今回は何と言ってもこれでしょう。

昭和39年10月1日、つまり、60年前の今日、 “夢の超特急” と日本中の期待を一身に集めて建設された東海道新幹線が東京-新大阪間で開業しました。画像はその開業日のようですが(まさか、昭和47年の岡山開業日じゃないですよね)、歴史的なビジュアルである東京駅ではなくて、新大阪駅ではないかと思われます。出発式を行っているということは、東京行きの上り一番列車である「ひかり2号」だと思うんですけど、K編成(「K6」と読める)を充当しているので、「こだま」の一番列車である可能性もあります。どっちにしても、歴史的な一瞬であることに変わりはありません。

 

戦前の「超特急燕」が9時間、戦後の「つばめ」が8時間、ビジネス特急「こだま」が6時間50分と、東京-大阪間の鉄道による所要時間は短縮の一途を辿っており、これを上回る「新幹線構想」がスタートしたのが昭和31年ですが、新幹線を語る上で外せないのが戦前の「弾丸列車計画」。

昭和6年に満州事変が勃発し、満州国が成立すると、日本から中国や朝鮮への輸送需要が日増しに高まるようになります。今のように航空機は無く、鉄道輸送がメインだった時代。下関まで列車で行き、そこから船で釜山へ向かい、朝鮮総督府鉄道と南満州鉄道を利用するルートが一般的でした。しかし、この当時から東海道本線と山陽本線は輸送の要であったため、輸送量がパンク寸前でした。このため、東海道本線と山陽本線とは別に高規格鉄道を建設し、高速列車を走らせる計画が浮上します。それが「弾丸列車計画」。

 

昭和15年に当時の鉄道省がこの計画を国会(帝国議会)に提出し、承認を得ると、用地買収が始まり、買収が済んだところから工事を始めることにしました。熱海-三島間の新丹那トンネルは弾丸列車計画に基づいて路盤整備が行われていました。

計画段階では昭和29年までに先ず下関まで開業させて、以降は対馬海峡にトンネルを掘り、満州国の新京(現在の長春)や北京に直通運転を行う構想もありました。

 

しかし、太平洋戦争が悪化の一途を辿った昭和18年に全ての工事を中止し、弾丸列車計画は雲散霧消しますが、既に用地が確保出来た場所については後々の東海道新幹線建設に活用することになります。

 

戦後の混乱が落ち着き、昭和24年に戦後初の特急「へいわ」が運転を開始し、翌25年に80系電車が運転を開始すると、時代は機関車牽引の客車列車ではなく電車にシフトするようになります。同時に東海道本線の電化が急ピッチで進み、昭和31年11月には東京-神戸間の全線が架線で結ばれるようになります。この辺りから東海道本線の輸送が爆発的に増加し、列車本数も軒並み増加の傾向にありました。加えて前述のスピードアップも喫緊の課題で、輸送力増強には東海道本線の複々線化もありましたが、思い出したかのように目に留まったのが戦前の弾丸列車計画でした。

「用地の一部は確保しているわけだし、新丹那トンネルも路盤は整備出来てるし、日本坂トンネル(静岡-浜松間)は出来上がっているに等しい。ならこれを利用しない手は無い」と一気に新幹線構想が具現化します。

 

昭和37年には小田原市鴨宮に中枢基地を設置し、現在の綾瀬市辺りまで完成していたことから、この区間をモデル線区として試験車両を早々に送り込んで試験運転を開始しました。同年10月には時速200kmを達成し、「夢の超特急」が徐々に現実のものとして受け入れられていきます。

 

しかし、その期待と裏腹に、建設費用が当初の概算を大幅に上回り、世界銀行から多額の借金をするなど、コスト的にはかなり火の車であったのは知られた史実ですが、着工から僅か5年で東京-新大阪間を一気に完成させたのは特筆に値します。但し、突貫工事だったこともあって、路盤が安定していない部分もあり、開業からしばらくは多少余裕を持たせたダイヤを設定しました。この結果、「ひかり」は4時間、「こだま」は5時間というダイヤで運行しました。

 

昭和30年代に入って、航空機が本格的に都市間輸送の一翼を担い、自動車も安定したパフォーマンスを発揮するようになると、世の中は「鉄道不要論」まで出るようになります。そんな中での新幹線構想ですから、具現化するのは並大抵では無かったと思います。でも、新幹線は無くてはならない存在になり、東海道・山陽のみならず、東北、上越、北陸、北海道等々、あらゆる方面に新幹線が活用され、高速による安全大量輸送をモットーとする日本の新幹線は世界に存分にアピール出来るツールにまで成長しました。天変地異を除いて大規模な事故が1件もないというのも世界に自慢出来る一つの要素ですよね。それはやはり、先人が築いた礎を後進がしっかりと受け継いだ証しと言えるわけですが、 “還暦” を迎えた新幹線を、 “生みの親” である十河信二(当時の国鉄総裁)はどのような心境で天から見つめていたのでしょうか?

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

ウィキペディア(新幹線、弾丸列車など)

 

 

久々の今昔対比は東京になります。

まずは「Then」から。

 

 

前回、東京モノレールの500形をお届けしましたが、それと同じ時期に撮影したものだと思われます。東京の人じゃなくてもここが何処だか判りますよね。そう、東京モノレールの浜松町駅です。画像奥、国際貿易センタービルと並び称される、浜松町のランドマーク的存在の浜松町ビルディング(竣工当初は東芝ビルディングという名称だった)は工事中ですので、工事の進捗状況から1981~1983年頃に撮影したものではないかと推測します(浜松町ビルディングは着工が1981年8月、竣工が1984年3月)。

 

 

同じ場所から撮った40年後のモノレール浜松町駅。

今、浜松町周辺は大規模な再開発工事が行われており、浜松町ビルディングの他にも高層ビルが林立して、昔日の面影はまるっきりありません。浜松町駅自身も改良工事が進捗中で、「Then」では辛うじて見えていたJRの線路は見えません。

 

 

電車を入れてみました。

いずれ、JRが計画として推し進めている羽田アクセス線が開業したら、さらにここは激変するのでしょうけど。JR東日本の子会社になった東京モノレールの立場はどうなるのかな?

 

あらためて言うのもなんなんですが、「智恵子抄」じゃないけど、東京の空って高かったんですね。

 

 

【「Then」の画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

ウィキペディア(浜松町ビルディング)

9月29日(日曜日) 曇り

 

昨日から遅めの “夏休み” 。

元々、郷里に帰った前の職場の同僚Y氏が久々(7年ぶり)に来京するというので、付き合う形で休みを取ったのですが、Y氏も彼方此方でオファーがありまして、動き回っていました。

来京が伝えられたのは先月のことで、コロナも些か落ち着きの様相を呈していることから、当時の仲間に連絡を取り、「Y氏を囲む晩餐会」を新小岩でやることに。

 

 

それにしても、ホントに久々のメンツが集まりました。LINEや年賀状などのやり取りはやってても、実際に会うのは何十年ぶりとか、そういう人ばっかり。人数的には私を入れて12人ですが、対象としたのは年齢的、キャリア的に近しく、尚且つY氏と面識がある人を厳選したので、今回は “大御所” 格の大々先輩は生存と連絡先が確認出来ないので、今回は打診をしていません。大人数過ぎると、全ての人と話が出来ないし、収拾も付かなくなることから。12人というのは多くもなく少なくもなく、ちょうど良いと思いました。

 

「もはね、ありがとな」と口々に言ってくれる先輩を見て、「(晩餐会を)やって良かったな」とつくづく思いましたね。

今回は私のデビュー局の面々ですが、一番元気だった頃の局のメンバーが集結したので、盛り上がり度もハンパありませんでした。

 

(画像は2011年に撮ったものです)

 

一夜明けて今日。

Y氏は帰郷します。同僚Hと羽田空港まで見送りに行くことにしました。

飛行機は14時15分発なので、そんなにゆっくりは出来ません。なので、羽田で昼食を摂りながら和気藹々とやろうということになりました。その前に「東京タワーを絡めた映えスポットが見たい」というリクエストに応えて、東京タワーを経由しました。スカイツリーじゃないところがミソなんですが、私もスカイツリーよりかは東京タワーの方が愛着があります。

 

羽田空港の中に入るのは7年ぶり(それこそ前回Y氏が来京した時以来)です。

数多ある飲食店の中で、迷いに迷って結局、ロイホになったんですが、選択肢に自由度があるという点で言えば、ファミレスはもしかしたら「最善の選択」だったのかもしれません。Y氏もそれほど拘っていないみたいだったし。

 

これで一つ、 “大きな仕事” が終わりました。

あとは来月の神戸ですよ。

 

早朝の東海道本線を終着・東京駅に向けてラストスパートをかける寝台特急「瀬戸」。

三島-函南間の「竹倉踏切」は富士山をバックに列車が撮れる撮影名所ということで、昭和の撮り鉄に人気がありました。今は被写体となる列車が無くなったのか、竹倉踏切そのものが無くなったのは知らんけど、ここで撮る人や撮った作品を媒体に掲載するというのは見かけなくなりました。マナー/モラル知らずの悪質撮り鉄が増えたことから、この辺を立ち入り禁止にしたという説もあります。

 

国鉄時代のブルートレインブーム時、「さくら」や「富士」などに隠れて脇役に徹していた「瀬戸」と「出雲」は今や、東海道/山陽線、いや、日本で唯一残った寝台特急になり、以前別のコーナーでお話ししましたが、その切符はプラチナチケットと化しています。

国鉄時代から「瀬戸」も「出雲」も観光地へ向かうアクセス機能は十二分に発揮していたものの、私を含めた当時のガキどものの評価はそんなに高くはありませんでした。九州へ行かないから? A個室や食堂車が連結されていないから? ハッキリとしたことは知らんけど、「出雲(下り1号、上り4号)」はA個室も食堂車も連結されていたし、「出雲(下り1号、上り4号)」に関しては、寝台券はいつも完売だったし、「出雲(下り3号、上り2号)」や「紀伊」と違って双方、EF65が牽引してヘッドマークは取り付けられていたし・・・。でも、前出の「さくら」や「富士」などと比較しても人気は今一つだったのは否めません。

 

国鉄時代の「瀬戸」と現在の「サンライズ瀬戸」は、特に東京行きの上り列車は時刻に多少の変化はあるにせよ、昔も今も似たり寄ったりのダイヤで推移しています。

 

「瀬戸」         「サンライズ瀬戸」

宇 野発 21:04   高 松発 21:26

岡 山発 21:43   岡 山発 22:34

大 阪発  0:03   大 阪発  0:33

東 京着  7:11   東 京着  7:08

(昭和60年3月改正)  (令和6年3月改正)

 

下りは大阪、三ノ宮を通過して姫路に停車、上りは三ノ宮と大阪に停車するダイヤも国鉄時代から変わってません。京阪神で観光した東京への利用客に配慮したものだと言われていますが、これはかなり稀有な例です。

 

20系客車を使用してた時代はA寝台も食堂車も連結されていましたが、24系25形に置き換わった際にA寝台も食堂車も連結されなくなり、二段式B寝台のみのモノクラス編成になってしまいました。前述のようにそれが「瀬戸」の人気を下げてしまった一つの要因だったと言えますね。

そんな「瀬戸」がジワジワと評価されるようになったのが民営化後の昭和63年、瀬戸大橋を通って高松まで行くようになった頃から。瀬戸大橋ブームに便乗した格好になりますが、その2年後に需要を見込んでA個室とラウンジカーが連結されるようになります。平成10年に「サンライズ瀬戸」となって、その後の安定した人気ぶりは説明する必要はないと思いますが、「瀬戸」もある意味で「遅咲きのスター」になるんでしょうね。

 

昨今、「夜行列車復活論」も聞こえますが、JR各社が独自の道を歩んでいますし、中にはJR東日本とJR東海のように犬猿の仲状態の会社もあるので、東京-大阪といったJR各社を跨いで運転する夜行列車の復活は事実上、不可能。ある人は「保安上(保安設備)の問題」とか、「人材確保の問題」とか様々な問題点を出しているけど、私的には「JR各社のやる気」だと思います。せめてJR東日本の「四季島」、JR西日本の「トワイライトエクスプレス瑞風」、そしてJR九州の「ななつ星」くらいはJR各社を直通出来るようにすれば良いのにと思いますが、JR東海は拒否するでしょうし、北陸本線は大多数が第三セクターになっているので、やっぱりムズいかな・・・。

今度、夜行列車好きで「出雲」をこよなく愛する石破茂氏が自民党総裁になり、内閣総理大臣になるので、「夜行列車復活論」にどう対処するのか、注目したいと思います。

 

 

【画像提供】

い様

【参考文献・引用】

国鉄監修・交通公社の時刻表1985年5月号 (日本交通公社 刊)

JR時刻表2024年4月号

鉄ぶらブックス①「伝説のブルートレイン全列車」

(いずれも交通新聞社 刊)

ウィキペディア(JR東日本四季島、JR西日本トワイライトエクスプレス瑞風、JR九州ななつ星)

9月27日(金曜日) 曇り時々雨

 

昨日の天気予報では、かなりのド雨になるって言ってたんですけど、仕事中は大した降り方にはなりませんでした。良かった良かった。ここでもYHとWNとNHKで温度差が出ましたが、YHは昼頃にド雨(12~15mm)、WNは17時頃にド雨(同じく)で日中は1~2mmを、NHKはド雨の予報は出さずにほぼほぼ終日1~2mmをそれぞれ予想していました。

 

帰宅すると私宛てに「免許を更新しなよ」の手紙が届いていました。そう、今年は免許の書き換えの年。

そういえば前に免許の書き換えをしてから事故らしい事故は起こしていないし、違反らしい違反も犯していない。今年はいよいよ「サクラサク」か?

と恐る恐る開封したら・・・

 

 

「優良」ってことは、ゴールドマンサックスで良いんですよね。

免許を取って今年で36年になりますが、初めてですよ、ゴールデンカレーは。

 

教習所に通っていた時は、そりゃあ鈍臭くて、効果測定何度も落ちるし、路上検定や卒検も一発では合格しませんでした。免許証を取得するまで半年かかりました。容量技量の良い人はあっという間に取得するんでしょうけど、でも、 “本免” は一発合格でした。あれから36年。

 

走ることは好きだけど、昔のように幅寄せされたら幅寄せ仕返したり、抜かれたら抜き返すような運転はしていません。随分と大人しい運転に変わりました。仕事では大人になりきれていないのに。

 

免許がゴールデン洋画劇場になると、生きる上で何か恩恵があるのかな?

給料が倍額になるとか、新車80%OFFとか、定食が割引になるとか・・・。

 

でも、ここで違反したり事故を起こしたりしたらせっかくの苦労が水の泡になりますので、これからも安全運転に努めます。

 

 

9月25日(水曜日) 曇り時々雨

 

結局、「何の目的で取得したのか」判らないまま迎えた今日の有休。まぁ、それでも平日休みでないと出来ない案件は多々あります。

 

速報であの羽賀研二氏がまたパクられたそうで、まったくもう、奴は一体、何をやっているのか・・・?

 

大の里関の大関昇進が決まり、今日、伝達式が行われましたね。

まだ違和感が拭えないけど、まぁ、頑張って欲しいなとは思います。

でも、あの強さを維持したのであれば、来年の初場所にはもう横綱になっているのでは?

相撲界には “飛び級” というのが無いため、まずは大関で “お手並み拝見” となるんでしょうけど、彼の実力が “本物” だったら、前述の “予想論” も当たらずも遠からずってところです。

 

知り合いが昨年、TV(Ameba TV)に出演したと聞きました。

ロケーションだけでなく、スタジオでの収録にも参加してくれとのことで、(本人曰く)渋々、出演したそうです。

ケンドー・コバヤシ氏やひろゆき氏がいたそうですが、本人曰く、「(ひろゆき氏)はすぐに問題を掏り替える達人」とのこと。

私も遅ればせながらその番組を観ましたが、主たる問題点を逸脱した論が多く散見されました。

ひろゆき氏は世間的には「論破王」と持て囃されているけど、私的には「単なる “屁理屈王” じゃんか」って思いました。

弁護士から某府知事、某市長を経て、テレビのコメンテーターをやっているあいつと同類、いや、「同じ穴の狢」ということ。根底は屁理屈です。

 

イチロー氏率いる草野球のチームがいつしか高校女子野球と対戦するようになったのが3年前。

その第四弾がこないだ東京ドームで行われました。

今回、イチロー氏がメンバーとしてオファーしたのが、 “ゴジラ” こと松井秀喜氏。

私は基本的に松井氏が好きじゃないのですが、何故か今回はそのプロローグから観ていましたし、試合そのものも動画サイトでライブ配信されたものと、BSで放送されたものと2回観てしまいました。

試合はイチロー氏率いる「神戸智辯」が圧勝したのですが、問題は試合の勝敗じゃないというのは誰が見ても明らかなことです。

 

私は “個人の感想です” の範疇になるんですが、イチロー氏と松井氏は犬猿の仲だと思い込んでいました。

でも、年齢的にも1歳差しかありませんし、松井氏も「(イチローを)ライバルだと思ったことはない」と言及しているだけに、「犬猿の仲」だというのは私自身の思い過ごしであることがハッキリしました。イチロー氏はともかく、松井氏の本心は解りませんけどね。

その試合の8回裏、松井氏は肉離れしたという身体を引きずって、ライトスタンドに叩き込んだじゃないですか。いくら「松井嫌い」って言っても、あのホームランにはちょっと震えました。

で、痛い下半身を引きずってベースを一周してホームインして、イチロー氏とハグするなんざぁ、「あぁ、野球って良いな」って思えた瞬間ですね。それが例えエキシビションでも。

そして、もっと目を見張ったのが女子野球のレベルの高さ。

ヘタしたらいつか、女子が男子をやっつける時が来るんじゃないかって試合を観て実感(痛感)しました。

技術も抜きん出てるし、何よりも可愛い。

あとは “スターと名声” だけかな。

サッカーの「なでしこジャパン」には少なからずスターが存在しますが、女子野球にもそういうスターがいれば、もっと盛り上がると思いますよ。

因みに今回の試合に出場していた、花巻東高校の佐々木秋羽(しゅう)選手も出場していて、ちょっと注目を集めました。

彼女は、プロ野球のオファーを蹴って合格率3%という、アメリカのスタンフォード大学に進学した佐々木麟太郎選手の実妹です。

野球技術もさることながら、なかなか美少女さんじゃないですか。

 

急激に秋が来ていますが、皆様は体調を崩さぬように。

能登の方々に対しては、とにかく落ち込むことなく前向きに頑張っていきましょう。

県も国もまずは「能登復興」を最優先にお願いします。

 

急に涼しくなって、再びラーメンが美味しくなる季節になりました。

コアなラヲタは猛暑だろうが酷暑だろうがラーメンを食うんでしょうけど、私はそこまでしてラーメンを食おうとは思いません。まぁ、食えばせいぜいつけ麺かまぜそばです。

用事をわざわざ作って池袋に行きましたが、ドンキの裏にある駐車場の一角にいきなり家系が出来ていました。あれっ!? 前もラーメン屋だったよな。でも、その時は家系じゃなかった。短命だったんですね。そして前から気になっていた家号ということで、用事が済んだら行こうと決めました。

今日は何処に行ったのでしょう・・・。

 

行った店・・・・横濱家系ラーメン 四代目野中家

場所・・・・・・豊島区西池袋1丁目(池袋北口商店街沿い)

食ったもの・・・燻製チャーシュー麺並(味玉、のりをトッピング)

         ご飯を付けて ¥1,550-

 

 

スープ・・・○

「野中家」の本店は大塚にあります。現在は少なく見積もって “五代目” まであるようなので、支店は4店舗あるということでしょうか?

その他にも「大崎家」や「輝道家」といった系列店があるようですが、「輝道家」ってどっかで聞いたことがあるなぁ~。

最初は「王道家」系かと思っていたのですが、調べてみたらあの「大輝家」の姉妹店で、ということは、「桂家」を源流としていますので、「野中家」もまた、本流になりますかね。

昼のピーク時は過ぎていたので、座れることは座れました。

チャーシューには煮豚と燻製チャーシューの二種類がありましたが、今回は燻製チャーシューをチョイスして席に着きます。しかし、注文してから1個単位で作るようなので、時間ばっかりかかっていた感じがしました。

 

始めの一口ぃ~

 

あっ、この味は「大輝家」の味ですね。

スープの色も本来の家系ラーメンのそれとは異なるんだけど、味は何処となく家系なんですよ。あれが不思議ちゃん。

 

 

麺・・・△

「野中家」が刻印された木箱を使っていたので、そこは「大輝家」と同じなんだけど、酒井(製麺)に似てなくも・・ない。でも、わざわざ酒井製麺が別の店舗をブランドにして作るか?

モッチリした食感は好感が持てるけど、あたしゃ「麺固め」で注文したんだよっ! 全然ヤワヤワじゃん。

 

 

チャーシュー・・・△

燻製チャーシューということで、ちょっとだけ期待しました。

食ってみると「吉村家」のそれに味が似ていました。しかし、ガチガチじゃん。歯で噛み切れないんですよ。

あたしゃ、「麺固め」でオーダーしたけど、「チャーシュー硬めで」とはオーダーしていない。

 

 

玉子・・・○

最初の一口、「ただの茹で玉子じゃん」って思ったんですが、段々と熟し加減が及第点になり、味がハッキリすると評価は1個上がりました。

 

総合評価・・C1

 

うん、結局は「大輝家」と同じになるんですね。

スープはまあまあ良かったんだけど、麺の茹で加減とチャーシューがあれじゃあ、評価は伸び悩みます。

(当初の昼食の計画だった)カレーが恋しいです。

 

9月に開業60年を迎えた東京モノレール。

今も昔も羽田空港へのアクセスを重要使命としている路線ですが、私にとって東京モノレールといえばこれ。

実質的に2代目の車両となる500形です。

 

今でこそ、東京モノレールはJR東日本の傘下に入り、JR東日本グループの一員となっていますが、開業当初は日立製作所の子会社で、正式な社名は「日立運輸東京モノレール」でした。これは、アルウエーグ式と呼ばれるコンクリート製の軌道上をゴムタイヤの台車を用いて走行するシステムを採用したことに端を発し、日本では日立製作所が開発に携わっていました。それが関係して子会社の日立運輸に経営を一任したのが社名の由来。また、一足先にアルウエーグ式を採用した名古屋鉄道からも乗務員の習熟等を目的として社員を出向させ、1965年まで経営にも参画しました。

1981年に社名から「日立運輸」が外されましたが、日立製作所が株式の大部分を持っていたことから、日立色は変わりませんでした。その状況に変化が生じるのが2002年。

日立物流が保有する株式の70%を東日本旅客鉄道(JR東日本)に譲渡し、JR東日本が筆頭株主になります。日立グループはさらに日本航空や全日本空輸(全日空)に株式の一部を譲渡し、日立色が次第に薄れていきます。

 

東京オリンピック開会前の1964年9月17日に浜松町-羽田間が開業しましたが、その当時の羽田駅は現在の天空橋駅です。その当時の羽田は空港を抱える漁村で、空港から一歩離れると、かつての漁師町を偲ばせる素朴な風景が点在します。羽田空港へはもう1本、京浜急行空港線があり、1956年には羽田空港駅が開業していますが、「羽田空港駅」とは名ばかりで実際にはアクセス機能は殆ど無く、京浜急行の小型バスが羽田空港駅から空港ターミナル(旧)までピストン輸送していました。京浜急行も1998年に天空橋駅へと改称しています。

 

開業当初の東京モノレールは浜松町-羽田間に駅が1個も設置されていなかったそうですね。

 

天王洲アイル駅 1992年 6月開業

大井競馬場前駅 1967年 6月開業(1965年に臨時駅として開業)

流通センター駅 1969年12月開業(開業当初は新平和島駅)

   昭和島駅 1985年 2月開業(それまでは昭和島信号所)

   整備場駅 1967年 3月開業(開業当初は羽田整備場駅)

 

あくまでも羽田空港へのアクセスを最優先にしていたのと、当時は沿線に何もなかったことなどから、駅は不要と考えたのでしょうね。

小学生の時に初めて乗りましたけど、当時は天王洲アイル駅は無かったので、浜松町と大井競馬場前がすんごい長く感じたのを思い出します。

 

一時は経営危機に陥りますが、モータリゼーションの発展で道路網が発達すると、それが逆に渋滞を引き起こす要因になり、渋滞知らずのモノレールは次第に支持されるようになります。ただ、前述の京浜急行が空港ターミナルに乗り入れるようになり、さらにそれまで実施されていなかった京浜急行本線との直通運転が開始されて、都営地下鉄浅草線を介して都心から羽田空港まで行けるようになると、再び立ち位置が怪しくなります。そこに目を付けたのがJR東日本で、筆頭株主になると抜本的なテコ入れを実施します。JRの浜松町駅からダイレクトにモノレールの浜松町駅に行けるようにして、京浜東北線の快速を浜松町に停車させ、2004年からはモノレールの快速運転も実施しました。

 

前置きが長過ぎましたが、イメージ的に今でも東京モノレールの主役と勝手に思っている500形は、開業時の100形、200形、300形、350形を置き換える目的で1969年に登場しました。

この4形式は1978年までに全廃されていますが、1両当たりの車長は10mで、当時から6両運転は実施されていたものの、年々増える利用客を捌くだけの収容能力はありませんでした。しかも台車は二軸で乗り心地に難があることから、これを改善して大型化したのが500形です。

500形は2両固定でこれを3組くっつけて運行に就いていましたが、1両当たりの車長が15mとそれまでの4形式よりも5m延び、乗り心地改善のためにボギー台車にするなどして輸送力増強に大きく貢献した車両です。また、赤白のボディカラーを最初に採用したのも500形で、従来の4形式も同様の色に塗り替えられた他、近年では2014年に開業50周年を記念して、1000形に赤白の復刻ラッピング車がお目見えしたことなどから、今でも馴染みはあると思います。

 

その1000形に置き換わる形で1991年までに全車が “卒業” しています。

 

JR東日本の子会社になったのは良いけど、そのJR東日本も遊休化している貨物線(大汐線)を再活用して、羽田空港アクセス線として現在、整備が行われていますが、同時に東京臨海高速鉄道りんかい線も車両基地への入出区線を介して羽田空港へのアクセス機能を持たせようとしています。そうなると、東京モノレールの立ち位置はどうなるのか、注目はそっちに集まることも。一時期「東京モノレールを新橋駅や東京駅に乗り入れる」構想もあり、天王洲アイルに代表される湾岸部の再開発なんかも手伝って、羽田空港へのアクセスからそこへの通勤客輸送へと使命を変えるのでは? という話も聞こえたりしています。芝浦とか海岸とか、港区の海沿いもマンション建ちまくりですもんね。そことの線引きも今後の課題になりそうですね。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

ウィキペディア(東京モノレール、同羽田空港線、アルウエーグ式、名古屋鉄道犬山モンキーパーク線など)

9月24日(火曜日) 曇り

 

「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、ホントに彼岸明けは一気に涼しくなりました。

朝の通勤は歩いて駅まで行けましたし、日中の仕事も死ぬほど汗を掻かなかった。「やっと」の思いと、「寂しい」の思いと今の私の心中は二分されます。

 

そんな中、明日は有休です。

最初、9月27日に有休を入れて、少し遅い夏休みを企てていました。したら、何でか、27日の休みを25日に変更したんですね。用事があったから(有休を)25日に変更したと今でも思い込んでいます。

しかし、その用事が何だったか、思い出せない。今もなお、「何で(休みを)入れたんだろう?」って喉元が閊えています。

 

「思い出せない」といえば・・・

 

「まことさん、私、思い出せない・・」

「何言ってんだよっ!? しのぶちゃんっ!」

 

これは1979年に制作されたドラマ「赤い嵐」の名(迷)セリフですが、皆さんは能瀬慶子というアイドルを覚えていますか?

「知っている」という方は、昭和アイドルに関してかなり “通”。(笑)

素人丸出しの棒読みセリフが強烈なインパクトを残した能瀬慶子氏は1978年に芸能プロダクションのオーディションで優勝して芸能界入り。翌1979年に「アテンション・プリーズ」で歌手デビューしました。1963年生まれというから、今年61歳になります。

しかし、所属プロダクションは能瀬氏の後輩にあたる甲斐智枝美氏や比企理恵氏を推すことに専念し、能瀬氏は1983年に芸能界を引退しました。

 

一時期は「あの人は今」に代表される追跡系バラエティ番組の “常連” になっていましたが、最近は追われることも無くなり、まぁ、某動画サイトでうPしていれば、近況等も判るんでしょうけどね。

能瀬氏と同期になる比企氏はこないだ、俳優の伊藤かずえ氏の動画サイトに出演されていましたし、井上望氏はご主人であるエド山口氏の動画サイトに月一で出演しています。甲斐智枝美氏は何年か前に冥界に旅立たれてしまったんですよね。倉田まり子氏はスキャンダルに巻き込まれて姿を消してしまいました。

 

「赤い嵐」は観てみたいけど、能瀬慶子氏は今何処・・・?

 

仙石線の旧型国電です。

仙台-石巻間48.5kmを松島湾沿いに走る仙石線は、東北地方唯一の国鉄直流電化区間だったため、長年東北本線との “交流” がなくて孤立した路線でした。陸前原ノ町から先を地下路線にして、仙台の中心街まで線路を延ばし、あおば通駅が開業したのは平成12年、線路が並行する東北本線の塩釜-松島間、仙石線の松島海岸-高城町間に短絡線を設けて東北本線と仙石線の直通運転を開始、「仙台東北ライン」が開業したのが平成27年、21世紀になって飛躍的に利便性が向上しましたが、それはいずれも民営化後の話。国鉄時代は至極普通のローカル線でした。それでも松島や石巻といった観光地を抱え、仙台周辺の通勤通学客を捌くことから国鉄代々の通勤用車両を投入し続けましたが、20m級車両を本格導入したのは比較的近年の話で(それでも50年以上は経っていますがね)、それ以前は17m級車両が活躍していました。

 

72・73系というと、一部を除いて「ぶどう色」と呼ばれる茶色がメインでしたが、仙石線は山手線と同じ「うぐいす色」と呼ばれる黄緑色を採用。広島の可部線も黄緑色に塗りましたが、識別するなら前面の警戒帯。仙石線は画像のような黄色、可部線は前面窓から下を朱色に塗っていました。

そして仙石線の72・73系と言って忘れられないのが延命改造。下回りはそのままに、103系と同じ車体を新製して載せました。いわゆる「アコモ改造車」というやつですが、 “鉄” じゃない仙台の利用者は「新車が入ったべ!」と真に受けて歓迎したという風の噂を耳にしたことがあります。昭和54年に “本物” の103系が入線してそこで初めて「騙されたっ!」と気づいたとか気づかなかったとか。

 

いずれにしても、103系の投入で未改造車は廃車の運命を辿るのですが、アコモ改造車は国鉄末期直前まで生き残り、昭和60年の川越線電化時に車両が必要になった際、このアコモ改造車を再利用し、今度はモーターや台車といった下回りを “本物” の103系のそれに挿げ替えて、名実ともに103系の仲間になって仙台を去りました。

 

現在はJR東日本では最後の205系運用線区になりましたが(注1)、可哀想に今もなお、純然たる新車がまだ投入されず、いつも首都圏のお旧を押しつけられる仙石線(注2)。

そろそろね、205系に代わる新車を投入してはどうですか?

 

注1:南武支線用の205系が運用復帰したという噂が・・

注2:仙台東北ラインのHB-E210系は除く。

   何故なら「仙石線の車両」? それとも「東北本線の車両」?

   判別がムズいから。

 

 

【画像提供】

ク様

【参考文献・引用】

JR時刻表2024年4月号 (交通新聞社 刊)

ウィキペディア(仙石線、JR東日本HB-E210系など)