<抜粋>

…とも少しは気分がよくなる程度は…」「悩める良心が安らぎを得られる程度は…」ところが、現実はそううまくはいっていません。私たちは成長するにつれて、社会的な規範による重圧、そして私生活でも職場でも他人の感情を損ねてしまうのではないかという恐怖に悩まされるようになる。そのせいで自分の望むものを手に入れるという、殺菌処理される前の純粋な自己利益の追求は大きな重荷になってしまっているんです。私たちは人生を一変させるような重大な決断だけではなく、たいして意味のないことまで、よくよく考えて…、あれこれ思案して…、じっくり検討して…、ためらう。程度の差はありますが、愛され、罰を受け、教育され、さまざまな思想に感化されることによって、私たちが大人として自分の人生をコントロールし始める頃には、つまり成長して他人に自分のことを決めてもらうのではなく自分自身で決断を下す力を身につけた頃には、私たちは自分の利益のためだけに行動することが怖くてたまらなくなっています。自分の行動による結果をまざまざと見せつけられ、凍りつく。選択という、足のすくむようなヘッドライトに目がくらみ、混乱して立ち尽くす。あれほど苦しい思いをして勝ち取った自由によって、機能停止に陥ります。実存的恐怖という考えは、言うまでもなく、新しいものではありません。これは古代ローマの哲学者たちにまで遡ります。しかしこの考えに本当の意味で光を当て最初に着手し、腰を据えて明確化しようとしたのは、たっぷりとあごひげを生やし、月桂冠をかぶってトーガをまとっていた古代の偉大な哲学者ではありません。先ほどチラッと話題にも上りましたがそれをしたのは十九世紀のデンマークの哲学者キルケゴールです。彼の主張を簡単に説明しますと、キルケゴールはある素晴らしいたとえを思いつきました。彼は次のように説明しています。まず、あなたが断崖絶壁の端っこに立っていると想像してみてください。ここであなたの中に二種類の恐怖が生じると思います。一つは下に落ちるかもしれないという恐怖(きわめて当然です)。二つ目は自ら飛び込んでしまうかもしれないという恐怖です。これは、深淵に飛び込むか否かは、完全に自分次第だという恐ろしい自覚に他なりません。あなたの内には完全な選択の自由があります。まさに目の回るようなたとえと調和させて、キルケゴールはこの恐怖を存在論(存在の意味や根本原理を問う哲学)的に、次のような気の利いた言葉で説明しています。「不安は自由のめまいである」と、キルケゴールの主張によると、私たちは日常生活で個人的、道徳的、または金銭的な問題(だけではなく、他のあまたの問題)を崖の上で決めかねているときに、その種のめまいをいつも感じているらしいのです。しかし物事の壮大な成り立ちにおいて、これはたいした害にはならないと彼は考えました。というより、実際にはその逆で彼は役に立っていると考えました。私たちは物事を決めかねることによって、あまりにも”とっぴな”ことはしなくなり、結果として邪まな衝動が抑えられ、世の中はまともに保たれているのだと。たしかに、不安のめまいは私たちを意気消沈させることも多々あります。そのせいでうつ気味になったり、不安障害で本格的な心因性めまいを誘発してしまう可能性も出てくるでしょう。それでも通常は、デメリットよりメリットのほうが多いとキルケゴールは主張しています。自由のめまいは私たちの自己認識を向上させ、個人としての責任、そして地域社会での責任の両方をより強く意識させることになる、と。たしかにそうかもしれませんが、弊害もあります。高い場所を極端に怖がるようになる人が出てくるかもしれません。それにもっと言わせていただければ、そもそも高い場所に登るのが怖くないとしても、頂上に着いて、ぜんぜん高くないのに飛び降りたくないという人も出てくるのではないでしょうか?問題は、正しいバランスを取れるかどうかにかかっていると思います」

「エピロスの…」

「エピクロスですね」

「失礼しました。エピクロスの言う快楽の実現というのは何だか分かるような気がします。実際、会計操作をしていて楽しかったですし、そんな大それたことを毎日行っている自分に酔っていたのも事実です」

「ちょっと言い忘れていましたが、エピクロスのアタラクシアには「四つの薬」が存在します。ちょっとうがった見解になるかもしれませんが、涼海さんの実体験を活用して説明させていただきます。まず第一の薬は「神々を恐れないこと」です。涼海さんは、経緯はどうであれ神をも恐れぬ「復讐」という我々が避けては通りたい畏怖するものを実行し、それを無事完了させました。次に第二の薬は「死を恐れないこと」です。もし涼海さんの虚業が露呈すれば、涼海さんご自身それ相応の罰を受けなければなりません。実際の死ではなく、社会的な制裁を受ける死かもしれませんし、自分の中の大きな何かが死滅していたかもしれません。ですが、涼海さんは虚業をすることに義務感を感じ心血を注ぎ、その瞬間瞬間かけがえのない時間を生きていた。仮に虚業の全容が暴かれその場で朽ち果てたとしても、何の未練もなかったことだろうと思います。そして第三の薬は「快楽の限界を知ること」です。虚業を通して、涼海さんは日々周囲を欺き続けました。しかし、こんなことがいつまでも続くとは口に出さなくても必ずしも思っていなかったことでしょう。それに虚業は虚業であって金銭目的ではない。すべては店長に「同じ思いを味わわせる」という一種執念みたいなものが涼海さんにはあった。だから、その虚業という快楽…、いや金銭という絶対的な誘惑に溺れることはなかった。常に虚業の先を見据えていた。今までの緊張感から解放され、ある一瞬を迎えたら、あとは自分の中には何も残るものはなくあとはただ落ちていくだけだということを理解していた。虚業以上のものを求めたり、虚業に妥協を求めたりもしなかった。虚業の限界を知っていた。そして最後の第四の薬は「苦痛の限界を知ること」です。第三の薬の時に話してしまいましたが、虚業を終えたあとのことは何も考えていなかったのだと思います。涼海さんの虚業は、その瞬間を迎えた時に集結するのですから、そこから先は自分の道標を見失って何を目指して日々過ごせばいいのか戸惑うことでしょう。ある種廃人になってしまうかもしれません。その瞬間を迎えるまでの自分の過去の栄光にしがみつくかもしれません。これから先今までの自分の才能?を試す機会がないという現実に愕然することでしょう。逆説的な弁明になりますが、確かに虚業を通して周囲を欺き混乱に陥れる行為は決して称賛されるべき行為ではありません。しかし、涼海さんには他人にどう嘲られようともその当時はそれしか信じることできず「」の意味を見いだすことができなかった。それならば、今はその唯一の糧を生きがいにして生活すればいい、涼海さんの虚業に関して、補足させてもらうと、涼海さんはあの時店長から受けた仕打ちと同じ思いを店長に味わわせようとしていた。それはデカルトのいう「方法的懐疑」を用いて考えれば理解できます。この世で唯一確かな存在である自分の意識が、店長許すまじと訴えていたんですから、しかしパスカルの「幾何学の精神」と「繊細の精神」を考えると、はたして本当に店長は「悪」なのかと考えざる得ない状況になります。幾何学の精神では、本当に困っている従業員をそばで嘲笑う行為は「悪」と感じるでしょう。他方、繊細の精神では、常日頃から嘲笑っていたのではなく、その瞬間だけ、一緒に働いていた長い時間を考えると、その何千分の一の時間だけを切り取って、涼海さんは虚業を決意した。であるならば、その一瞬だけの行為を根に持、日常的に虚業をするのは果たして正しいことなのか?と疑問を持ってしまいます。ですが今更もう過去の出来事