続き
高校卒業後、海外に留学して帰国して
一時帰国していた時、
祖父母が近所のお寿司屋さんに連れて
いってくれた。
中学の後輩の女の子が
その店の娘だったようで
板前のお父さんと
お母さんを手伝っているのか
店にいた。
祖父は
「この孫は留学中で明日にはまた
海外に戻るから
地元のお寿司屋さんに連れて
来たんだよ」
というようなことを
結構楽し気に語っていた。
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祖父は、私の気持ちなどまるで
考えず他の子を過剰にちやほやし
それに対し意見することは
決して許さない、一方で
私の取った賞状を額縁に入れて
茶の間に飾ったり
留学していることを
「この子は度胸がある」と
ゲラゲラ語ったりするところも
あった。
毒母・毒父は自分(または妹)
が主役(ヒロイン)
でないと気が済まない人たちで
私のもらった賞や成績表などに
興味を持ったことは一度もなく
全てなかったことにされた。
そういう意味で祖父は
少し憎めないところがあった。
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お寿司屋さんはこっちがお客
なので、
「いいねぇ、そのうち青い目の人
連れて来たりしてねえ」
みたいな感じのことをにこにこ
言っていた。
特別に「すごい」とか
ほめそやされて、
チヤホヤされたわけではない。
でも、中学の一つ後輩の女の子は
すごく焦った感じで
店の裏にさっと隠れて
でも完全には隠れられず
私たちの席からちょっと
見える場所だったので
携帯を出して、ガチャガチャと
大げさにいじっていた。
両親である板前さんとおかみさん
は何も言わなかった。
今思えば
とても普通のこと
”海外留学から一時帰国中の
先輩(私)が来た。
中学ではガリ勉扱いで
私よりカースト下位だった
はずなのに!
両親はお客だからって
その女を普通に持ち上げてる..
自分は作業着来て田舎の
親の寿司屋の手伝い..
これじゃなんか私がみじめなほう
みたいじゃん”
...のように感じて
裏にさっと隠れて携帯をいじって
少しでもリア充アピール。
みたいな感じだったんだろうと。
でも当時の私はこう思っていた。
(えぇ?
ああいうふうに他の人でも
感じるの?
ああいうふうに感じていいの?
感じることを自分に許していいの?
そして、それを態度に出していいの?)
私は、こういう部分が
ちゃんと発達しなかった。
とてもゆっくりゆっくりしか
発達しなかったんだと思う。
これは祖父母が他の子を
私の前でほめちぎり、
私が、このときの後輩の子の
ような嫌な態度を取ろうものなら
怒られ、嫌だと気持ちを伝えれば
「なんでもないことなのに
そんなこというなんて
キチガイ」と
自分がどう感じるかさえも
頭から否定されたからということが
あった。
でも、もう一つ理由があった。
毒母だ。毒母は、私が目立って人に
ほめられた時など
「目立とうとして心が汚い」
と妬みに歪んだ顔で耳元で囁いた。
他の子のことは鈴のように優しい声で
褒めて、私にスポットライトが
当たるとギロリとにらみつけ
飾らないやさしいおばさんの顔で
スポットライトを他の子に戻す。
例えば他の子が同じような
目立とうとする行為をすると
「〇ちゃんは気付いてないだけだよ」
と慈悲の笑顔でいつも私以外の子
のことは養護する。
たくさん書いてたら
きりがないけれど
毒母のこうした行為を
毒母が私を愛していなくて
世界中で私だけから
スポットライトをずらしたいから
やっているだなんて
分析するのはとても怖かった。
だから自分の感じることには
灰色のセメントを塗って
感じないようにし
なんとか良い自分になれば
いつか母に愛されると思っていた。
普通の子だったら
「他の子ばっかりちやほやして嫌だ」
とか普通に感じるはずのことを
自分に許さず、にこにこして
嫉妬なんかしない自分を
本当の自分にしないと
いけないと思い演じるように
なっていた。
そういうわけで
あとに妬まれるような立場に
なると、
「いいよねー」といわれるとかの
分かりやすい形ではない形
で妬みがあらわされることが
とても多かったが
「嫉妬されてるのかな?」と
とりあえず認めて、
気持ちの処理をすることができず
(嫉妬されてるなんて思っちゃ
いけないよね。
そんなこと思うから
嫌われるんだよね。
なんとかしなくちゃ
自分を変えて良い自分にならなくちゃ)
のようにぐるぐる思考に
何年も陥って
せっかく良きパートナーと出会い
可愛い子を授かったのに、
他の人からの悪意を処理できず
鬱に陥って溺れていった。
続く