夏蜜柑の萌語り -202ページ目

【犬まこ】新たな恋の始まり③

「―掃除、終わったの?」

 冷えた弓道場に、静かな声が響く。
「春名…帰ったんじゃ…」
 私服に戻った春名が、鞄を手に入り口から顔を出していた。
「忘れ物!…ってのは口実で、ちょっと、気になって」
「何がだよ」
「何か…後半、犬飼くんの調子が悪かったの、わたしがズケズケ言っちゃったせいかなって」
 春名は入ってきて隅の長椅子に腰かける。少し泣きそうになっていた俺は、頭を振ってごまかした。
「べっつに!俺が下手くそなのはいつものことだろ!」
 そう言った瞬間、持っていたモップを乱暴に掴まれる。
「なんだよ」
「後半!月子の様子見ては投げやりな弓、引いてたわよねって言ってるの!」
 吸い込まれそうなくらい、まっすぐな瞳。
「月子のこと、好きなんでしょ?今もまだ」
 言葉が突き刺さる。
「見てたら…分かるんだからね」
 まるで子供扱いするみたいに、頭をポンポンと叩かれる。

「くそ…もう、墓場まで持ってくつもりだったのにな…あいつが、人のもんになっちまった時から…」
「想いを伝えることも…出来なかったんだね」
「皆あいつに気があるのは、互いに分かってた。でもあいつが気づかないのも分かってたから、誰のものにもならないって安心してた……。悪ぃ」
 立っていられなくなって、しゃがみ込む。春名もそれを見て、一緒に座り込んでくれる。
「あいつが誰かのもんになったらもう…想いを伝えることすら許されねぇ。その資格がないんだからな」

 なんでこんなに語ってるのかは解らなかった。
 春名が、うつむいている俺の視界の端で、動いたのが見えた。
「心につけ込むみたいで、気が進まないけど…」
 何のことだ、と問おうとして、息を呑んだ。

 春名に、抱き締められていた。

「な……!?」
「わたしはね、犬飼くん。あなたの話を聞いて、あなたが辛いんだって分かったって、じゃあ月子との仲をどうにかしてあげるわよ、なんて言わない。あの子は今、幸せそうだもの」
「あぁ…知ってる」
「だから…寄り添う」
 首に回された腕に、少しだけ力がこもる。
「犬飼くんがツラそうにしているのに気づいたのは、きっとわたしだけだから…」
「春名…」
 春名の言葉が、俺の心を少しだけ埋めてくれる。
「それにね」
 ふいに春名が身体を離す。顔をあげると、もう、春名は鞄を持ち直して、背を向けていた。
 弓道場は寒いはずなのに、俺の顔は熱い。春名の、ちらりと見えた耳も、同じくらい熱そうだった。

「まだ…自分の気持ちも、よく分かんないけど。わたしは、何もしないで後悔するなんて、犬飼くんみたいなこと、したくないから」

 ―俺は、別に鈍感じゃない。
 少なくとも、この言葉の意味が分からない、なんてことはない…たぶん。
「お前…」
「じゃーわたし、帰るわ。またね!」

 もう、振り返ることもなく去っていった。
 俺は情けなく女の子みたいに座り込んだまま、しばらく動けなかった。

 心臓がうるさい。
 さっきまで、諦めたと思ってた恋心を思い出して、泣きそうになってたんじゃないのか。

「調子よすぎだろう…俺…!」


 翌日。
 最後の時限まで講義のあった俺は、少し遅れて道場に入った。
「お願いしまーす…っと」
 入ってすぐの所で、夜久と春名が並んで、立ち話をしていた。
「あ、犬飼くん。よろしくお願いします」
 夜久がにっこりと笑顔を向ける。
 ?あぁ、大丈夫だ。昨日みたいに、突っぱねるほどイライラしてない。夜久の顔も、まともに見ることができる。
「…よぅ、センチメンタルボーイ」
 少しだけ頬を染めてそう言う春名を視界に入れる。途端に蘇る、昨夜の動悸。
 ―全然、大丈夫じゃない!

「犬飼くん?大丈夫…?」
 夜久が心配そうに言ってくる声も、聞こえない。
 俺は無意識に、春名に手を伸ばしていた。

 弓道場が一瞬静かになり、次には大きなどよめきになる。
「えっ…」
 俺は春名を真正面から抱え込んで、目の前の肩に顔を埋めた。


「ありがとな…真琴」


「……っ!!」

 すぐに放して、更衣室へ歩き出す。後ろから聞こえる悲鳴。
「ちょ…!いぬか…っ!!…バカーっ!!」

 俺だって、まだわかんねぇ。春名への気持ちが何なのか。
 だけど、春名のことは嫌いじゃない。…今はそれで十分だ。
「よーし今日もガンバルぞっと」
 腕をぐるりと回して、歩く速度を少しだけ、上げた。

 今日はいい弓が引けそうだ。