
夕陽を浴びて一路、九州へ向かう寝台特急「みずほ」。
JRになってブルートレインは何回か乗車しましたけど、ブルートレインが時代の寵児になっていた頃は家族で大きな旅行をしたというのが無く、身内にも東北だ九州だというのが無かったので、国鉄時代のブルートレインに乗ったことはありませんでした。
画像は熊本・長崎行きの下り列車で、大森駅で撮ったと思われますが、当時の「みずほ」は東京駅を17時に発車していたので、これだけ明るいということは、夏場の撮影でしょうね。
そしてこれから始まる「夢の時間」に、歓喜溢れる車内の様子も見えてきそうな気がします。特にガキどもはね。憧れの列車に乗れたことの喜びは例えようがありませんからね。夢にまで見た寝台に陣取り、夕景から次第に陽が落ちて、仕事を終えて家路に就く疲れた通勤客を尻目に食堂車で食べる食事はまた格別だったことでしょう(失礼だね)。
当時、世間的には「食堂車の食い物は不味い」と不評でしたが、コックさんは揺れる車内の中で出来たての温かい料理を提供しているわけだから、「不味い」と言ったらバチが当たります。ウェイトレスさんを含めて食堂車の労働は過酷です。
そして気がついたら寝息を立てて寝ており、機関車の時折奏でる泣き叫ぶような響き(ホイッスルのことね)と列車の轍音が子守歌で、列車自体は闇の線路を走り続けます。
山陽路を西に走り続けると、次第に夜が明け始め、下関に着くと最初の機関車交換。青色のEF65から銀色のEF30もしくはEF81 300にバトンを渡して、列車は関門トンネルに入り本州と別れます。下関-門司間は乗っているとホントにあっという間で、門司に着いて二度目の機関車交換。今度は赤色の機関車が先頭に立ちます。ED76が主力ですが、昭和50年代だとED72やED73もいました。小倉で「富士」と分かれ、博多が終点の「あさかぜ」、鳥栖で「はやぶさ」と分かれ、さらに「みずほ」は鳥栖で熊本行きと長崎行きに分かれます。長崎行きの「みずほ」と「さくら」は長崎本線に入り、肥前山口で「さくら」が長崎行きと佐世保行きに分かれて、それぞれの目的地に向かうというのが昭和国鉄時代における東海道ブルトレの行程でしたが、良くも悪くもそれを毎日毎夜運転していたのだから、ただただ「凄いな」と思うだけです。今の「サンライズ」も同じ事が言えますが、まだ運転距離は九州ブルトレよりも短いです。因みに、昭和55年10月改正時における「みずほ」ですが、熊本着が11時25分、長崎着が12時15分でした。「みずほ」に限らず、この段階で夢にまで見たブルートレインの感想は「疲労」「見るだけでいい」に変わるのです。そうなると、関西ブルトレや東北ブルトレの方がブルートレインを含めた夜行列車のアイデンティティがあるのかなって、今になって思えばそう感じます。プラスあれで個室を含めたホスピタリティの高い車両を投入したら、夜行列車の勢力分布図は大きく変わっていたかもしれません。
エル特急も昭和の鼻たれ小僧には羨望の列車でしたが、近寄りやすいという意味で言えばエル特急の方がまだ敷居が低かったかな? ブルートレインはやっぱり異次元の列車でした。
昭和50年代、東京駅発の九州方面行きブルートレインはどれも人気列車で、寝台券もプラチナチケット化していました。ただ、今の「サンライズ」と比較すれば、列車の選択肢が多かったので、プラチナチケットといっても目先を変えればどれかには乗れたとのこと。
例えば博多まで行くとします。東京-博多間は「あさかぜ」の他に、「さくら」「はやぶさ」「みずほ」とありましたので、「あさかぜ」が売り切れても、列車を拘らなければ「さくら」「はやぶさ」「みずほ」で敗者復活が出来たのです。盆暮れ等々の繁忙期に4列車全てダメでも、それこそ目先を変えて、名古屋まで新幹線で行って、そこから「金星」に乗るとか、新大阪まで行って「明星」「あかつき」「なは」に乗り換えるという手法もありでした。今はそれが出来ないから、コンピューター相手に見えない椅子取りゲームを毎回展開することになります。
昨今、各鉄道会社では「夜行列車体験」と称するイベントを企画したりしていますが、私は「どうでもいい」。
本来の意味とは思想がかなりかけ離れているからで、企画そのものに無理があるんだと思っています。でも、諄いほど申し上げていますがせめてJR東日本、JR西日本、JR九州で所有している「クルーズトレイン」やJR西日本の「銀河」はJRで協議してもらって直通運転を実施して欲しいですね。
皆さんのブルートレインの「思い出」をお聞きしたいですね。
【画像提供】
タ様