■慶應大学・日吉/矢上キャンパス(横浜市港北区日吉)

 

1,2年生が通う日吉キャンパスと、理工学部の矢上キャンパス。日吉は付属中高と敷地を分け合ってもいる。

 

日吉は戦前、大学予科(現在の1・2年次)が置かれていたので、まあ、今と同じ役割だ。

 

 

戦中は海軍司令部に徴発されていた。

 

ご存じの方はご存じだろうが、連合艦隊司令部は日吉の地下壕の中に置かれていたし、地上の校舎は、司令部ほど重要ではない海軍の部署に使われていた。

 

 

でまあ、入り口からずどんと、幅の広い上り坂が直進。両わきを見事な並木が固める。

 

 

その先には広々とした記念館前広場。

 

 

前方には日吉記念館。ギリシャ神殿風。

 

広場の左右は曽根中条の戦前物件。

 

左手が1934年完成、現在は付属高校舎。

 

 

右手が1937年。大学校舎。

 

 

どちらも年代相応の、初期モダニズムにゴチックの香りをまぶしたようなデザイン。

 

 

あとは、藤山記念館。大物OBが寄付した。

 

 

そのほかは、なんというか70年代的な校舎が立ち並ぶ、と言えようか。

 

 

 

 

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計のキリスト教青年会館(1937年)もキャンパス端にあるが、ま、建物としては特筆すべきところはなさそうだ。

 

 

というわけで次は矢上。

 

谷筋を隔てた丘というか山の上の広いとはいいがたい広場に、ぎゅうぎゅうに中層校舎を詰め込んだような感じだ。

 

 

とにかくぎゅうぎゅうだ。

 

 

理工学部は、元々は藤原工業大学という名前だった。

 

慶応OBで三井財閥系の大物経済人・藤原銀次郎が私財を投じて1939年に作った学校だった。

 

当初は藤原は独自に大学を作る準備を進めていたのだが、理系学部の増設を検討していた慶應が声をかけ、日吉キャンパス内で一体運営することに。

 

最終的には慶応と統合する計画で発足し、1944年に慶大工学部となった。

 

このあたり、早稲田も似たような事情がある。

 

吉田茂の実兄である大物経済人(小松製作所創業者、日産自動車創業のパトロン)の竹内明太郎が自前の工業大学を作ろうとしていたところで、いろいろ話し合いの結果、竹内の寄付で早稲田に理工学部が作られることになったそうだ。

 

 

 

  交通メモ

 

慶應大学(日吉・矢上キャンパス)

 

住所: 横浜市港北区日吉

 

三田線三田駅から東急目黒線・東横線直通乗り入れで30分。日吉駅前すぐ。矢上はさらに徒歩20分。直線距離は大したことは無いが、坂がきつい。