況になっている。
そんな「終わり方」を感じさせる意味でも、スローなペースは本作に有効で、やや冗長気味なディレクターズ・カットも意義のあるものになっていると感じます。
③ショッピングモールに凝縮された世界
ロメロがゾンビで発明したのが、ただ本能に従い、生前の習慣をなぞるゾンビの「習性」です。
この設定とショッピングモールを結びつけることで、「ゾンビ」はただのモンスターではなく、現代の消費社会の風刺という社会的な側面も備えることになります。
人々が、死んでもなお集まってきてしまう場所が「郊外の大型ショッピングセンター」である…というのは実に皮肉が効いていて、ブラックなユーモアになってますね。
意味なく、広大な駐車場や店舗の並ぶモールをうろうろと歩き続けるゾンビたち。モノに集まり、アリのように群れる。
生きてる時も、大して変わらないだろう?と言われているようです。
郊外の大型ショッピングモールが出現したのは、アメリカでは1950年代でした。
20世紀の終わりにかけて隆盛を極め、必需品も娯楽も、ゆりかごから墓場まで、あらゆる用事が一つのショッピングモールで済むようになっていきます。
日本も一緒ですね。日本のゾンビもイオンモールとかに集まってしまいそうだ。
現在のアメリカでは、この手の大型モールは衰退に向かってるそうです。
施設の老朽化と、ネットショッピングに押されて、撤退する店舗が相次ぎ、廃墟化するモールが増えているとか。
「ゾンビ」の世紀末な光景が現実化してるのか…それはそれでそそられますね。
日本の乱立するイオンモールもいずれ廃墟ですかね。
④すべての義務から解放されたモラトリアム世界
世界の終わりというのは辛く悲しいものではあるんだけど、同時にどこか高揚感を伴うものでもあったりします。
既成のルールがすべて意味をなくして、義務とか、社会のしがらみとか、人を縛りつけるものが消え失せた世界。
常に死と隣り合わせの無法世界だけど、何でもありの自由がある世界。
「ゾンビ」の4人は、モノに溢れたショッピングモールを見つけたことで、この終末世界の自由を最大限に謳歌することになります。
これはまさに、衣食住の保証されたサバイバル。
ここが、「ゾンビ」が魅力的なところですね。
楽しそうな終末世界。未来の展望もないけれど、その代わりに何の足かせもない、とりあえずのモラトリアム世界。
「ゾンビ」のこのモラトリアム世界は、あまり大きな声では言えないけれど誰もが心の奥に秘めている願望を、刺激してくるのだと思います。
仕事も勉強も何にもしないで、毎日遊んで暮らしたい。
娯楽は、なんぼでもゾロゾロ歩いてるゾンビどもの頭を銃で吹っ飛ばす人間狩りが楽しめる。
まあ、冷静に考えればこんな暮らしが長続きするわけはないんですけどね。いつかは物資だって尽きるし、自由だっていずれは飽きる。
でも、だからこそ、刹那的だと分かってるからこそ、モラトリアムは魅力的なのです。
様々な高級品を思いのままにショッピング。
スケートリンクやバスケットボール、ゴルフ。
ゲームセンター、高級レストラン、理髪店。
映画館がないのが、ちょっと意外。
とりあえず先のことは考えないようにして、今日を楽しむ主人公たち。
しかし、いつまでも目を背けたままではいられない。
フランの妊娠という設定が、いずれ来るモラトリアム生活の終わりへの、カウントダウンの役割を果たしています。
⑤そして、気がつけばゾンビの勝ち
そして最後、破滅が来るべくしてやって来る。
暴走族が乱入して、平和なモラトリアム世界は終わりを告げることになります。暴走族のメンバーの中では、トム・サヴィーニがいちばん凶暴そうで目立ってるのがすごいですね。
ここまで、ずっと「ゾンビより怖いのは人間」という路線で進んできて、終盤も最初は暴走族が(パイ投げとか)やりたい放題するんですが、いつの間にかゾンビに取り囲まれていて、優位を奪われている。
そして、寄ってたかって引き裂かれ、腸を引き出され、腕を食いちぎられて生きたまま食われる…。
サヴィーニの特殊メイクが大活躍…ですが、今見るとゴアシーンより、ロメロの演出に引き込まれます。
人間の方が怖い状況から、地続きのままでいつしか「やっぱりゾンビの方が怖かった」に移行していて、気づいた時にはもう遅い。
あとは、食われるだけ。これは怖い。
ロメロ版にあってアルジェント版にない「ゾンビ」最大の魅力が、ラストシーン。陽気な「お買い物BGM」をバックに、再びショッピングモールを取り戻したゾンビたちが、人間の消えた消費空間をうろうろ、ぞろぞろと闊歩する。
ブラックな笑いと、悲痛さに満ちた人類へのレクイエム。素晴らしい「終末の絵面」だと思います。
あらためて、ゾンビの状況は現在のパンデミックの比喩ですね。
一瞬でみんなが死ぬわけじゃない。じわじわと、楽天的にさえ見える余裕を持ちながら、しかしゾンビは指数関数的に増えていき、事態は一方通行で悪くなっていく。
なんか余裕をかましていたのに、気がついたら包囲されていて逃げ場もなく、なす術もなくやられていく。
そして、気がつけば人類はとっくに終わっている…。
…ということに本当にならなければ、良いのだけど。