Crash(1996 カナダ、アメリカ)

監督/脚本/製作:デヴィッド・クローネンバーグ

原作:J・G・バラード

製作総指揮:ジェレミー・トーマス、ロバート・ラントス

撮影:ピーター・サシツキー

編集:ロン・サンダース

音楽:ハワード・ショア

出演:ジェームズ・スペイダー、デボラ・カーラ・アンガー、ホリー・ハンター、イライアス・コティーズ、ロザンナ・アークエット

 

①クローネンバーグ監督の到達点

今回は映画がR18なので、レビューもその手の話多めになります。ご注意を!

 

1996年公開のデヴィッド・クローネンバーグ作品。旧作ですが、今回は映画館です。「4K無修正版」での上映。

同じ映画館では「ヒッチャー」もやってて、これも大好きな映画なんだけど、どうしてもタイミングが合わず…。

ていうか、これだけ不要不急どうのと言われると、旧作は少々躊躇しますね。今「ヒッチャー」をどうしても観に行かなきゃならんのかと考えると…。

…って、「クラッシュ」も十分に不要不急ですが。

 

クローネンバーグ監督といえば、やはり80年代の一連の作品が印象的です。

超能力SFの古典「スキャナーズ」(1981)「デッドゾーン」(1983)、いわゆるSFXブームも相まってブレイクした人体変容もの「ビデオドローム」(1983)「ザ・フライ」(1986)、そしてフェチ医学ホラーとでもいうべき「戦慄の絆」(1988)

ドロドロ、ネチョネチョした人体の変容や機械との融合へのこだわりは、「AKIRA」だの「鉄男」だのに影響を与えつつ、クローネンバーグ監督の代名詞になりました。

 

90年代はその路線を継承しつつ、ただ表面的な不気味さにとどまらず、より深い洞察を目指したと言えます。

ドラッグによる精神の変容を、肉体の変容に置き換えた「裸のランチ」(1991)

男女という性別の変容を描いた「エム・バタフライ」(1993)

そして、自動車という機械と性を伴う肉体、事故という死とセックスという生が激しく絡み合う本作は、テーマ的な集大成とも言えるんじゃないでしょうか。

②バラードが追求した人間の変容

映画プロデューサーのバラード(ジェームズ・スペイダー)と美しい妻のキャサリン(デボラ・カーラ・アンガー)は刺激が足りず倦怠期。互いに浮気してみたりしますが、いまいち盛り上がりません。そんなある日、帰宅途中にバラードが交通事故を起こしてしまいます。事故相手の車に乗っていたのは夫婦で、夫は即死。妻のヘレン(ホリー・ハンター)は、バラードと同じ病院に入院します。病院で、バラードはヘレンと、ヴォーン(イライアス・コティーズ)という男に出会います。ハリウッドスターの自動車事故死に偏執的なこだわりを持つヴォーンと関わるうちにバラードは、カークラッシュにエクスタシーを得る異常な世界を知っていきます…。

 

というわけで、本作はR18。

冒頭から最後まで、交わってばかりの映画です。

セックスばかりを売り物にした映画は、個人的にはあまり面白みを感じない。どうせ大して代わり映えがしないから…ということを、「火口のふたり」のレビューに書いたりしましたが。

本作はもう、全然ただのセックスじゃないですからね。極限まで行き過ぎていて、エロいシーンを見てる気さえしなくなってくる。

刺激を求めすぎた暇人たちの行く末は、恐ろしくも面白すぎます。

 

身も蓋もない言い方をしてしまえば、本作は自動車事故で性的に興奮する連中を描いた変態ポルノグラフィーになっちゃうわけですが。

原作はイギリスのSF作家J・G・バラードの1973年の小説。

本作はSF要素のない作品ですが、現代のテクノロジーが人間の意識や肉体に及ぼす影響がテーマだと思います。その点で、本作もSF的なテーマ性を持つ作品と言えますね。

 

本来であれば、非常に肉体的・本能的な事象であるはずの性、セックスというものにさえ、テクノロジーが深く入り込んでくる。

20世紀の物質文明社会を象徴する自動車が、性と一体化してしまって、人間とは何かということが否応なく変質させられていく。

そういう含みを持った、物語です。

 

③事故と治療に見る、肉体と物体の融合

人間の肉体と機械や無機物の融合は、「ビデオドローム」や「ザ・フライ」でも追求されてきたクローネンバーグのテーマでもあります。

それらの作品にあったSFファンタジー要素も排して、本作ではより現実的な、むき出しの形で映像化されていきます。

 

交通事故の後、人体に装着されるギブス

肉体に挿入されたボルトやフレーム

傷口を縫合する黒い糸

傷口そのものの、人間の内部や性器が露出したような生々しさに、鉄やプラスチックの無機物が侵入していく暴力性。そこから醸し出されるエロさ

 

傷や治療、医学にまつわるフェチ的感覚というのは、ありますよね。日本では綾波レイというメジャーな包帯少女がおりますが。

「痛々しさ」がはらむエロさ。

「取り返しのつかない感」がもたらす背徳感。

 

本作では、ヴォーンの相棒スタントマンのパートナーであるガブリエル(ロザンナ・アークエット)が、「そっち方面の究極の姿」を見せてくれます。

夫に付き合って、おそらく何度も何度も繰り返し交通事故に遭い続けてきただろう彼女は、もう取り返しのつかないくらいに異形のモノになってしまっています。

乳房さえがっちりと固定する全身ギブス。

両足に装着されたギブスはほとんどサイボーグのように見せていて。

黒く輝く金属のフレームの下には網タイツ。そしてそこから透けて見える、ぱっくり口を開けた傷口。

ボディピアシングやタトゥーにも通じる、やり過ぎた肉体改造の不気味さ。

 

それに、交通事故自体も肉体改造的だと言えますね。改造というか、「損壊」なんだけど。

スピードと重量と衝撃によって、金属が肉体を巻き込んで、暴力的に「一体化」させてしまう。その恐怖と、逆説的な官能。

④アンモラルの後ろ暗い快感

SM行為やボディピアシングやタトゥーなら、あくまでも個人の趣味で、密室で行われることであって、誰にも迷惑をかけないのだけど。

交通事故フェチは、そうはいかない。公道でわざと事故を起こすわけだから、他人を巻き添えにするし、なんだったら殺したりもする。

しかもそれが個人の性欲のためだって言うんだから、とんでもない話ですね。

 

危険運転とか、煽り運転とか…と最近のトピックを持ち出す以前に、そもそも人としての大事なものを逸脱するアンモラルな行為。

常識的なモラルをものともせずに、易々と踏み越えていく様は、共感はしないけれどそれでもやっぱり、刺激されるものがあります。

現実には許されない究極の自由を垣間見て、擬似体験できるのも、映画ならではの快感。

こんなもんに興奮していて、人としていいのだろうか…なんて思いながらものめり込んでしまう。だから、映画館の暗闇が良く似合う。

 

どんどん堕落していく自分、人間からこぼれ落ちていく自分自身にさえも快楽を見出してしまうから、彼らのような存在はタチが悪い。通常の損得が通用しないですからね。

他人を巻き添えにすることも、人々から憎悪を向けられることも、すべてエクスタシーに変換しちゃうのだから打つ手なし。

最終的には、自分が大怪我して再起不能になることも、自分が死ぬことでさえ、性的快感になってしまう。

だから戻れない。これは、怖いですね。

⑤エロスの果てのタナトス、日常の中の死

究極には、死への願望なんでしょう。エロスと表裏一体であるタナトス。

自動車って、日常的な道具だけど、でも考えてみればあんなに簡単に死ねる…そして殺せる…ものはないですよね。

高速道路を長いこと走ってる時などに、ふと「今このハンドルをキュッと切ったらどうなるんだろう?」とか妄想することないですか? 僕はあります。実際にはしないけど。

 

鋼鉄のかたまりを、100キロとかのスピードで、個々人がみんな思い思いに走らせている。そのうちのたった一人が、ほんの一瞬間違うだけで、とんでもない破壊と死がもたらされる。

そういうモノが、ごく当たり前のような顔をして日常の生活の一部になってしなっていること。

これも考えてみれば、人類の進化の果てのいびつな変容なのかもしれない。

ヴォーンや彼も周辺の人々と我々との違いは、それに自覚的かどうかだけでしかないのかもしれない…。

 

死は自動車にも、我々の生活にも、セックスにも常に潜んでいるんですよね。普段は、目を背けて見ないようにしているけど。

道路を走っていて、偶然に事故現場に遭遇したりして、横目にそれを見る時にも、どこか気持ち悪いような惹かれるような、奇妙な気分になったりするのは、そこに滲み出た死を感じ取っているからなんでしょう。

そんな、生の中に常にある死というものを、「交通事故に興奮する変態」という身も蓋もないドラマで描き出している。クローネンバーグの真骨頂だし、バラードの精神もなかなか正しく抽出してるんじゃないでしょうか。