昨日はグランフロント大阪 北館 B2Fで開催された大阪お城フェスに行ってきました。
そこでは原城跡も長崎県南島原市の世界文化遺産としてブースが設けられて紹介されてました。
島原半島観光連盟公式ホームページ「雲仙温泉郷」 (shimakanren.com)
島原の乱は松倉勝家の悪政とキリシタンに対する弾圧が原因である。
また、実質4万石程度の石高を10万石と過大に見積もり、更にこれまた分不相応な島原城を作って、米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して取り立てたことでたまりかねた領民は、代官所を襲撃して代官を殺害した。これに浪人や地侍やキリシタンが加わり、最終的に37,000人になったといわれる。
ちなみに島原の乱に加わったキリシタンはカトリックであり、長崎奉行の要請を受けて商船を原城に派遣したオランダはプロテスタントである。
島原の乱は必ずと言っていいほど日本の歴史の教科書にのる最後の大規模な百姓一揆であり内乱である。
そしてそれはザックリ言ってしまえば父・重政と松倉勝家の失政の所為である。そのためか島原の乱に参加したキリシタンは殉教者と認定されないままである。
そして乱後、松倉勝家は数々の失政の責任を取らされ大名の身分でありながら罪人として斬首刑に処せられた。これは江戸時代全体を通しても勝家ただ一人だけである。
もう一人の当事者の寺沢堅高は天草領4万石を収公されたに留まったが、1647年に自害した。享年39。嗣子はなかったため寺沢家は断絶し、唐津藩は改易となった。
松倉重政・勝家の親子はどの時代に生まれても似たような末路をたどるだろう。