기생충(2019 韓国)

監督:ポン・ジュノ

脚本:ポン・ジュノ、ハン・ジンウォン

製作:クァク・シンエ、ムン・ヤングォン、チャン・ヨンファン

撮影:ホン・ギョンピョ

編集:ヤン・ジンモ

音楽:チョン・ジェイル

出演:ソン・ガンホ、イ・ソンギュン、チョ・ヨジョン、チェ・ウシク、パク・ソダム

①ネタバレなしの導入

素晴らしい。めちゃくちゃ面白かったです。

完成度がものすごく高いです。映画としての強度がめちゃ高い。

 

社会派。格差社会という、世界中で今もっともタイムリーな問題を真っ向から、しかも言葉でなく映像によって、描いている。

それでいて、圧倒的に高いエンタメ度。どこに向かうか本当に読めない、予測のつかないスピーディーな展開。

コメディとして笑ってるかと思えば、いつの間にか地続きで超怖いホラーになっている驚異的なジャンルのクロスオーバー。それでいて何の違和感もないのがすごい。

金持ちに寄生する貧乏人という陰湿な設定にもかかわらず、登場人物の全員に感情移入できてしまう奇跡。本当に、出てくる誰もが愛しくなってしまう。

そして、映画というメディアならではの映像表現の素晴らしさ。記憶に刻み付けられるような、印象的なカット。

 

いや本当に、突っ込みどころがないです。文句をつけたくなるところが見当たらない。

ネタバレ厳禁映画でもあります。どんでん返しがどうの…ってわけでもなくて、先の読めなさが魅力だから、序盤からの展開すべてがネタバレ禁止対象になります。

 

できれば何の情報も入れず、レビューも読まず予告編すら見ずに、観てほしい。

絶対に面白いから。カンヌのパルムドールもアカデミー作品賞ノミネートも当然と思えるから。

…とハードルをいっぱいに上げても、きっとその期待値の更に上を行くはずなので。

②定番コメディの序盤から、徐々に加速

ここからはネタバレありでいきます!

上記したように、序盤の展開から知らない方が面白いので、未見の方はこれ以上は読まずに映画館に行くことをお勧めします。

 

先の読めない展開、ジャンルを超えていく展開だから、もっとごちゃついた印象になっても良さそうなものだけど。

この映画のすごいのは、とっ散らかった印象を一切受けないところですね。全体が見事に、精巧に組み上がっている。

起承転結がはっきりしています。構成が「シンプルでスマート」。

 

序盤は、半地下に住む貧乏な家族が、大金持ちの家に一人一人、身分を偽って入り込んでいく。寄生(パラサイト)していくわけですが。

ここは本当に面白いコメディ。パターンを繰り返して笑わせる、古典的なギャグの面白さになってますね。

 

上手いのは、自然なんですよね。ストーリーのための無理を感じない

長男ギウが友達に、留学中の家庭教師の肩代わりを頼まれて、そこはまったく不自然じゃない。そのために大学生のふりをする…というのも、それほど大それた悪事という感じもしない。

長女のギジョンが在学証明書を偽造する。そこで才能を発揮するんだけど、それが次の展開、ギジョンを美術教師として売り込むのに繋がるんですね。いかにも自然に、伏線で繋いでいく。上手いです。

 

最初はそんなふうにスムーズに、さほどの罪悪感もなく入り込んでいく。

で、次はお父さんとお母さん、ということになるわけだけど、ここでは元からいる運転手と家政婦をまず追い出す、ということになるわけですね。

ハードルの低いところから上手く導入していって、エスカレートした行動に無理なく繋いでいく。

 

4人が就職していく展開は次を予想して、その通りになる楽しさで見せていくんだけど、それぞれに策を凝らすから、単調さはない。パンティーとか、桃をめぐる顛末とか、大いに笑えるものになっています。

そして、ここで安心感のある定番の繰り返しコメディを見せていることが、後半に向けての上手いフックになっている。

後半の予想のつかない展開への、いい感じの助走になってるんですね。

 

③全員に感情移入できる奇跡の世界

家族の4人全員が就職を果たして、パクさん一家がキャンプに出かけた留守の夜に、リビングで酒飲んで宴会をする。スタイリッシュなテーブルに、下品なおつまみ撒き散らしてね。

このまったりしたシーンで、映画は次のフェイズに入っていきます。

キム一家の「計画」は、ここで一旦大成功で完結してるんですね。しみじみと、勝利を味わう宴会です。

 

学歴詐称して、家族であることを隠して、前の使用人も追い出して…。

やってることは相当悪辣な…なんだけど、思わず一家に感情移入して、上手く騙し通すことを応援してしまうんですよね。

基本的に、そこまで悪人ってわけじゃない。

 

実際、キム家の4人はきちんと働いてるんですよね。

雇い主を騙して、仕事もせずに金を取ろうとしてるわけじゃない。家庭教師も家政婦も運転手も、きちんと期待通りにこなしてる。

つまり、彼らにはちゃんと仕事をする能力があるわけです。

彼らにないのは、ただ学歴や信用や経歴…雇われるための資格を持たないというだけで。

 

そして、彼らには別にこれ以上の野心もない。いい仕事を得られたからそれで満足で、これ以上悪どい手段で金儲けをしてやろうなんて気もないんですね。

お母さんの就職のところで、「土地の権利書を用意しろ」なんて話が出たので、更に家や土地を騙し取ろうとする計画が…なんて思ったんだけど、それはただのミスリード。

パクさん一家に別に悪い感情もないし、感謝もしてる。普通に、このまま真面目に「いい仕事」を続けられることが彼らの望みなわけです。

 

本作を観ていてとても気持ちがいいのは、ここですね。

やってることは犯罪行為だったり、いろいろとアレなことばかりなんだけど、彼らには基本的に悪意がない

できるだけ楽して儲けたい、というさもしい根性はあるんだけど、でもそれは悪意ではない。

誰かを傷つけてやろうとか、貶めてやろうというような、恨みやつらみ、憎しみ、負のエネルギーがない

さもしい根性の結果として、いろいろアレなことをやっちゃうんですけどね。

動機が暗い負の感情ではないので、素直に応援できちゃうんですよね。

正しいとは言えないけれど、負のベクトルもない主人公たちへ感情移入してしまうこの感じ、「万引き家族」を観てる時の感じととても近いと感じました。

 

そして、金持ちであるパクさん一家の方も同様なんですよね。彼らも同様に、悪意がない。

ブルジョワで、セレブで、たぶん彼らは生まれながらにそうで、いろいろと浮世離れしたところがあったり、天然の無神経さがあったりはするんだけど。

でも、差別意識とか、上から見下す傲慢さとか、金持ちキャラに安易に当てはめられがちな「イヤな属性」は彼らにはない

基本的には「いい人」なんですよね彼らも。これはこれで、とてもリアルでフェアな描き方だと思うのです。

 

そして、実は、この先の展開で登場してくる「もっとヤバい人たち」にもまた、暗い負の感情はないんですよ。驚くべきことに。

格差社会のひずみを一身に受けて、社会の底辺に埋まり込んでしまってるみたいな、とてつもない人たち。そんな人たちですら基本「いい人」であって、前向きであるという。

 

みんな、歪んではいるんですよ。貧乏人も金持ちも、みんなどこか少しずつ、奇妙な形に歪んでいる。地下にいた人なんて、もう取り返しのつかないくらいに歪んでる。でも、決して悪者ではない、というね。

誰かの不幸を願っている人なんて、誰もいない。

誰もが悪者ではない奇跡のような世界。そこから、出てくる全員に感情移入できるという、すごい状況がもたらされてしまうんですね。

④諦めが行き着く果ての、人間の妖怪化

この同じ宴会の夜、大雨の中ずぶ濡れになりながら、追い出された家政婦のおばさんが訪ねてくる。

ここで映画には転機が訪れ、後半の怒濤の「予測不能」の展開になだれ込んでいくことになります。

ここからは本当にネタバレになります。しつこいようですが、未見の方は今のうちに撤退を。

 

台所の梅酒棚の裏に隠された秘密の地下室

パクさん一家でさえ存在を知らない、この家の前の住人である建築家が作った核シェルター。そこには、家政婦のおばさんの夫が隠れ住んでいました。

借金取りから逃れるため、男はずっとそこに隠れ住み、家政婦のおばさんがこっそり食事を運んでいたのです。この家には、もう一人パラサイトがいたのでした!

 

男が地下室に入ったのは借金取りから逃れるためでしたが、そこで暮らすうち、彼はすっかりそこでの生活に馴染んでしまいます。

今や、そこから出たいとも思っていない。ただパク氏に「リスペクト」を表明しながら、地下室でおこぼれを貰いながら安住し続ける。男はそんな暮らしに、幸せを見出してしまっています。

これは本物の、正真正銘のパラサイト

 

魚のアンコウを思い出しました。

アンコウって、オスは小さく退化してしまって、メスの大きな体にくっついて同化して、ほとんど吸収されてしまって、メスの体から栄養を分けてもらって生きるんですよね。

夫がこんななのに、家政婦のおばさんは結構甲斐甲斐しく世話をしていて。まさに人間アンコウ。

 

すさまじい展開なんだけど、すんなり受け取れてしまうのは、キム一家のパラサイトぶりをここまでじっくり見てきてるからですね。

彼らが考えることならば、別の誰かが同じことを考えて実行していてもおかしくないわけで。

金持ちに雇ってもらうことが金持ちに寄生して生きることなら、それを突き詰めていけば男のような生き方が必然なのかもしれない。

資本主義の行き着く果ての格差社会の、これが本質をさらけ出した姿なのかもしれない。

北の攻撃に備えた核シェルターが一時の流行で、金持ちの家に秘密の地下室が高い確率であるのなら、もしかしたら韓国の金持ちの家には一軒に一人かそれ以上の貧乏人が、もれなく寄生しているのかもしれない…。

おお、まるで都市伝説。「アス」みたいになってきました。

 

実際、この「金持ちの家の秘密の地下室に貧乏人が密かに住んでる」という光景は強烈なイメージで、都市伝説めいた凄みがあります。

夜ごと地下室から出てきて、冷蔵庫を漁る真っ黒な男。これもう、妖怪ですね。

人を超えちゃってる。貧乏も度を越すと、人が妖怪になってしまう…。

 

序盤からの、ある種ほのぼのしたコメディのノリで観ていたら、この強烈なイメージを突きつけられ、ショックを受けることになります。

そのショックも覚めぬうちに、パクさん一家が急に帰ってくるスリル。

これはまた序盤のような、定番のドタバタコントのようでもあるんだけど。

でもそこで起こってるのは、半地下と地下の家族同士が、どっちがこの金持ちに寄生するかをめぐって戦ってるという、なんかもうどうしようもない最低の戦いなんですね。

いったいこれは何を見てるんだ…という。なんかとんでもなく凄いものを見てる気持ちになってきます。

そしてそれはいつしか、笑えない域に突入していく。きらびやかなセレブのパーティーの最中に、垢にまきれた臭い妖怪が出現して、血まみれにしていく。そんな不条理な異空間が、出現することになるんですね。

⑤視覚化された「格差」の恐怖

「万引き家族」の家族たちも、みんな悪い人たちじゃなかった。基本的に心優しい、いい人たちだったんだけど。

でも、もうまともに生きてもどうにもならなくなっていて。期待通りにしっかり働く十分な能力があったとしても、そもそもまともにやってたらスタートラインに立てない

だから、いつしかまともに努力することを諦めてしまう。ギウやギジョンのような、負の感情を持たず人を憎まず、前向きに生きようとする真面目さを持っていて、能力で劣ってるわけじゃない若い人たちさえも、何かを諦めなくては生きていけない。犯罪とか、ごまかしとか、金持ちへのパラサイトとか、そういう方法をとらないと生き延びられない、もうそんな域に達していて。

 

でも、そんな歪んだ生き方の先には、人の家の地下室に潜んで、夜な夜な這い出てはおこぼれを啜る、そんな妖怪じみた存在に成り果てる姿がある。それを見せつけられてしまう。

 

パク家から脱出したキム一家は、降り続ける大雨の中を、家へと歩いて帰ることになります。

小高い山の手の高級住宅街から、最下層の半地下の町へ。下へ、下へ、降りていく。

いくつもの坂道や階段を、ひたすら下っていく。

そこを雨がドボドボ流れて、下へ行くほどに水が溜まっていく。電線がひしめくキム一家のホームタウンまで降りてくると、そこはもう便所から溢れた水で水没している…。

 

水没した半地下の家で、石を抱えるギウ。

真っ黒な水が噴き出すトイレの上に座って、タバコを吸うギジョン。

強烈なシーンですね。滑稽なんだけど、どこまでも絶望的。本当にもう、どうにもこうにも行き場がない。

避難した体育館で、父親は「計画なんて立てても無駄だ」という話を息子にしなくちゃならない。だって、計画なんて絶対に上手くいかないから。

どうにもならないとわかっていても、妖怪のような醜い姿を鏡のように突きつけられても、それでも夜が明けたら、彼らはまたパク家のパーティーに出かけていかなくちゃならない。そうでなくては、生きていくすべがないから。

 

そして出かけた翌日のパーティーで、華やかなセレブの集う真っ昼間の庭で、地下室から解き放たれた妖怪が出現して、現実世界に血まみれの異空間を出現させることになります。

この、もはや訳のわからない、不条理なカタルシス。最後の最後まで、強烈です。

 

広がりすぎた貧富の差の問題、人がまともに生きることすら阻害する格差社会の問題は、「万引き家族」をはじめとして、「アス」「ジョーカー」と、現代を描く映画の多くでテーマになっています。

これはもう、日本も韓国もアメリカもない。全世界共通の、今の問題になっていると言えそうです。国が違って文化や背景が違っていても、どの国の人々も、同じように共感して観ることができるのでしょう。

 

地下から出てきた男によって、セレブのパーティーがぶち壊されるシーンは、「万引き家族」の前のカンヌ映画祭でパルムドールをとった「ザ・スクエア 思いやりの聖域」の中の「サルのモノマネをする男がパーティーをぶち壊すシーン」なんかも連想したりしました。

2018年の映画で個人的にいちばん好きだった「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」も貧困をテーマにした映画だったし。

このテーマは、今始まったものではないと言えるんでしょうね。

 

思えば、山の手の高級住宅地と谷底の半地下世界を「下りの移動と雨」で対比した秀逸なシーンは、黒澤明の「天国と地獄」を連想させるところがありました。

これは1963年。格差というのは、人間の社会というものがある限り、避けがたく生じてくる問題なのかもしれません。

それから50年。資本主義が世界中に行き渡って、いよいよ格差は広がるだけ広がって、もう限界域に達している。

そして、地下室から現れる妖怪という、わけのわからない不条理な暴力という形で噴出し、ほとんど罪のない人の命を奪っていくという、やりきれない事態につながっていく。

「アス」「ジョーカー」で描かれたような、もはや理由も明確な矛先も持たない不条理な暴力。それが避けがたくなっているのが、現代であるということですね。

 

地下室から出てきたのはそこに寄生していた男だったけれど、実はもっと何か、禍々しい呪いのようなものも一緒に出てきていて。

金持ちを恨まない、「金持ちを殺せ!」とかデモしたりしない、多少の脱線はあっても前を向いて生きようとしてきた男の心に、すっと忍び込んでしまう。

決して恨んではいなかったはずのパクさんの、「臭い」に顔をしかめる一瞬の表情に、思わずナイフを突き立ててしまう。

そんな呪いが、あらゆる地下室に充満して、吹き出すのを待っている。それが現代の社会になってしまっている…。

 

「格差」って、あくまでも概念であって、実体のないものじゃないですか。

「格差社会は問題だ!」と言葉では言っても、なかなか実体の掴めないものだったりします。(たぶん、金持ち階層の人々にとっては特に。)

この映画はそれを、見事に可視化している。格差がどういうものかを、目で見てわかる形にして見せているのだと思うのです。これは本当に、レベルの高い表現なんじゃないかと思うのです。