6月に北海道函館に行った際に、函館山の要塞跡を見てきましたが、要塞跡を見たかったモチベーションはやはり廃墟萌えでしょうか。特にレンガ設備の廃墟はかつての人々が積んだんだなという独特の存在感と雰囲気で萌えます。

 その自分の廃墟萌え性質に気づいたのが、下関の要塞・砲台跡を見たときでした。

 5年前の2019年に、出張中の下関で半日ほど空いた時間で壇ノ浦をぶらぶらしてたら、裏手の山に「火の山公園」という国立公園があり眺めが良いというので行ってみることにしました。場所は↓の赤丸のあたりです。

                                                         ©google map

 山の上の公園まではその名も「火の山ロープウェイ」で行けるというので、平日の昼下がり、貸し切りのロープウェイで上って行きましたよ。

 以下、5年前で記憶も薄いので写真を羅列します。

 

 ↑火の山ロープウェイの下の駅「壇之浦駅」

↑上の駅「火の山駅」から、関門海峡(壇ノ浦)、関門橋が眼下に。

 

展望台まで上がってみると更に良い景色。

↓南西方向

↓北東方向

 

 火の山公園内を奥に進んでいくと、遺構らしきものが出現↓

解説版によれば「火の山砲台跡 第3砲台 24センチカノン砲座」とのこと。

砲座自体は右のバス回転場にあったようです。

↑戦艦大和の砲弾

 この砲台跡には関係ありませんが、銘板によれば、中国火薬(株)が瀬戸内海で、引き揚げたものとか。1958年に下関博覧会に出品された後、火の山ロープウェイ開通を機に、ここに展示されたようです。

 大和の主砲弾に思いもしないところで会えました。大和の46㎝砲といえば男の子にとってはとても有名なものの一つですが、現物となると話は別ですからね。

 全 長 :1.95m

 重 量 :1,740kg

 最大射程:42,000m

 

「第4砲台 堡塁砲台」

 

↓ここから下は、すみません解説文もなく記憶もなく本当に羅列になります。

↑おそらく弾薬庫等の設備だと思われます。

 

↓少し離れた場所にポツンとあったと思います。

↑第三号と読むんでしょうか?

入ってよいのかしらんと思いつつ、立ち入りを制限するものが何もないので中へ

↑入って振り返るとこんな感じ。なんだか、ザワザワ・ドキドキしました(萌えですね)。夜は来られませんね。

↓奥には丸窓が

↓覗くと

 北東方向、海峡入り口が見えました。

 

 全く、その存在を知らずに行ったのでよりテンションが上がったのでしょうか、とても印象深い場所でした。

 函館の要塞跡に比べると、アクセスしやすく保存状態も良かったです。

 

 戦国時代の城跡も良いですが、近代日本の遺構もまた少し違った感慨を受ける気がします。他の場所も調べて機会を作って行ってみたいものです。

 

 折角なので壇ノ浦の写真も少し列挙↓

左:源義経「八艘飛び」 右:平知盛「碇潜(いかりかづき)」の像です。

 

大きっくて圧迫感のある「関門橋」

海峡の潮の流れは本当に早くて「川」でした。

幕末、長身藩などに使用された砲(多分レプリカ含む)も並んでました。

歴史の濃い海峡です。

 

↑タイミングよく豪華客船も通過 「はなてー!」

 

 

 北海道の旅も6日目。今日は苫小牧からフェリーに乗って明日はおうちの予定です。

↑朝の洞爺湖です

 洞爺湖と一体になれる朝風呂に浸かって、朝食バイキングでおなかを満たして9時過ぎに宿の洞爺サンパレスを出発。

 フェリーの出発は18:45なので、17:00くらいには乗船開始、それまでにチェックインを済ませるので余裕を持つと16時くらいに苫小牧に入る感じ。正直、それまではノープラン。時間に余裕はあるし、折角なので洞爺湖の遊覧船に乗ることにしました。

 CX-30号を洞爺湖温泉街中ほどの桟橋近くの駐車場に止めて桟橋まで徒歩数分。

 桟橋に行くとすでに船がいて5分後の9:45出発とのこと、チケットを買ってそのまま乗船。よって、すみません乗船前の写真がありません。

 乗船後、振り返ると温泉街の向こうには有珠山が見えます。

 ちなみに、手前の三角帽子と旗は遊覧船の一部です。

↑カモメの向こうの山の上にうっすら写っている建物は、サミットが開催されたウィンザーホテルです。城ですね

↓そして洞爺湖とその中島。

 

 遊覧船なので、てっきり湖をぐるっと回って帰ってくるんだと思っていたら、この中島へ行って帰ってくるんだって知ったのは、出港してからでした。

 船の周りというか船自体にカモメさんがとまってたりしますが、そう、船のお客さんが餌をあげるのが恒例になっていたんですね。

 

「餌は?」っと↑カメラ目線なヤツ

↑餌にダイブするヤツラ

と、いってるうちに島が近づいてきました。

 

↑手前は弁天島だそうです。

↑弁天島と観音島のあいだから見ている三角の山、あとから分かったのですが昭和新山です。

↓そして、中島の桟橋が見えてきました。

 中の島にいったん停泊して、30分後には別の船が来るというので一旦降りることにしました。

↓乗ってきた船はこんな感じ、ここでは白鳥がお出迎え。

 

中島は、喧噪とは隔絶された世界で鳥と虫の声しか聞こえない世界。残念ながら、時々草刈り機の音がしてましたが・・

↑「洞爺湖八景」の看板とともに。湖の向こうに有珠山と昭和新山、看板のうえに乗ってきた船がいますね。

 森の中には自然博物館もあるそうなのですが、さすがにそこまでの時間はないので、コーヒーを頂いてつかのまのんびり。自然の中でのコーヒーは至福のひと時。

 

 やがて、お迎え?の船が来たので移動。

↑来た時と違ってシンプルな船「羊蹄」ですね。

 

温泉街に帰ってくるとまた、「洞爺湖八景」の看板が↓

 とりあえず八景中二景は撮ったことに・・・

 ↓湖畔にはこんな方々もいらっしゃいました。

 後知恵ですが、この週末は「TOYAKOマンガアニメフェスタ(略して「TMAF」)」がひらかれていたようで、コスプレイヤーが沢山いらっしゃいました。オジサン的にうれしい仮面ライダーもいましたよ。これはこれで楽しいかもですが、残念ながら先を急がないとです。この時点で11:25です。

 

 コスプレイヤーでにぎわう温泉街を後にして、県道703号を海に向かって落ちていきます。すると11時の方向に、湖から見えた昭和新山の頭がちらほら。少し進むと「←昭和新山」の道路標識が出てきました。

 「昭和新山」というと、小学校or中学校の国語の教科書で素人ながらその造山の様子を観察した人の話が記憶にあります。糸を水平に何本か張って、成長していく山の高さを測ったという話を子供ながらになるほどーと感心した記憶が・・・

 時間はないけどこれは見ねばなるまいと、左折。

 そこには思った以上に近い距離に中腹から煙をあげる生々しい新山が↓

 

 

↓そして、いらっしゃいました。教科書の中のヒーロー。

 壮瞥郵便局長の三松正夫さんです。教科書以来、お久しぶりです!

 解説文によれば昭和新山の造山活動は昭和18年暮れから20年9月にかけて、まさに第二次世界大戦の混乱期で報道も規制されていたとのことです。三松局長、お疲れさまでした!ちなみに三松さんの向こうの山は有珠山でロープウェイの駅も見えます。

 ↓そして思わず記念撮影

 

 さて、思わぬうれしい寄り道をして再出発。この時点で12時ちょうど!

 次の寄り道先は室蘭の「地球岬」にしました。

 結果的に今日のポイントは下記の通り

                                                                                            ©google map

オレンジ〇が「洞爺湖温泉街」、赤矢印が「昭和新山」、青の横←が「地球岬」、そしてたて青矢印が苫小牧フェリーターミナルです。

 

 先ほどの県道703号から、ナビに従ってぐにゃぐにゃっと走って海沿いの国道37号へ入り、室蘭方面へ南下。

 地球岬のある絵鞆(えとも)半島へ渡る「白鳥大橋」を渡ります↓(上の地図でも湾の入り口部分に縦にピッとみえますね)

 

12:42 地球岬の駐車場へ到着。

 地球岬は室蘭の絵鞆半島のさきっちょ。噴火湾の北側の仕切りみたいな場所になります。海に突き出した岬なのでさぞかし眺めがよかろうと期待していったのですが・・・

 これまで天候に恵まれて来たのですが、霧!英語でいうとfogです。

 見通し利かないし、空と海の切れ目が全く分からない状況。残念ですがこればっかりは仕方ありません。

 

↑灯台の入り口「チキウ岬灯台」とあります。

 海が丸く見えて地球を感じられるから「地球岬」なのかと思ってましたが、アイヌ語で「ポロ・チケップ(親である断崖)」という地名が訛って「チキウ」になり「地球」の字があてられたんだとか。

↓展望台に上がっても真っ白

↓仕方がないのでこんな記念写真でフォロー

 

 この時点で13時少し前、そうですお昼ごはんがまだなんです。

 うれしいことに地球岬の駐車場わきには売店・食堂があったので、私は真ん中の店でジンギスカン定食、かみさんは左の店で豚まんと串つぶを食しました。

 函館で、ラム肉は頂きましたがジンギスカンには至らなかったので思わず注文。運転があるのでビールとは行きませんでしたが、白飯にも合うので大満足でした。

 かみさんの方は↓なかんじ

 肉まんとつぶ貝の串焼きです。お店のおばちゃんに、揚げ芋(フライドポテト?)をサービスしてもらったそうです。

 

 お昼を食べて、13:23地球岬の駐車場を発進。あとは、ひたすら苫小牧を目指します。70kmくらいの距離でしょうか。

 発進して間もなく岬からの坂を降りた突き当りに「母恋」という駅がありました。「ははこい」と言うのかと思ったら「ぼこい」。北海道にはかつての「幸福」駅など変わっていて意味ありげな駅名がありますが(すみませんてっちゃんではないので全く詳しくないですが)この駅名は初めて知りました。

 後知恵ですが、やはり名前の由来はアイヌ語で、ホッキ貝の意味である「ポクセイオイ」もしくは、陰になるところの意味の「ポクオイ」が元ではないかとのこと。駅弁「母恋めし」が気になりす。

 

 その後国道36号線に入り順調に走行、北海道一晩目の登別市、最初の訪問地ウポポイのある白老町などを通過し、14:30くらいには苫小牧市に入りました。

 来るときの船で、夕食、朝食が高かったのと昼もがっつり食べたので、コンビニで食料調達してからフェリーターミナルに向かいました。

 この時点で15:25。少し早すぎましたが、どこかに寄れる時間もないのでターミナルで待機です。

 

 

 端末でチェックインを済ませて、乗船券&ルームキーをゲット↓

 

17:30過ぎに乗船↓

帰りは、船のおけつ(艫(トモ))から入ります。

中は↑こんな感じ。船の3階に入って4階に上がって駐車でした。

↑こんな納まりです。

 

 帰りの部屋は少しケチって、和室にしましたが来るときと違ってだいぶ狭い。まーこれでも以前の雑魚寝に比べれば上々かな。

 船は定刻の18:45出港!いよいよ北海道にお別れです。さようならー泣くうさぎ

 

 船が沖に出たところで風呂に浸かって汗をながし、それからビールとつまみで夕食をすませて、バタンキューです。来るときほど揺れも気にならなくなりました。

 

 翌朝は6時くらいからウロウロ、天気は弱い雨が降ってる状況。

 来るときは気が付かなかったけど、こんなディスプレイもあったんです。

 岩手沖を航行中ですね。 

 顔洗いついでに海を見ながらの朝風呂に入って、パンと牛乳の健康的な朝食。部屋ではなく、ラウンジスペース↓で頂きました。牛乳は船内で売っている北海道牛乳です。

 船旅もだいぶ慣れてきました感じです。慣れたころおわりですが・・

 

その後も順調に航走を続けて、大洗港に入港です↓

13:30くらいです。

定刻の14:00より少し早い13:45に接岸。

14:20には下船開始できました。

 一週間ぶりの本土です。

 正面やや右に見えるピンクのオブジェが載った建物は、「めんたいパーク大洗」です。かえって夕飯作る元気ないので、めんたいぱーくで「明太ぶたまん」を買って、あとはスーパーでお惣菜とビール買って終了。

 16:09全行程終了でつくば自宅到着 お疲れさまでしたーうさぎのぬいぐるみ

全走行距離は733km フェリーが片道約750km なので、全行程約2233kmの旅でした。なお、数日後に車に燃料を入れた結果が↓

燃費は約22.3km/ℓ、流石北海道の旅、CX-30号の低燃費と信号が少ないカントリーロードのなせる業です。

 

 さて次回は何時行けるやら・・・

 北海道、函館の旅も5日目。今日は函館を離れる日です。

 一時期、江差まで足を伸ばして復元した「開陽丸(戊辰戦争時の旧幕府軍の戦艦)」など見るかという意見もありましたが、函館もまだ見てない部分もあるので次の機会?に譲ることにして、予定通りのままとしました。

 で、午前中は函館の残りの各所を回って、午後は宿泊地の洞爺湖へ向かうことにしました。

 各所回るのはよいけど、まずは食事面でのリベンジをしないとです。昨日は、ちゃんと食べる元気と時間がありませんでしたので・・

 よって、朝は朝市広場へ行って念願の、「うに・いくら丼」を!

 やはり、北海道のどんぶりはこれですねー。

 学生の頃(40年位前(書くのもおそろしい年月))北海道に来てその時食べそこなって、やっとのリベンジ果たしました。ウニもいくらも新鮮でうんまい、これですよ!

 超満足して、広場から出て市場通りへ、今度は「かにまん」が目に入りました。

 お買い上げで頂きましたよ。

 こちらもカニの香りと味&ほくほくで美味しかったです。

 これもリサーチ不足ですが、函館はイカ推しなんですね。

沿道にいかが多量に干してあるし、店内イカ釣りもできるし、マンホールもイカでした↓

 

 デザートに北海道メロンを頂いて、大満足の朝食完了です。

 

 ホテルに戻って、朝食会場で食後のコーヒーを頂き、荷物をまとめてチェックアウト。2日ぶりにCX-30号のシートに納まって出発です。

 今日は、函館山近くの元町地区(下の地図の赤丸あたり)、「旧イギリス領事館」「旧函館区公会堂」、その少し北の「称名寺」(同赤矢印)、最後に南に行って「立待岬」(同青丸の場所)を最後にして函館から撤収する予定です。

                                                          ©google map

 ホテルの前の道「開港通り」を南西に進んで、市電の通りにぶつかって右へ。昨日の八幡坂を通り過ぎてから左へ折れて市営駐車場に車を突っ込むと「旧イギリス領事館」はすぐ近く。

 

 門を入って、まずは建物の周りを右回り。小ぶりなイングリッシュガーデンって感じですか?

 

 

 解説によれば、この建物は1913年(大正2年)に竣工し1934年(昭和9年)に閉鎖されるまで領事館と使用されていたそうです。ただ、函館のイギリス領事館は1859年(安政6年)にはあったそうで、最初は後に行く「称名寺」に間借りしていたとのことです。

 チケットを買って建物の中に入ると

 

 そこはイギリス??

↑領事執務室&家族居室だそうです

 

↑暖炉の上には当時の君主「ビクトリア」の肖像

 

↑ここは会議室で、現在も借りて使うことが出来るようです。web会議とは正反対の世界ですね。

 

 その他、展示物の中には「高田屋嘉平」のものもありましたよ↓

 司馬遼太郎読みの方にはおなじみかも知れませんが「菜の花の沖」の主人公ですね。見てないですがドラマ化もされていました↓

 松前・函館は彼の活躍した場所でもありますね。

 

↓サービスコーナーです 気分は君主??

 

 えー 失礼しました。

 

 次は少しイギリス領事館より少し坂を上がって左側の「旧相馬家住宅」へ行って、和のテイストはいかがかと思いましたが、入場料が高いのと時間もないので外から見るだけで通過させて頂きました。すみません。 

 この時点で10時20分です。

 

 旧イギリス領事館の前の道(基坂と言うようです)へ戻って、坂を登るとそこに「旧北海道庁函館館支庁庁舎」と、「旧函館区公会堂」があります。 

↑旧函館支庁舎。ペパーミントグリーンの綺麗な建物。1Fはカフェとして使われています。

↓2Fは広々ラウンジに

 

↑そこに飾ってあった、1882年(明治15年)当時の写真だそうです。アングル的には摩周丸のあったあたりからの眺めでしょうか。すでに函館山まで建物が一杯ですね。

 

 次は、「旧北海道庁函館館支庁庁舎」です。

 下から見るとこんな感じです↓ 後ろに函館山をしょっていいロケーションですね。

 

↓階段を上るとこんな感じに

 西洋風の建物なので、円柱の柱とか石かなと思いましたが、すべて木で出来ているそうです。2回の大修理を経て今日の姿があるそうです。

 創立に当たっては、先ほど見学をすっとばした相馬家も絡んでいるとのこと。開堂は1910年(明治43年)。昭和初期には芥川龍之介が講演をしたそうです。これまでに2度の保存修理を経て現在の姿を保っているとのこと。ブルーの壁に黄色のアクセント、素晴らしいですね。

 チケットはイギリス領事館と共通。中に入ると

 白壁と程よく焼けた木製建具のコントラストが良いですね。

 扉の真鍮製丁番も昔のままのようです。そして木ねじも、今時-(マイナス)頭の木ねじなんて無いですもんね。

 

 ↑2Fの大広間、ゴージャス! 紳士淑女がパーティで踊ったりしたんでしょうね。

 大広間の左にはバルコニーがあって、そこからは函館港が見えます。

 このバルコニーで、夕方から宵にかけて明かりが見える港を眺めつつグラスを傾けて、グラスの向こうでははにかんだ顔をうつむけたあなたが頬を染めて・・・ なーんてチキショーですねまったくも~ (こう書いて、「ガルマとイセリナ」しか思い出せないおじさんは何かの病気かしら)

 

 閑話休題

 

 いずれにしても、幕末から開港して西洋の文化に接した函館の街は、教会や領事館など早くから西洋風の建物が山の手に建っていたことを改めて知りました。それは、規模は違えど横浜や神戸などと同じなんだなーと思いつつ、元町を後にしました。

 時刻は11時過ぎ 

 駐車場に戻って、CX-30号で少し北方面に上がって、「称名寺」へ向かいます。

 場所的にはこれ以上北へ行くと海に落ちこんでいく斜面になってしまう、南西側は函館山の斜面になってしまうというあたり。

 その入り口です↓ 

 先ほどもあったように、安政6年にはイギリス領事館が間借りしていたお寺なので古いはずなのですが、思ったより、綺麗で改築がされているようです。

 本堂は↓な感じで、全体的に象牙色で日本のお寺っぽくないですね。

 

 ここに来たわけは↓です。 

 土方歳三さんの慰霊碑です。土方さんの他、やはり戊辰戦争(函館戦争)で亡くなった4名の方の名前も見て取れます(合掌)。

 司馬遼太郎の「燃えよ剣」によれば、この碑を建てたのは大阪の富商鴻池善右衛門の函館支店の支配人大和屋友次郎だといいます。戊辰戦争前、大阪の鴻池屋に浪人の「御用盗」が入ろうとしたところ、市中見回りの新選組がこれを発見し切り伏せたのが新選組との縁だといい、函館でもいろいろ用立てしたとのことです(現在の鴻池組とは関係なし)。費用は当時の函館市民から出たとのこと。そして、明治15年には歳三に縁のあった”お雪”さんも参ったという、これは”お話し”なのかな・・映画では柴咲コウさんが演じてました。

 その後、火災による焼失などを経て現在の碑(1973年建立)になっているようです。

 碑の近くには、お参りノートの入ったケースも↓

 ノートには沢山の書き込みがありましたが私も簡単ですが”参った”ことを書いてきました。

 

 そして、「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛です。

 嘉兵衛さん、淡路島の生まれで1700年代後半に苦労して廻船(北前船)を生業とすると、その後その操船の技術で北海道、国後・択捉まで進出し良質の昆布・魚肥を大阪まで運んで、大きな利を得たそうです。

 ただ、松前に捕らえられていたロシア人ゴローニンの関係で、ロシアのリコルドにより拿捕されてしまいました。しかし、ロシアを少し覚えて日本との橋渡し役をしてゴローニン釈放にこぎつけ本人も日本に帰ってくることが出来たという、ただの船乗りではなかなかできないことをやってのけた人です。ただこの間、拿捕された日本人数人は病死するという過酷な環境であったことも確かです。その人柄や技術でロシアの船乗りからも「タイショー」と呼ばれ親しまれたそうです。すごく簡単に書きましたが詳しくは「菜の花の沖」を読んでいただければと思います。

 また、嘉兵衛はロシアから帰ってきてから一時期は、この称名寺に留め置かれたこともあるそうです。

↑は高田屋一族のお墓です(合掌)。

 嘉兵衛さんは、故郷の淡路で亡くなり、遺骨も淡路ですが函館にも一族の墓と合祀されているようです。

 お寺の山門からはちょうど、港が見えるロケーションです。

 この時点で、11:30 次は「立待岬」に向かいます。

 

 右から左への勾配を感じながら函館山の東側を南南東へ走って行って立待岬まで20分弱でした。函館の最南端ではありませんが、車で行ける最南端で三方が海です。

↑後ろは函館山ですがここからはロープウェイの駅は見えません。

↓西方向は断崖絶壁です。遠くにうっすら見える陸地は木古内とかその辺だと思います。

 

↑ピントが甘いですが、南には下北半島がうっすら。

↓函館市街はこんな感じに見えます。

↓そして東はこんな感じに見えます。

 

 時刻はちょうどお昼。 

 五稜郭に始まり、3日かけて色々見てきた函館の街。勿論、まだ見てないところもありますが、残念ながらタイムアップです。今日の宿泊地である洞爺湖まで移動を開始しなければなりません。それから、お昼も食べないとです。

 お昼は、来るときの船の中で知らないおじさんから教えてもらった、地元コンビニハセガワストアの「やきとり弁当」と決めていました。その筋では有名らしいです。そういえば一緒に教えてもらった「ラッキーピエロ」のハンバーガーはとうとう食べずじまいでした。歳よりなので足が向かなかったというのもありますが・・・

 CX-30号で走り出し、湯の川温泉近くのハセガワストアで「やきとり弁当」をゲットして、そのまま北上、大沼公園で車を止めて公園内のベンチでお弁当タイムにしました。

 ここも全くリサーチしてなかったのですが、国定公園で広くてボートやグランピング施設などもあり立派でした。お弁当食べるにはもうちょっと小ぶりでよかったのですが、駐車場からそこそこ歩いて小さな橋を渡った島のようなところで頂きました。

↓そして、「やきとり弁当」です。

 やきとりといいつつ実は「豚肉」というのは地元の様々な事情と文化からくるようです。詳しくはハセガワストアのホームページでお願いします。

 なにはともあれ、ベンチ近くにいた蟻さんと戦いながら美味しくいただきました。

後日ですが、このお弁当「鉄腕ダッシュ」で、国分太一さんも食べてました。なんと、焼き鳥の櫛を弁当箱から少し出して、蓋をして引っ張ると具だけが弁当の上に残るという技を使ってました。もっと早く知りたかったー

 

 折角の国定公園の沼をよく見ることもなく、洞爺湖へ向けて出発。時間は14時。

 あえて駒ヶ岳の南を回る少し遠回りのルートを選択しました。

 途中、駒ヶ岳の雄大な眺めを楽しみながら↓

↑は県道43号線を東、噴火湾方向へ走る途中で撮影しました。雄大且つ荒々しい山並みですね。

 

 14:30ごろ、噴火湾に行きついて、国道278に入り駒ヶ岳をぐるっと左へ回り込み、やがて国道5号に入り北上を始めました。あとは単調な道を眠気と戦いながらひたすら北上です↓

 

15:45ごろ、長万部に入る

16:35ごろ、洞爺湖町へ入る。途中で海岸沿いの道路から左を折れて山道を登って洞爺湖とその温泉方面へ。

17:00少し前に、宿の「サンパレスリゾート&スパ」に到着。ちょうどよい時間でした。出発してからの通算走行距離は549km。

 

 部屋は、レイクビュー!ということで窓から洞爺湖と中島が真正面でした。

 夕方でもあり、雲がかかって幻想的でした。ただ、ただ部屋はだいぶくたびれていて値段の割にはねー と、少し残念でした。窓を開けて湖面を渡ってきた空気を部屋に入れようとしてもレバーがぐらぐらで開かない。係の人に聴いたら危ないので締め切りで固定してあるとのこと。防災上大丈夫なのかしらんと思ってしまいました。ロビーやお風呂はとても立派なのですが、改装中だけど手が入り切ってないんでしょうか。

 特にお風呂は最近テレビの旅番組でよく見る、”お風呂の湯面と湖の水面が一体化したような錯覚におちいる作り”で素敵でしたよ。それだけに部屋が惜しい。

夕食会場からも湖が↓  

そのあとには、水上花火もあって楽しませてくれましたよ↓

↑ロビーから鑑賞できます。

 

あとは、部屋に戻ってバタンキュー

以上、さよなら函館編を終わります。

 北海道の旅も4日め、今日は車を駐車場おきっぱにして、青函連絡船記念館、土方歳三最後の地、そしてメインの函館山、行ければ八幡坂、赤レンガ倉庫に行く予定です。

 

                                                          ©google map

 最初は青函連絡船記念館「摩周丸」。場所は上の地図の赤矢印のところです。

 宿は、朝市通りの東横インだったので終わりかけの朝市↓の中を歩いて5分足らずでしょうか。

 

「摩周丸」が見えてきました。煙突には懐かしい「JNR」のマークがあります。

「摩周丸」が横付けされている岸壁は「イカ広場」?になっていて、青函連絡船の錨や、D51の動輪がモニュメントとして飾られていました↓

振り返ると函館山が一望できるロケーションです↓

 

 で、階段デッキを登って船内侵入です↓

 

 ちなみにこの「摩周丸」は?

1965年生まれ(わしより年下じゃん)。三菱重工神戸造船所で竣工。

8327トンで、全長は132m、これは来るときに乗ってきた”さんふらわあ ふらの”より68mほど短いですね。総トン数では6割程度。

 ↑写真の入り口は船の2Fになります。

 入るとすぐに、「近代化産業遺産」「機械遺産」そして「ふね遺産」の認定証が掲示されてました↓

 船内にはその他、展示物が沢山。その一部を紹介↓

↑当時の切符。「35年8月5日 汽船寝台券A上段 720円」なんてのがありますね。「函館⇒東京都区内」や「さよなら国鉄 最終船便乗船証明書 昭和62年3月31日」なんてのもあります。切符切りの挟みも懐かしい。うーん ノスタルジー

↑航海日誌ですね

 

↑はじめてつかわれたディーゼルエンジンの1/20模型。ディーゼルなのに2サイクル?? ↓そのピストン他部品類 でかいね!

 

↑分かりづらいですが、船後部から貨車を出し入れしている模型。今と違って昔は鉄道貨車輸送がメイン。船の中にもレールが敷いてあって、船が付くと陸上のレールと”がっちゃんこ”して貨車出し入れしていた。うーん、実際のこの作業見て見たかったなー

↑2代目羊蹄丸の模型。第2層には貨車がみっちり詰まってますね。

 

↑アクリルケースの反射が入っちゃいましたが、「洞爺丸」の模型です。

「洞爺丸」といえば大きな海難事故として、取り上げられてきたのでその名前は脳に刷り込まれてます。

 起きたのは約70年前の1954年9月26日。台風15号(のち洞爺丸台風と命名)により、函館湾内で沈没し、死者・行方不明者1155名にのぼる事故だったとのこと(合掌)。ただ、初めて知ったのはこの台風で沈没したのは「洞爺丸」だけでなく、貨物船の「青函丸」「北見丸」「十勝丸」「日高丸」の計5隻が沈没して、死者・行方不明者は合わせると1430名に登ったとのことです(再び合掌)。原因は台風の異常性とそれを見抜けなかった当時の気象観測の技術・知識不足だったようです。

 「洞爺丸」の基本諸元は下記の通り

 竣工1947年と戦後まもなくで 総トン数:3898トン、全長118.7m 摩周丸と比べても小柄になります。そして、機関は石炭炊き蒸気ボイラー6缶で蒸気タービン2台2軸とのこと。写真でも分かるように4本煙突で格好いいですね。

 

 「洞爺丸」海難含む一連の展示物を見て、次は4F「船橋」いわゆる「Bridge」(言い直す必要ないか?)に上がりました。普段は入れないエリアなので気分も上がります。

 

 

↑いわゆる舵輪ですね。残念ながら海賊船みたいではありませんが、塗装が剥げて頑張ってきた感があります。

 そして、ここでいきなり元青函連絡船船長だった青井さん登場↓

 航海についていろいろ教えて頂きました。

 私の大きな勘違いを正してくれたのが船のスクリューが可変ピッチプロペラであったこと。微速はおろか、逆進もスクリューが逆回転するわけではなく、ピッチ変更で逆進になること。私は全く勘違いしており、車のようにギアチェンジでプロペラが逆回転するものとばかり考えてました。

 その他、いわゆる港内に入ってから、接岸までわずか10分程度で済ませること(乗ってきた「ふらの」でももう少しかかってたような)。波の荒い時は、波が船首を超えてブリッジの窓を割り、水浸しになって操船していたことなど、聞かせて頂きました。聞きながら、その速さと荒っぽさに「洞爺丸」の海難を本当に反省したのかな?と思っちゃいましたが・・・そういう時代でもあったんでしょうね。

 

 海図を見ながら、公開の様子を説明してくれました。公開の目印になるポイント、波の強弱が変わるポイントなどを教えてくれました。右が本州、左が北海道です。

 元船長からの説明を頂く貴重な体験をさせてもらいました。青井元船長有難うございました。

 

 さらに上に上がるとそこは上甲板、さらに見晴らしが良くなります。

 アップにすると有名な「八幡坂」も↓

↓岸壁では小学生が写生をしてました。この景色であればいい絵がかけることでしょう!

 

甲板の手すりに掲げてあるパネルには江戸時代の様子も描かれていました↓

 江戸末期なんでしょうが、「イギリス領事」や「魯国領事」「ロシア病院」など、海外の施設が林立、一方で翌日行く称名寺の名前もみてとれます。

 

 甲板を後ろへ歩いて後部へ行くと、当時のスクリュー実物が展示してありました。

横から見るとペラの付け根が円形になっていて、元船長が行っていた通り可変ピッチであることが分かりますね。

 

 名残惜しくも「摩周丸」をあとにして、次に向かうは「土方歳三最後の地」

 土方歳三→武蔵国石田に生まれて、近藤勇や沖田総司などと幕末京都で新選組で活躍。大政奉還後も戊辰戦争で旧幕府軍の一員として戦いながら北上し、最後はこの函館で散った、まさに幕末を駆け抜けた喧嘩屋である。(最近某アニメで復活してるらしいが・・)

 その最後の地は、函館駅から八幡通りを少し(300m余)五稜郭方面に北上したところ。五稜郭から南方で孤軍となってしまった弁天台場(今は函館ドック)へ救援に向かう途中に敵弾に倒れたとされている。

 この辺のところ諸説あるのでしょうが、興味のある方は司馬遼太郎の「燃えよ剣」、伊東潤の「維新と戦った男 大鳥圭介」などの小説、岡田准一主演で「燃えよ剣」を映画化したのもなどをご覧になると良いかと思います。

 

 歩いていくと、道端に「土方歳三最後の地碑」の看板があり、そこは小さな公園のようになっていました。↓歩道は工事中でした。

 ↓そして上の写真左奥に碑がありました。

↓そのわきには解説版が

↑解説版に貼ってある紙、ここには「※現在の暦では 五月十一日→六月二十日となります 今年令和六年は、函館戦争から百五十五年目です」と手書きで書いてありました。

 そして、ここを訪れた日は奇しくも6月20日だったんです。ちょっと背中がざわざわしました。先客できていたおじさんも「今日なんですねー」っと感慨深そうにこちらに同意を求めらました。もっともなことです。

 改めて碑に合掌一礼しました。

 

 

 さて、そんな感慨を引きずりながらも、お昼近くなるとお腹が空いてきます。

 正直、旅の疲れと昨晩少しアルコール行き過ぎたので、朝はホテルで軽めの朝食、昼もまだ少し軽めかな?という感じ。でも、折角函館に来たので朝市広場で食べました。私は海鮮チャーハン↓

↑かみさんはいかめしをチョイス シェアしつつ頂きました。当たり前ですが材料が新鮮で美味しかったです。

 

 この時点で13時くらい

 ホテルにいったん戻って、靴をトレッキングに履き替えていよいよ本日メインの函館山に。

 ホテルから少し歩いて、函館市電(路面電車)の「函館駅前」駅に↓(前日夕方の写真ですが)

 SUICAでピッとして乗車、平日昼過ぎにも拘わらず観光客で結構混んでました。

 三つ目の駅「十字街」で下車。ここから歩きです。

↓南部坂という東京にもあるような名前の坂を上がっていくとロープウェイの駅があります。

 

 当初は函館山に「下から足で上がるか」なんて勇ましいこと言ってましたが、あえなく心変わりしてロープウェイのお世話になることにしました。

 そして、ここでもコナン君↓

↓チケットもコナン君 でした

 

13:45山麓駅を発進。↓上昇中 この時間お客さんは我々含め7~8人と少なめ

↑遠くに「五稜郭タワー」海沿いには午前中に行った「摩周丸」。手前には「八幡坂」も見えます。

↓3分ほどで山頂駅到着

 

そして、山頂駅にもコナン君!

ロープウェイの中のアナウンスもコナン君(高山みなみさん)で、全面タイアップですね。私も映画が見たくなりましたよ。

 

 この後、山頂駅の屋上に登り風景を楽しみました。

↑遠くには、来るときのフェリーから見えた「北海道駒ケ岳」も見えます。尖っているのが剣が峰。

↓反対側、アンテナ・海の向こうは下北半島ですね

 

 展望台を降りて裏(西)に行くと広場になっていて、函館山のモニュメント↓

↑とっている方向は北になりますね

↓南東方向、立待岬側はこんな感じです。海には潮目のようなものが見えます。

 

 さて、ここからが大変。函館山には旧日本軍が設置した要塞・砲台跡などが散在。これを見に行くハイキング?です。

 

↑ロープウェイの駅でもらった地図(ポッケに入れて歩いたのでしわしわですが)を頼りにまずは、「御殿山第2砲台跡」へ向かおうと思ったのですが、山麓駅からどっちに行っていいか分からない。案内看板がないんです。しかたなく「旧登山道」という標識のある階段を下っていきました↓

どんどん下っていくと、7合目の標識↓

 流石にこれは下りすぎと少し引き返す途中にあった駐車場の奥が怪しいことに気づきました。駐車場の奥に道があるのですが、バリケードで行けないように、でも近づくと「歩行者可」ですって!

 結局、この道が「千畳敷コース」だったようです。案内看板については改善をお願いしたいです。

 少し行くと右に上がっていく階段があって、この先が「御殿山第2砲台跡」でした。

そして出てきました、廃墟チックな場所が↓

↑丸いところは砲座ですね

 

 ↑奥にも別の砲座があるようです。

 さらに上に登ると、見晴らしの良い横長の丘状場所に出ました。

 ↑向いている方向は南東になります。

 この裏に砲座があるロケーションです↓

 砲座は2×3か所で6つありました。

 解説版によれば1898年から1902年にかけて作られたそうです。日清戦争のあとで想定敵は露西亜ですね。その日露戦争ではここから発砲することはなかったようですが、この存在で函館港は守られたとも言えるそうです。

↑このような状況、28㎝榴弾砲だそうです。

ハイキングコースに下りる道↓

 藪がせまってなんとも趣がありますがちょっとどきどきです。この間であった人は二人のみでしたが、会えた時には安心しました、「あー、他にも人がいるって。

 

 次に向かったのが入江山要塞。

 ハイキングコースから「D入江山コース」に入ったんですが、これがささやぶの中のせまい一本道でさらにどきどき↓

 函館山に熊はいないと聞いては来ましたが、北海道の笹薮だと万が一もあるなーと思いつつ進んでいきました、たった、200mあまりですが我々二人だけなのでちょっと心細かったです。

 ↓そして最初に現れたのがこれ

「八八式(はちはちしき)海岸射撃具砲座跡」だそうです。場所からして、函館港に侵入してくる艦船がターゲットだったんだと思います。

 さらに進むと↓かなり崩壊が進んだ設備がありました。

「入江山観測所」だそうです。

 確かに港が良く見渡せます↑

↓階段を降りていくと

↓下はこんな感じになってました。だいぶ傷んでいて中は立ち入り禁止でした。

↓反対を向くと谷側で、進むと山頂駅が見えました。

 

さて、笹薮のDコースを戻って、再び千畳敷コースへ、ここで時間はほぼ15時。最終目的地の千畳敷要塞跡へは1kmほどの距離、そこから山頂駅にもどるのは2㎞ほどになるのでさてどうするか? 

 朝から歩きどおしでかなりくたびれてきているのと、陽は長いとはいえ見知らぬ山の中だし、と悩みましたがここまで来たのでまずはいけるとこまでと、前進を選択。幸い道は未舗装ながら車が通れるほどの道なので順調に歩を進めて、30分かからず千畳敷要塞入り口へ着けました。コースから右へ外れてやや狭い道をゆるく登っていくと分かれ道が↓

ここで右を向くと↓奥に設備の跡があります。

 ここが、千畳敷要塞跡だとてっきり思ってしまいました。後から分かったことですが、千畳敷の遺構は砲台跡と、指令所跡に分かれており。この場所は砲台跡、分かれ道をまっすぐ進むと指令所跡に行けたのですが、残念ながらここどまり。リサーチ不足と疲労と、早く文化的な施設に帰りたいという思いが強かったです。

 そういわれると前出の御殿山砲台の状況と似てますね↓

 

 右を向くと↓半地下の部分と登り階段があります。

 

↓半地下部分はこんな感じです。

 

↓先の階段を上ります。

↓上った先が観測所跡でした。

 そう基本砲台は海から直接見えない場所に設置して、その上に観測所があり、ターゲットまでの方向・距離を測り弾道計算して砲の照準を定めるんですね。

↓観測所からは函館の街が一望。

↓ロープウェイの山頂駅も御覧の通りです。

 

ここで時間は15時半過ぎ。残念ながら千畳敷指令所跡は気が付けずに、山頂駅に向かって撤収開始しました↓

 山の東側の道を帰ることになるので、この時分陽は陰った状態。人もほとんど通らないのでたまに物音がするとドキドキします。山道途中でクレジットカードが入ったパス居れを拾得。そのまま、駅へもっていって駅員さんに渡しました。一日一善です。

 山頂駅に戻って、コーヒーラウンジに座った段階で16時20分過ぎ、へとへとでした。ソフトクリームが美味しかったこと。

 ここで、夜景になるまで待つことにしました。この時点ではお客さんもまばら。

↓西日ですがまだ明るいです。

 

 午前中に見た「摩周丸」も良く見えます。こうしてみると「摩周丸」のおけつと鉄道のラインが合っているのが分かります。「摩周丸」の右上に左にカーブを描いている長い屋根が函館駅ホームです。以前は「摩周丸」の左側にも連絡船の岸壁があったようです。

↓港の出入り口ですれ違う、「津軽海峡フェリー」。次回があればこれで来ても良いかもです。

 

 この場所から登ってくるロープウェイも見えるのですが、18時くらいから登りは常に満員でお客さんを上げています。気が付くと、コーヒーラウンジも満席です。

 

↓19:15、日没過ぎましたがまだまだあかるい。

 

↓19:25、明かりが目立つようになってきました。

19:36、夜景らしくなってきました。

 この辺でコーヒーラウンジを退散。3時間以上、コーヒー、ソフトクリーム、ザンギとビール一杯で粘りました。席を立ちあがりかけたところで「ここよろしいですか?」と他のお客さんに、窓際特等席でしたからね。

 試しに、屋上展望台に行ってみましたが、すっごい人でとても街が見えるフェンス際までは行けない状況。諦めて、ロープウェイ下りに乗るべく階段を下がっていくと、これまたロープウェイに乗る人の行列が出来てました。夜景パワー恐るべしです。

↓19:51の状況、行列参加中に撮りました。The 夜景です。

 

 本日のメインターゲット函館山を堪能して、あとはぶらぶらホテルに帰りながら八幡坂、赤レンガ倉庫を見る感じに。

 ロープウェイ山麓駅を出て北へ歩くと教会が立ち並ぶエリアに。

↑聖ヨハネ教会

↑カトリック本町教会

 ここからもう1ブロック北へ行くと「八幡坂」があります↓

 午前中とは逆のロケーションで「摩周丸」まで一直線です。明かりが海面に反射してとても綺麗でした。

 坂を下りきるカモメさんのお出迎え↓

 あとは、赤レンガ倉庫街を通ってホテルへ向かいました。

 

 うーん 港町の夜です。

 最後にまた「摩周丸」へ戻ってきました。この時点で20:48。ここからホテルはすぐです。

 えっ、夕飯はどうした? 疲れ切ってどこか店に入って食べようという気力がなくコンビニでおなかにやさしい「牛乳パン」的なものを買ってホテルで食べてバタンキュー。あした取り返します。

 ちなみにこの日のスマホの万歩計は、22,526歩 でした。

 お疲れさまでした。

 登別の温泉で3日目の朝を迎え、当然の朝風呂。7時ころかな

 硫黄たっぷりの極上温泉での朝風呂は最高。平日でお客さんも多くないのでほぼ貸し切り状態です。

 8時前にバイキングの朝食をとって、予定通り9時少し前に出発。

 向かうは、函館! の予定だったんですが宿の人に言われて、”鬼”の由来となった「地獄谷」があるよと言われて、折角だから見に行くことにしました。

8:45:宿出発。この時点で出発からの走行距離は122.6km

 そう、↓国道から右へ折れて山道を温泉へ上がってくる途中にも大きな鬼がいたりして不思議だったんです。

↓温泉内でも食事に行くときに小鬼?が出迎えてくれたり

↓結局最後に記念撮影

 

 宿を出て車で数分登ると駐車場があり、そこから歩いてさらに少し登ってみるとそこは温泉と火山噴気の噴き出す一帯でまさに地獄の様相。

↓奥に行くとお湯(温泉)が川のように流れていました。

 

 まさに「地球は生きている!」って感じで、これは来てよかった。

 さらに、その上車で5分には「大湯沼」という景勝地があるらしく駐車料金も共通だったので折角だからと言ってみたらこれまた凄い硫黄の香りのする”白いお湯の沼”がありました。池からも、そして山らも煙が出ています、コワ。

 

 大きな沼全体から湯気が立っていて掛け流しなんてもんじゃない。これもなかなかない光景で北海道の自然のダイナミックさの一端を見た感じでした。

 

 というわけで予定より1時間程度遅れて出発。方向的に目指す函館は南なんだけど、しばらくは北西に向かわなければならない。大きな噴火湾をぐるっと回るのでしかたがない。

 10:55:トイレ休憩もかねて「道の駅あぶた」で一服。

                          ©google map

↑一番右の赤矢印が上陸地点の苫小牧

右から2番目が第一宿泊地の登別

 青い矢印が休憩した「道の駅あぶた」まだまだ函館とは逆方向の北上中。ここで、栄養補給のため?のジェラード摂取↓

漁港と青い空!↓とても景色が良かったです

 

 20分弱休憩して、再び37号を北西へ! 途中道路工事で待たされなどしつつ、しばらくしてやっと南下を始めた。

 ただ、長万部(上記地図横向き矢印)まで来たところで、すでに12時を回る。函館まではまだ100km以上あるので、このまま下道を行くと本日最大の目的地である「五稜郭」を見る時間が無くなると判断し、やむを得ず高速道路へ(北海道で高速道路はないだろうと思っていたので悔しいが・・)。

 道央道をひたすら南下して約1時間走った13:05に高速の終点”大沼公園IC”。そこから国道5号へ入ってさらに南下して13:21初めて函館山を視認する。あとは、ナビに道を任せて、五稜郭の駐車場へ落ち着いたのが13時半過ぎ。走行距離は343kmに。

↓黒矢印が駐車場

                                                    ©google map

 昼食は予定通り、「あじさい本店」の塩ラーメン(上地図青矢印)。塩味にやや昆布系の出汁が聞いているのか、噂通りのおいしさ。正解でした。さらに店内には古いタイプの飛行機プラモデルが一杯かざってあって気になったが、そこを突っ込んでいる暇はなかった。

 

 ラーメン屋さんをでて、さて五稜郭へ「どっちだ?」と見回すとなんと交差点はす向かいが五稜郭タワー(上地図青矢印)、ここでは時間を有効に使えたがすでに14時過ぎ。チケットを買ってエレベータで早速タワーの上に。

 エレベータを降りて、まっすぐ正面のガラス窓を近づくと真下に五稜郭が5角形の姿を見せる。ここまで来たぜーと感動。良い天気で緑の映える五稜郭の全貌を見つつ、下りてからの散策経路をあらかた決める。

↑タワーから見た五稜郭。手前の鋭い三角形は半月堡。

 タワー反対側に回ると函館山が一望↓(ごめんなさいなぜか写真が傾いてる)

 戊辰戦争の終盤では右側に少し見える函館湾から新政府軍の軍艦「甲鉄艦」大砲を撃って五稜郭内に着弾したそうだが、確かにそんなに距離はないことが分かる。がその他説明パネル・展示物をざっと見て、土方歳三さんの銅像と写真を撮って、タワーを降りる(あわただしい)。(土方さん人気で写真撮影も順番待ちでした。)

 

 

 タワーを降りて散策開始。まずは先ほどタワー上から見えた「半月堡(戦国時代風に言うと馬出ですね)」の橋入り口へ。

 それにしても天気が良い

 橋を渡って半月堡に。

↑半月堡の角。石垣上部は武者返し風に突き出してる。

 

半月堡のとんがり先っちょ↓

↑上から見た通り鋭くとがっており、しかも急な土塁になっていて、すとんと落ちている。反対側から見た写真↓堀から石垣が立ち上がって更に石垣が立ち上がっているのが分かる。

 本来この半月堡は五角形の各辺に五つ作られる予定だったようですが、予算の都合?でここ一ヶ所のみになったそうです。

 

 もう一つ橋を渡って、いよいよ郭内へ侵入↓

 堀、結構広いですね。一番広いところでは30mくらいあるそうです。右にちらっと見えるのは貸しボートの小屋です、やってるのかな? 時間があればボートで回ってみるのも一興かと思いました。

 

 橋を渡って郭内に入ると木戸がありますが、戊辰戦争当時はもっと堅固な門があったんだと思います。そしてこの奥には番所があったとのことです。

 

さらに進むと正面に石垣があり行くてを阻んでます。↓(ちょっとわかりずらいですが)

 

 ここからは、郭内(堀の内側)の外周土塁に上がって左回りに進んでみました。堀の外周部は上から見るより結構高さがあり堅固そう。↓道の左が外側になります。

 土塁上から内側を見るとこんな感じで建物が見えます↓

 

↓土塁のかどっちょ部分(北西角かな)から外部への景色。

 ↓振り返ると土塁上の道がこんな感じで曲がってます。

 

 土塁の内側はところどころへこんでおり、おそらく大砲陣地および伏兵陣地だったかたと思われます↓ (写真↓部分)

 

 堀の内側を2/5周して裏門のあたりまで来ました。↓左の方に裏門の橋が見えます。

 改めて水面までかなり落差があるのが分かります。

 

 裏門から入った右側の石垣・土塁上からの写真。正面入り口と同じように入ってくる人の行く手正面を石垣がさえぎります↓

 

その写真を撮っている私はこんな感じ↓ かなりの高さがあります。

 

 下に下りて、正面石垣を迂回して郭内中心部へ向かいます。

そこには、旧函館奉行所の建物が再現されていました。

 

 入館料を払って侵入。函館の奉行とは関係ないが榎本武明の書などが展示されている。

 以下詳細省略して写真羅列

 全く知らなかったんだけど、名探偵コナンの「100万ドルの五稜星(みちしるべ)」が上映中だそうで、そのスタンプラリーを開催中とのこと。このあとあちこちで・・

 

 奉行所の外に出て、案内の人に「現存する建物あるんですか?」と聞くと、当時の建物として現存しているのは、この復元奉行所のはす前にある、倉庫しかないとのこと、ただ残念ながら入ることは出来ない、残念。

その現存する建物は↓

 

 当日は、日差しもあり意外と気温が高いので休息給水が必要な状況。現存倉庫わきのお茶屋さんでアイスコーヒーを頂いて一服。

↓改めて五稜郭中央部より五稜郭タワー方向(函館湾方向)の写真。

 この場所で、榎本さん、大鳥さん、土方さんその他大勢の方が新政府軍を相手に最後の奮闘をしていたんだと思うと感慨深いです。

 

 その後、また裏門に行って橋を渡り、今度は堀の外側を左回り。

 良い感じの散歩道になっていて、地元の方も散歩(犬連れ含む)されている。途中、小さなドーベルマン的な犬にしわがれ声でめちゃめちゃ吠えられてわろた。外周の堀もはばが10m以上あり、その向こうが石垣&土塁になっているので攻めるのは難しそう、それに、そもそもの構造の目的である、攻める側には死角がないことも良くわかる。よくぞ作ったものである。

東側にはかつて橋があったであろう構造物も確認↓

↑分かりづらいですが、堀内川の一部に石の土台があります。

↓外側を3/5周して最初の橋と橋から見えたボート屋さんのところまで戻ってきました。頑張りました。

 

↓タワーに戻ると改めてここにもコナン!結構人気で写真撮影は順番待ち

 

その他展示コーナーの写真↓

 ↑ここにも土方さん

↓榎本さんと一緒に

↓当時使われた「仏式四斤(ポンド)山砲」の模型

 

 最後に五稜郭敷地端にある、「函館戦争供養塔」にお参り合掌して五稜郭を後にしました。

 

17:20:五稜郭駐車場をホテルに向けて発進。

 

 この日の夕食は、居酒屋さんでラム肉、活イカ、ホッケ焼きなど頂きました。

 美味しかったです。

 

 

 

 

 帰りに函館駅に寄ったら、ここにもいましたコナン。

 

以上、Day3 五稜郭編でした